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[12]思考の自傷行為。

友達といて楽しい時間も
推しを見て楽しんでいる時間も

その人でなければいけないなんてことはなく、

この瞬間が永遠に続けと思っても、
日常に戻ればその感覚を忘れていってしまう程度のもので、

その一瞬を難しいこと考えずに楽しめればいいくらいの刹那的なものでしかない、

と考えてしまって勝手に虚しくなる。



この楽しい時間が好きすぎるあまりに、
刹那でしかないその時間に執着しないよう、自己防衛している気がする。

それで私は大好きな「人との繋がり」に対して、こんなに淡白な考え方をしてしまうのか。


最近の私の思考パターンのほとんどに、「自己防衛」という無意識が潜んでいるような気がして嫌だ。

自分が傷つかないように、
自分が好きな人にも自分が好きな時間にも

「どうせ今だけ。
どうせ普遍的なものじゃない」

とか距離を置くようになってきて嫌だ。

好きな気持ちはあるのに、
それが絶対的なものだという確信がない、
もしくは絶対的ではないとわかっているから、なくなった時に傷つかないように心を寄せすぎないようブレーキをかけている。


それがくそつまらない。

何個か前のnoteで「私は執着できない」みたいなことを言った気がするが、これもその一因かもしれない。

最近みた筋トレ趣味の方のツイート(普段はとても心が元気になるツイートをしてらっしゃる方)で、
「執着しないのはいい」みたいなこと言ってたし、それが心の平穏とかにいいのだろうということも知っている。

だけど私は、もっと心を動かされたいのに。
自分以外の何かで死ぬほど感情を揺さぶられたいのに。
せっかく前頭葉大きくていろんな感情を、世界を感じられる人間に生まれたのに、
たかだか自分1人の保身とかいうつまらない本能に邪魔されたくない。

大好きなものほど虚しさを見出そうとする自分が本当につまらん人間すぎて嫌。

なんでもっと心から愛せないんだろう。
なんで自分の好きな気持ちにブレーキをかけるのだろう。
なんでどうせ代わりはいるとか、自分じゃなくても、その人じゃなくてもいいとかつまらないこと思うんだろう。

大好きなのに。

その瞬間の、その人の、そして自分が絶対的なものだと思い込んで、そしてそうではなかった時の絶望が私にとってはそれほど致命的だということだろうか。

そこが私の大事なもので弱点だからなのだろうか。

外部から傷つけられるくらいなら、
加減が分かる自分が傷つける方がまし、
ということなのだろうか。

なんか最早私のこの思考は自傷行為と同義な気がしてきた。

世界は自分の思い通りにならないって気づいたときから(皆さんにはそういう時期ありませんか私は少数派ではないと思いたいですよ)、
自分が傷つかないために無意識に自分を傷つけて慣れさせることを覚えたんだと思う。
精神健康に生きる術として。

確かに賢いのかもしれないけどさ。
それで自分の心を守れるのかもしれないけどさ。

本当は私のそういうストッパーをぶち壊すくらいの何かに会いたいのよ。
人でも恋愛でも作品でも事件でも。

それか他人に頼らずな自分で一回自分をぶち壊してみたいのよ。

それくらい私の気持ちは私史上最も暴力的かもしれない。
この精神状態が続いたら、人は身も心も滅ぼすことをしでかしたりするのかもしれませんね。

それこそ「執着しない」という教訓が生きるのかもしれませんね。


でも私はどうせ出来ない。
いい子ちゃんムーブ20年かましてきた人間がそう簡単に変わるはずないもん。

でもまあ備忘録として、私の気持ちの変化を残しておきましたよと。

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