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何が公平なのか。

古き良き時代と過去を懐かしむ訳ではなく、
現在の学校教育に不足しているもの、
社会に不足しているものを教えてくれる記事です。

小学4年生のことだ。私は、朝の教室で、宿題の日記を書き忘れたことに気づいた。ムダだとは知りながらも、わらにもすがるような思いで日記帳を開いた。するとそこには、昨晩の親子の会話がそのまま書きこまれていた。 母の字だった。昭和1桁生まれで旧字体を使う人だったから、代筆がばれるのは必然だった。それでも私はその日記を提出した。学校で一番きびしい先生だったから、気が気ではなかったが、奇妙にも、先生からは何のおとがめもなかった。
10年の月日が流れた。大学生になった私は、母の店で当時の先生とお酒をご一緒させていただく機会を得た。ずっと不思議に思っていた私は、先生に日記の話をたずねた。先生はしっかりと覚えておられ、こうおっしゃった。  「気づいとったよ。あれは、教師人生、最初で最後のできごとやったね。疲れて日記を忘れる日はみんなある。でも、お母さんは、それを見逃さんで、ちゃんと気づいて代筆なさった。お母さんは必死で子育てされとった。そんなお母さんの気持ちを思ったら、井手くんを叱れるわけがないやろう」

素敵な先生じゃありませんか。
この「分かっていても、あえて見過ごす」ことが案外難しい。
なぜなら、他の人から避難を浴びることも覚悟する必要があるから。
腹を括って、目の前の生徒を受け止める覚悟が試されます。

例えば、バイオリンを習えない貧しい家庭の子がいる。その子と平等にあつかうために、バイオリンを習っているお金持ちの子は特別扱いしない。きちんと自分で宿題をやってくる子がいる。だから親が代わりに宿題をやった子を叱る。
まったくの正論だ。だが、学校の先生は、この<正論>しか選択してはいけないのだろうか。もしそうなら、公平さの名のもとに、禁止事項が増える一方ではないだろうか。 必死に頑張っている、豊かな家庭の子どもを励ましに発表会を見にいく。貧しい家庭の親御さんの苦労を察し、みんなで胴上げをする。お金持ちも、貧しさも関係ない。そんな理由で線を引く必要はない。 時にはある人が、別のときには別の人が、それぞれの頑張りに応じて特別扱いされる。大事なものを大事にする。そんな公平さ、いや、やさしさもあってもいいのではないだろうか。

筆者の唱える「公平さ(やさしさ)」は、
正直言って現在の学校現場では無くなりつつあります。
感情を抜きにする紙の上での仕事が増えたことが影響しているのか、
社会の風潮がそれを許さなくなったのかは分かりません。

でも「公平性」の名の下に、
同じ規程で、同じように当てはめていく。
マニュアル化は良いこともありますが、
こと教育に関して言うと、子ども一人一人に千差万別の対応があって
然るべきではないかと思うのですが。

子どもの権利を守りながら、先生たちが教育に専念できる環境整備を急ぐべきだ。先生の数を増やす。先生たちの学びの機会も増やす。社会の子育てが可能となるような仕組みを地域に落とし込むことだって必要だ。
お金はどこから?税を払うべきだ。私ならそうしてほしい。人は国の礎。すべての国民が本気で考えるべき、この国の未来の礎のためなのだから。
教育をよくするのは専門家ではない。未来を本気で考える私たちの意志なのだ。

「国家100年の計」たる教育を、
この国はあまりにも軽視してきたように思います。
当然、年金や保険料も大切なのは分かりますが、
これからの日本の将来を担う世代への投資を、
もっと本気で検討する必要性がある気がします。

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