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[5]「好き」という鎧。①


私たちは「好き」という鎧で、「自分」という曖昧な存在を形作っている。


この「好き」とは、「好意」とも「憧れ」とも「信仰」とも言い換えられる。

ここでは、軽い気持ちから重い気持ちまで、対象へ抱くプラスな感情を総称して「好き」と一括りにしている。

ただこの「好き」はあくまで自分以外の他者を指していることとする。

要するに私は、
「○○が好き」と提示することで、
自分の個性やアイデンティティを他人にも自分にも示しているように感じる

ということを言いたい。



そのようなことを感じるようになったきっかけは、高校生の頃まで遡る。

私は高校1年の1日目の自己紹介で「米津玄師さんが好きです」と言った。
その後打ち解けてからしばらくたってクラスメイトに、「米津玄師好きなんだよね、ミーハーだね」と言われた。
特にミーハーの自覚はなかったが、彼からすると「米津玄師好き=ミーハー」というような評価基準があるのだなと知った。
それ以降なんとなく自己紹介で「米津玄師が好きだ」と言いづらくなり、無難に「読書が好きです」というようになった。

また、「○○が趣味です」というのも非常に言いづらさを感じる。
周りからその分野に関して求められるレベルが高いような感じがするからだ。

その他人が持つ自分のイメージが、実際の自分の実力とかけ離れていた時に相手をがっかりさせてしまったり、自分の評価が下がってしまうことを恐れて、結局周りに言えなかったりする。


このような自己紹介で好きなアーティストや自分の趣味を言いづらい感情が生まれるのは、
自分の「好き」を発表するその一言で、自分の評価や印象が決まることへの不安や恐怖があるからだ。


世界に溢れる数えきれないほどの「もの」。

これらのほとんどにはパブリックイメージなるものが付随している。
私たちはそれらを自分の好きなものとして選択することで、自分の意志に関わらず、ものに付随する印象を持たれることになる。
これは避けられないことなのだ。

なぜなら日常の中だろうとSNSの中だろうと、自分以外の「自分の好きなもの」をアピールして「自分」を表すことは世界共通の慣習であり、それには「もの」への共有されたイメージがあることが前提とされているからだ。

だからこそ、自分の「好き」を発信する意義があるというものだ。
(もちろん、もれなく私もそうである。)


相手の好きなものから相手の人となりを推測することは、確かに合理的にその人を評価できる基準の一つかもしれない。

しかし、それはあくまでざっくりその人を評価できる基準に過ぎず、個人をより総合的に、より正確に判断するには情報不足であるから、それだけで判断したりラベリングすることは早計だと言える。

もちろん、状況によってはざっくりラベリングしておいた方が都合がいいこともあるだろうが、人によってはそこで思考停止して、そのラベルを更新しようとしないこともある。

それはシンプルにもったいない事だと思う。
その人が根暗の皮を被った世界一おもしろいやつだったらどうする?
ギャルの皮を被ったオタク仲間だったらどうする?
(ちなみに私は普段ふざけてる男子が学校行事で真剣になるギャップに弱い)(聞いてない)


それに、そうやってすぐに答えを出そうとする所にも窮屈さを感じる。
相手の目を気にして、自分を心のままに表現出来ないことに居心地の悪さを感じる。

もし私が会って30秒の人に「あなたはつまらない人ですね」って微笑まれたら、
「そんな単純な女じゃないですけど??見ていかなくてよろし??」
とメンチを切る。(怖)

とにかく、人の好きなもので「こういう人」って決めるのは早計すぎると思うし、人間みんな面白いのにな🥺と思う。


(②に続く)

※実はこのテーマで③まで書こうとしてます😌

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