この家に嫁に来てからずっと、私はこの部屋で生活している。
10畳ほどの和室で、三方は襖に囲まれ、残る一方はこぢんまりした中庭にむかってひらけている。玄関から長々と続く、嫁に来るとき一度通ったきりの輝く蛇のような回廊と、少し幅のある濡れ縁を横切れば、庭に降りることもできた。中庭には洒落た前栽に灯籠が林立し、ぽつぽつと置かれた石畳の向こうに小さな白い倉が建っている。倉の入り口はかんぬきがかけられ、二階部分の窓には格子がはまっていた。
夜、眠るために中庭に面したガラス戸を閉めきるが、月がない夜もなぜか倉だけはくっきりと、ガラス越しにそそり立つように目に映る。
目を室内に転じてみる。贅を凝らしたしつらえの部屋で、襖絵はどれも鬱蒼とした竹林が描かれており、座っていると青々とした笹を揺らす風の音、いましも土を割って顔を出す筍のひそやかな軋みさえ聞こえる心地がする。
床の間には荒々しい筆致の書が飾られているが、それが何という字なのか、果たして漢字なのかも無知な私には読めない。手前に置かれた花器には季節の花が彩りを添えている。これは数日ごとに女中が入れ替えにくる。女中たちはいつも揃いの着物を着ていて、おそらく入れ替わっているのだろうが誰が誰だか分からない。顔にいつも白い布を垂らして隠しているからだ。
「奥様」
ひそひそと低い声がして、見るともなく眺めていた巻物から目を上げた。白い顔布を垂らした女中が敷居の向こうに膝をついている。
「何」
「大奥様がお越しでございます」
「ああ、そう」
姑は音もなくすり足で進んでくると、注意深く敷居をまたぎ越し、膝でいざって私の正面に座ると品のある仕草で頭を下げた。姑はつるんとした剥き身のゆで卵のような肌の年齢不詳の小柄な女である。ただ髪は傷みがちで、きれいな和髪に結ってはいるが、ところどころほつれた乱れ毛が落ちている。年齢だけでなく、彼女について詳しい情報を私は何も知らない。結納を執り行ったひろびろとした客用座敷で、ただ夫の母だと紹介されただけである。嫁入りした後は日に1度、鐘が鳴る午後4時頃にこうして顔を見せにくる。
女中が供した茶を含み、深緑の餡を包んだ最中を喫しながら、姑は白い瓜実顔に抽象的な笑みを浮かべていつもぼそぼそと話す。総じてこの家の人間は上も下も大きな声を出すということがない。
「あれとはうまくいっているか」
「はい御義母様」
「昨夜は訪れがあったか」
「はい、深更に」
「あれの姿は見たか」
「いいえ、月がございませんでしたので。ただ黒い影としか」
「子はできそうか」
いつも同じ問いで、私ははたと口ごもる。
「……ただ励むばかりでございます」
夫は、いつもきまって月や星明かりのない晩に、闇を縫うようにして中庭からこの部屋に忍んでくる。回廊からではないとわかるのは、倉のかんぬきがはずれるゴトンと重い音がするからだ。扉が開き、中から人影がするりと躍り出ると、その姿は白壁を背にして妙に黒々と大きく見える。まるで闇の中にそそり立つ雄竹のようである。
ガラスの引き戸を開け、回廊を横切り、敷居をまたぐと夫は私の布団にするりと潜り込んでくる。ふわっと奇妙な香りが鼻腔をつく。何年も押し入れにしまい込まれたままの竹行李のような、乾燥した黴と埃のような香り。
「緋沙子や」
「はい」
私の名前は緋沙子ではないが、別に何と呼ばれようがこだわりはない。
「今宵も参ったぞ」
「嬉しゅうございます、旦那様」
夫が動くと、湿ったねっとりした土のような感触と、何かヒゲのような細い糸が無数にざりざりと布団を擦る音がする。
「緋沙子や」
「はい」
夫は私の髪を撫でる。
「髪は伸びたか」
「さて、どうでしょうか…」
夫の愛撫はいつも髪を撫でるところからはじまる。そしてぎこちなく続いていくが、あまりそれに気を払っている暇がない。というのも、夫が私の布団に潜り込むのを見計らったかのように、中庭に面していない三方の襖の上、天井との隙間に埋め込まれた欄間の、その見事な彫刻の間隙がぼうっと明るくなって、鳴り物と歌声が響き出すからだ。
聞いたことのない楽器が数種類と、あとはこれだけはわかる竹に穴を開けた笛の音が、高く、低く、糸を撚り合わせるように賑やかに続く。歌声はどこの言葉かもよく分からない。きちんとした旋律があるわけではなく、風が吹いたり止んだりするように、強まったり弱まったり、またふいに止まったりしながら淡々と流れていく。どこか眠気を誘うような音と声は単調ながら、なぜか聞かずにはいられない。
欄間が陰って音楽が鳴り止む頃、夫はまた倉へと帰っていく。疲れた体を布団に横たえたまま見送り、ふと枕の上の首を部屋の奥側へと向けると、いつも同じ幻影がそこにはるばると広がっているのだった。
10畳のその部屋の、三方すべての襖がいつの間にか開け放たれている。灯りはどこにもないのに、青々とした畳の連なりが山脈の尾根のように彼方まで続いている。見事な遠近法で遠くの1点めがけてぎゅっと収斂していく広大な座敷の奥行き。そのすべての部屋に無数の白い布団がぎっしりと、延々と、また整然と敷かれているのだ。それぞれの布団には顔布をつけた女たちが死んだように横たわっている。布団と布団はそれぞれ紐のようなもので結ばれていて、最も太い紐は私の寝ている布団から伸びている。すべての女達は私とつながっているのだ。すべての女達が夫の愛撫を童謡に受けたのだと私は知る。重い手を持ち上げ、そっと撫でた己の頬は心なしかつるんと滑らかだ。そうして私は、義母の肌にまた少し近づいたことを知る。
「おまえは出来た嫁である。嫁に来たのはついこの間だというのに、もう髪だってぐんと伸びてきた」
義母はぼそぼそと呟く。ひと囓りした最中の、深緑色の餡は濃厚で粘土が高く、またひどく甘い。この家に嫁に来てからというもの、私はこの最中が大好物になった。
「花が咲く前におまえのような嫁を迎えることができたのは我が家の僥倖であった」
す、と義母が膝を立て、立ち上がった。両手をついて、私は低く頭を下げる。この義母の偉大さがここのところようやく、朧気にわかってきたのだ。はるかな昔からあの布団に眠る女人たちのすべてを一手に守り育ててきたのは彼女だった。それが今、こうして次世代の私に託された。そういうことなのだろう。
選ばれたという事実に、うっすらとした喜びを私は覚え始めている。
「おまえの名前だが」
「はい、御義母様」
「子が生まれたら、もう緋沙子でなくとも良いのだよ」
「はい、緋沙子様」
「好きな名前をいまから考えておけ。そうじゃなぁ、おまえの名前が決まるまでぐらいなら……」
義母は、つと、どんよりした曇り空を背にして立つ白壁の倉を眺めやった。
「……あれも、たぶん保つだろうよ」
義母を見送ってしばらくすると、女中が床の間の花を入れ替えに来た。夕暮れの空は煮染めたようなあかね色に染まり、カラスが黒い粒となって無数に飛び交っている。床の間の掛け軸の漢字がもう少しすれば私にも読めるようになるだろう。読めないなりに、今でもなんとなく意味の目星はついているのだ。
――殖。
「奥様」
珍しく、やや弾んだ声音で女中が言った。
「何」
「帯を少し……おずらしいたしましょう。お苦しそうで」
「あら、そう」
半ば解かれた帯の下、腹へと続く臍の深い穴に、確かにちょこんと――青く柔らかな芽が覗いているのを、私は見た。

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