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[15]「進撃の巨人」は「愛の物語」か。①


(※進撃の巨人の話。
概念的なネタバレはあるかもだけど無いに等しいです。)


先日行われた「AttackFes」にて、梶裕貴さんが「進撃の巨人は愛の物語」と仰っていたというレポを見て、直観的に「なるほどな」と思いつつ言語化が足りないと思ったので掘り下げていきます。

私が進撃を一言で表すなら「ファンタジー風味の現実模写」。

そもそも私がこの作品を好きなのは、人喰い巨人がいたり人間がぴょんぴょん飛び回ったり(言い方)するファンタジーなのに、リアリティありすぎて異世界の他人事だと思えないから。

現実をフィクションに落とし込む技巧がもたらす圧倒的没入感に、五体投地してるから。

私が梶さんの「愛の物語」に直観的に同意したのは、私自身が「世界の根源は愛」だと思っているからだと推察します。
(論理が飛躍した主張からお察しの通り、もちろんこちらも直観的な意見です。今から言語化しますね。)

1.「世界」の定義

そもそも私の「世界」の定義から申し上げますと、それは「私が認知できる範囲」を指します。
もちろんその中には「私」自身が入っています。むしろ「私が認知できる範囲」が世界なのですから、私自身が「世界」の軸と言っても過言ではないです。

じゃあお前は一個人の世界だけを「世界」と言うのか、一般化された世界の議論を放棄するのか、というお話になると思います。

しかしそうではありません。

そもそも私の考えの前提として「世界は絶対的な存在ではない」というものがあって、
その論拠としては、「世界」の構成要素(これは世界に属する(ex:宇宙)、でもこれは世界には属しない(ex:天国)という感じで存在するか否かを取捨選択された後残ったもの。)は個人の判断に委ねられるケースがかなり多いと言えるから、というものがあります。

というか、個人が一般化されていると思っている世界は、大概人の思う世界とどこかしらズレていることが多いので、見かけは一般化されているようでも本質的には一般化出来ていないのではないか、という個人的な印象です。(すみませんデータとかは無いです)

そうであるなら世界を一般化することは出来ず(むしろ考察の可能性を潰す愚策)、結局は個人の価値観に委ねられるので、それなら個人が認知出来るもの(五感にはこだわりません。そもそも五感が正しい反応してるのか疑問だし、五感以外にも認知機能あるかもしれないしね)が世界であると定義した方が、まだ健全な議論になると思うのです。

(余談ですが、自分で認知出来ないものすらも世界とする人間の思考の理由としては、単純にその方が人間の社会システムの上で何かと都合がいいからだと推察します。)

2.「根源」の定義

ここでも言葉の定義から行いたいと思います。
私が意味する「根源」とは「誕生の所在」です。「始まり」っていうのも端的でいいですね。

そこから派生して「存在理由」もニュアンスとして定義に付け加えたいです。

なぜなら、前述の通り「世界」は個人による選択的な存在であるなら、「世界」に組み込まれた要素には何かしらの意図が生じていると考える方が筋だし、「存在理由」があって世界に生じた(=主体に認知された)と考えるのが自然かな、と思ったからです。

つまり、「世界が生まれた理由は愛」という事を私は言いたいわけです。

(耳障り良すぎて綺麗事みたいですね。
そうです、紛うことなき綺麗事です。
というか、この文章自体私の世界に対する願望を書きたいんだから綺麗事でいいんです。)

3.「愛」の定義

続いては「愛」の定義です。

(あくまで私の進撃解釈の中での「愛」であり、現実世界の恋愛や友愛と同義に扱ってる訳では無いということをご了承ください)

ほんっっっっとうに難易度鬼高の言葉ですが、ここではシンプルに「存在の受容」としておきます。
なぜなら基本的に「もの」の存在意義って何かしらの利用価値がある、有用であるからありますよね。目とか服とかスマホとか。でもそういうのって「もの」を使う他者がいるから成り立つ話ですよね。

そこでね、「世界」には他者にとって価値があるかわからないのに存在してるものがあることに気づいたんです。


「私」です。


私以外のものは存在意義がある。私という他者がそれに価値を見出し受容しているから。

だけど私の世界の中で「私」だけが他者から存在を求められているのか判断がつかない。なぜなら私は他者ではないから。

今のところ物理的に人の役に立っている自覚はないし(バイトとかでは役に立ってるかもだけどそれは私の存在そのものではなく労働力としての価値なのでここでの「私」とは異なります)、
むしろ親のお金で生かされているので収支マイナスだと言えると思います。

だけど、私に目に見える価値がなくとも、私を好いてくれる人や、家族とか友達とか同級生とか先輩と言って私がそこに居ることを受け入れてくれる人達はいるわけです。

それは私にとって間違いなく「受容」なのですが、彼らが「私」に感じている価値は目に見えるものではない、精神的なものだと思うのです。

その精神的な受容を私は「愛」だと解釈しています。

(多分細かく言えば「愛」に当てはまらないような受容もあると思うし(嫌いな奴とかね)、そんなスケールの大きい言葉が合わない受容(知り合いとか)もあると思うけど、分岐したら収拾つかなくなりそうなので、相手に向ける感情の機微を総じて「愛」とします!)(暴論)


(②へ続く)


(持論語りすぎて全く進撃の内容と結びつけらなかったので文章分けますわね)

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