[6]「好き」という鎧。②
私たちは「好き」という鎧で自分と言う曖昧な存在を形作っている。
この主張を裏付ける根拠の一つとして、一つ前の記事で「他者から『好き』なもののイメージを押し付けられるから」と述べた。
今日は二つ目の根拠として、
「私自身が『好き』を自分のアイデンティティとしている」
ということについて述べていきたいと思う。
「自分とは何か」
人間は「自分とは何か」という問題に対して普遍的に悩んでいる。
(特に私のようなモラトリアム期の人間は。)
それを簡単に言葉で答えられるなら、こんなに長い間、大勢の人が悩むことはないだろう。
友達や知り合いを「この人はこういう人です」と説明する方がまだ簡単だ。
なぜ「自分とは何か」を言葉にすることは難しいのか。
私たちは他人が知らない自分を知っている。
言葉では表せない自分の感情や
誰にも話したことのない過去、
誰にも見せない自分の一面を持っている。
ゆえに私たちは、他人が思うより自分は複雑で、難解な存在であることを知っている。
だから、他人を言葉で表す時のようにつらつらと言葉が出てこない。
どれもありきたりで、聞き覚えがあって、「自分」というこの世で最も特別な存在に相応しい表現であるようには感じられない。
加えて、私自身が「自分」の全てを知っているとも思えない。
だから「自分とは何か」を言葉で説明することは難しいのだ。
それでも、他人は、世の中は、「あなたが何者か」を提示することを求めてくる。
自分のことなら自分が一番知っているでしょう、とでも言いたげに、当然の顔をして一番難しい問いかけを投げてくる。
それは自己紹介の時もあれば、就活中の面接の時もあれば、進路を決める時にもある。
社会人になってからも様々な場面で、様々なやり方で、世の中は私の人物像を、私の魅力を、私の価値を問うてくるのだろ。
「あなたはどんな人なのか」
「あなたの個性は何なのか」
「あなたの強みは何なのか」
いやだよね。
活字で見ると圧迫面接並の圧力がある。
でもこれは、人間の世界には必要なことなのだ。
人が他人と分かり合うためには、相手がどんな人かを知る必要があるし、私も相手に自分という人間を知ってもらう必要がある。
それがなければ、人と人との関わりを生むことが難しくなるだろう。
人間関係には信頼というものが必要で、お互いの信頼を得るには、お互いの情報を開示することが一番だからだ。
ゆえに、私たちは「自分が何者か」を人に説明する必要が生じる。
「好き」というアイデンティティ
こういう時に便利なのが「好き」である。
一つ前の記事でも説明したが、
私が言う「好き」とは、「好意」とも「憧れ」とも「信仰」とも「受容」とも言い換え可能である。
軽めの気持ちから重めの気持ちまで、対象へ抱く肯定的な感情を総称して「好き」と一括りにしている。
この「好き」の対象は、もの、人、思想、概念、宗教、状態、感覚、動作、言葉など、この世に存在する(と思われている)あらゆるものである。
冒頭で私は「自分で『好き』をアイデンティティにしている」と言ったが、その意図を説明していく。
「好き」なものが好きである所以は、その中に内在する要素が、自分に内在する要素と共鳴するからだと思う。
「好き」なものの中に自分の一部分を見出すので、惹かれたり、受け入れたり、信じたりするのだと思う。
好きな映画などを例にすれば、想像がしやすいだろう。
私はジブリの映画の中で「風の谷のナウシカ」が一番好きだ。
ナウシカは、動物や蟲、人々に愛される、強くて明るいお姫様だ。
私は小さい頃、動物に愛され動物と話せるプリンセスになりたいと思っていた。
私の中では「動物に愛される=万物に愛される」という認識だった。
(叶うことなら今でもなりたい。)
私はナウシカに、自分の理想の姿を見ていたのだろう。
ゆえに、ナウシカというキャラクターに惹かれたのだ。
ここに、私は「全ての人に愛されたい」という願望を持つ自分を見出すことができる。
そうやって私たちは、好きなもの要素に自分と共鳴する要素を見出し、それが自分の一部とだという感覚に陥る。
私自身の中から私の要素を見つけていない、という点で、本当の私の一部ではないと思うかもしれないが、私はそれでも良いと思っている。
なぜなら、私の中から私の要素を見つける、などということは至難の技だと知っているからである。(いわゆる自己分析というやつ。やったことがあるがこれが結構難しい。)
そんな出来るかもわからないことをやるくらいなら、自分の「好き」から自分と似ていると感じるものを抽出して、それを「自分」だと言い張るのも悪くはないと思う。
それで相手に自分を表現できるのなら。
きっと私たちは無意識にそのことを知っていて、自己紹介で自分の好きなものや趣味を言い合うのだろう。
そうやって様々な「好き」なものをかき集め、私たちはパッチワークのような「自分像」を作り上げる。
あまり自分の「好き」を知らない人は、少ない生地しか使えないため、ざっくりとした自分の形の作品しか作ることは出来ないだろう。
一方、「好き」が多い人は、パッチワークの生地が多いため、自分の体にぴったりでディティールまで表現された作品を作ることが出来るだろう。
この両者には、
他者という存在と対峙するときに、
動きづらく自分の力を100%発揮できない中世ヨーロッパの鎧を着るか、
自分の体を思い通りに動かすことが出来るスパイダーマンスーツを着るか、
くらいの差があると思う。
自分の「好き」を沢山、そしてより細かく知っていれば、私たちはきっと、もっと生きやすくなる。
「自分の好きを知る」ことは「自分とは何か」という問いの答えに近づくからだ。
これが、「自分で『好き』をアイデンティティにしている」という主張の意図である。
(③に続く)
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