ちっぽけな金属部品

 ある必修授業で一つの動画を見た。60分程度の動画で、NHKが特集を組んで放送したものだった。要介護者や自閉症、パニック障害などの人が芸術を通して表現をする、あるいは芸術を通して殻に閉じ籠る。そんな様子を映したドキュメンタリー番組だった。それを見ながら僕はふと、芸術とはなんだろうかとまた考え込んだ。
 その動画が終わるまでの60分間、僕は自分の脳内と長い旅をしていた。この旅で得たものは相当に大きなものだと思う。自分の考えの整理とともに、なぜ、人は長い歴史の中で芸術を絶やさなかったのか、なぜ僕らはメディア論を受ける必要があったのか、芸術とは果たしてなんだろうか、なんのために芸術はあるのだろうか、と言った疑問を解いていこうと思う。

 芸術を始めるにあたって、必要なお金はいくらかかるだろう。僕と同じ大学に通う人はまず大きな数字を思い浮かべるかもしれない。しかし、考えてみれば最初はお金なんてほとんどかからないはずだ。1円たりともかからないと言っても過言ではないと僕は思う。小さい時から触れてきたであろう芸術の根幹は、全くお金がかからない。
 例を出そう。”砂遊び”だ。自分の足元にある砂をかき集めたり、小石や枝を拾って絵を描いたり、自分の手で握って形を作ってみたりした。授業で扱われた動画にも、自分で山を切り拓いて広場を作った人がいた。制度なんてものがなかった時代でもできると考えれば、お金はかからない。しかしそれは立派な芸術になり得るのだろう。
 また、動画には要介護者や自閉症に対して、そうではない人からするとコミュニケーションが難しく感じられることがあるかもしれない。だが彼らが作り出した芸術作品は純粋に評価される。伝えたいことがあるからなのだと思う。会話だと受け取ってもらえないような、想いの全てが作品に乗るから大きなエネルギーを持って人の目に映る。死刑囚が描く絵が大きな話題を呼ぶのもそのためだろう。
 自分の世界とは、生きている限り常にすぐそばに存在するものだ。宇宙のように大きく表される事もある。創作に熱が入るとき、それは自分が面白いと思うものを必死に突き詰め始めたときだ。それが自分の世界だと僕は考える。作品として完成させることはつまり、自分の世界を外に出す手段の一つなのだと思う。とても強いツールだと思わないだろうか。会話以上に人に伝えることができる、こんなにも面白いものはない。
 今こうして言葉にまとめてみると結構納得できる部分があるのではないだろうか。
 親しい人となら喧嘩しようが強い言葉を使おうが、なんとかして伝えたいことを伝える。しかし、心の距離が遠い人に自分の想いを簡単に言葉で伝えられるだろうか。そう簡単にできることではないし、一生をかけても世界中には伝わらない。
 吊り橋をイメージしていただきたい。芸術は人間にとって必要不可欠な、想いを伝えるという吊り橋の補強部品なのだ。自分の思いが反対側まで届くか分からない。相手が歩み寄ってきてくれても、どこかで拒絶されてしまうかもしれない。それでも伝えたい強いものがある場合、それを芸術作品に乗せることで吊り橋は補強され、伝わる可能性が高くなる。
 芸術に正解はない。あなたの好きなものや伝えたいことはどうか諦めないで、必ずあなたの望むところへ届いてほしいと希っている。
 


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