中国皇后記8 稀代の女政治家 興聖皇后尹氏(尹夫人)〜後編〜
こんにちは、翎浅(れいせん)と申します。今回は、五胡十六国時代の後涼の賢后·尹氏(いんし)の晩年についてです!こちらは後編となっております。
〜軽くおさらい〜
美しく、聡明な尹氏は、2度目の結婚で李暠(りこう)に嫁ぎました。夫婦はお互いを支え合い、涼を建国して李尹王敦煌と称されました。そんな夫が逝去し、西涼の行方はいかに…?
西涼の滅亡
417年、李暠は息子に天下統一を託して亡くなりました。享年65歳。後を継いだのは、李暠と尹氏の息子です。尹氏は王太后となりました。しかし、息子は父達の政策とは反対の政策を取り、厳しい罰や宮殿にお金をかけたりと民心を失う行動をしてしまうのです。西涼は次第に不安定になっていきました。西涼の状況を聞いた北涼は、好機だと判断し北涼との戦が始まりました。北涼は引いたと見せかけて伏兵を用意し、西涼軍を待ち伏せしていました。尹氏は調子に乗って軍を更に進めようとする皇帝を必死に止めました。「西涼は建国して間もなく、まだ国は未熟なので他国を攻める力はありません。今大事なのは、治世を安定させ、国をより強くすることであり、自らの武勇のために戦を行ってはなりません」これは的を射た意見であり、これを聞いていれば西涼がこんなにも早く滅ぶことはなかったでしょう。皇帝は初めこそ母に従順でしたが、横暴で好戦的な性格からその言葉を無視しました。 西涼軍は初め、勝利を治めて皇帝は得意げになり更に北涼に侵入しました。尹氏も息子なら戦の勝利を治めると信じていたことでしょう。しかし、これを聞いた尹氏は息子に勝ち目がないことを悟り、嘆いたといいます。尹氏の言った通り、軍は全滅し皇帝は北涼で処刑されました。その後、李暠の庶子が即位しましたが、間もなく戦に破れて自殺し、21年で西涼は滅びました。
その後の尹氏
北涼は尹氏と娘の敬愛を捕らえ、投獄しました。その途中で、尹氏は北涼の君主に対面しました。尹氏は初め、彼を無視しましたが、君主はそれでも尹氏に近づき、挨拶して宮殿に連れて行くことにしました。この時、尹氏は50代です。普通に考えてもその扱いは酷いです。これに尹氏は「あなたは李家を滅ぼしただけでなく、このような恥知らずなことをおっしゃるのですか」と従属に反発し、君主を意図的に怒らせました。君主の側近が「お二人の命は、こちらが握っています。言うことを聞くべきです」と忠告しましたが、尹氏は「生死は神の意志です。私は老い、多くの家族を失いました。しかし、敵国の側室となって先祖に恥をかかせるなど、生きている意味はありません。私は早く死ぬことを望みます」と熱烈に話しました。これを聞いた君主は、尹氏の忠義と勇気に感銘を受け、彼女を傷つけない代わりに、敬愛を自身の息子に嫁がせることにしました。尹氏は皇娘娘台という場所で生活しました。
李敬愛(397年~438年)は、尹氏が34歳の時に生まれた子供でした。敬愛は母の為にも沮渠牧犍(そきょぼくけん)に嫁ぎます。この時、24歳でした。容姿が美しく、夫に寵愛を受けました。二人の間には長男が生まれました。更に沮渠牧犍が即位し、敬愛は皇后に立てられました。しかし、その幸せは長く続きませんでした。北涼は大国である北魏と長く対立していましたが、ついに同盟を結ぶことにし、北魏の武威公主を娶ることになるのです。(ちなみに武威公主の父は明元帝です。中国皇后記3に登場しました)
敬愛の死
武威公主との結婚は、李敬愛に大きな悲しみと苦痛を与えました。大国の公主と亡国の公主では、どちらが正室となるか一目瞭然でした。李敬愛は尹氏からしっかりと教育を受けていましたから、国事と妻に挟まれる夫の苦痛を理解し、自ら皇后を辞しました。名誉を守るために尹氏の許しのもと、酒泉へと旅立ちました。夫はここが李敬愛の故国として、身元の安全を保証しました。これが李敬愛に対する夫の最後の温情でした。尹氏と敬愛は再会を果たして、李暠の墓参りをしました。亡国の者の扱いにしては、非常に高待遇でした。しかし、今まで裕福に暮らしていた李敬愛は、突然不自由な生活を強いられ、また夫や息子と会えないストレスから、体調崩してしまいます。尹氏は娘の為に酒泉に転移を許されました。
尹氏は冷たくなっていく娘の両手を撫で、嘆きの声を上げました。「我が娘…私は国も家族も壊されてしまった。娘の死を見るくらいならば、私は早く死ぬべきだった。敬愛も死ぬには遅すぎた…」と。敬愛を埋葬する時、尹氏は憎しみから涙も出なかったと言います。驚くほど冷静で、冷酷さを感じさせるほどに、尹氏はこの世の無情さを悟っていました。
尹氏の最後
すべてを失った尹氏は、李暠の孫達が伊吾(いご、ウイグル地区)にいるという情報を聞きました。最初は罠ではないかと疑っていましたが、ついに決心して亡命します。北涼の騎馬が追いかけて来ましたが、尹氏は確固たる意志を表明し、騎馬は引き返していきました。尹氏は砂漠の中を歩き続け、ついに子孫達と再会しました。しかし、老いと心労により尹氏の寿命は尽きようとしていました。尹氏は、息子の子や庶子らにこの屈辱を必ず果たすように言いました。最後は子孫達に見守られて、亡くなりました。享年75。
当時、李家を統治していた李宝は、有能で旧地を一部奪還し、尹氏の願いを叶えましたが、民の為にも北魏に投降して、李家は滅亡せずにその後も王朝に仕えました。真に尹氏の願いを叶えたのは、尹氏の実孫である李重耳の子孫·唐の太祖である李淵(りえん)です。彼は、李暠を正統な皇帝とし、興聖皇帝と追贈し、その妻である尹氏を敬いました。二人は隋唐王朝の人物の先祖とされ、その素晴らしい基盤のお陰で、唐は栄えたといっても過言ではありません。尹氏のために寺が築かれ、今では尹夫人台と呼ばれています。
まとめ
今回は、尹氏について長くなりましたが、紹介させていただきました。尹氏と李暠の築いた全てが素晴らしいものであり、民を一番に重んじるものでした。それは、唐の時代にも受け継がれ、中国で最も栄えた時代が生まれました。夫婦2人だからこそ、出来た素晴らしい功績だと感じました。(賢后だー!)それでは以上で終わりとさせていただきます。
この記事が参加している募集
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?