希望がない

 蓮田彩子には生きる上での希望がない。このまま浮上することなく底辺のまま平行線を辿って行くのだとの確信がある。ただ、彩子はそれで不幸だとは思ったことがない。そう思うに至ったのは中学生時代に遡るのでないかと思いを馳せるが、その頃の彩子は人生のどん底にいたのであった。その詳細はここでは省くとして、14、5の時からこのまま自分は家庭を持たず平凡なサラリーマンになって人生に何も起こらないまま死んでいくのであろうとの予感があったのだが、まさかその予感よりも遥かに希望がない人生が待っているとは……さすがにそこまでは考えが及びませんでしたごめんなさい中学時代の彩子よ。

 希望がない人生を送っている彩子はそれはそれで良いのではないかと思っている。何故か? それは生まれてから今まで「希望」というものを知らなかったから、そのようにして生きてきたので何も思わないのだ。他人と比べない、理想の自分を思い描ないことによって「今の自分」しかそこにはないのだ。心を無にすれば不幸にはならないのだ。

 人は何故絶望するのだろうかと、彩子は考える。絶望するということは何かしらの希望のかけらがそこに存在するから、ではないだろうか。未来に希望を抱くから、将来においてこうしたいこうなりたい等の希望があるから、それが叶わないと知った時に絶望する。ならば、希望することがなければ絶望することもないのだ。今の自分に満足しないまでも一切の期待を持たなければ、心は平穏のまま生きていくことができる。

 世のニュースを見るに辺り、彩子より絶望的な状況にいる人々は数多くいる。数億人の人々が絶望的な状況に生きているのではないだろうか。彩子は仕事をするとしたら誰かの助けになる仕事をしたいと思っている。ただ、コミュ障であったり圧倒的に能力に劣っているので、直接的に関わることはできない。もし宝くじがあたったら数千万円単位で寄付ができたらいいなと思っている。ただの空想である。

 幸福か不幸かなんてあざなえる縄のごとく簡単に反転するものである。「あざなえる」ってなんだ? と思いながら書いていますが、この国に生まれたのは「幸運」と言えるが、だからと言ってこの国に生きている人が全員「幸福」だとは限らない。幸福度って何だろうね?

 トマ・ピケティという経済学者が特殊な時代を除けば、有史以来人類の格差は広がり続けていると看破している。封建主義が崩壊して個人が資産を管理する資本主義が世界的に発展して、頑張ればみんなが裕福になれる世界になるのだと誰もが夢想していた時代もあったが、実はそうではなく世界中どこでも格差は拡大している。これからもずっと拡大し続けていくだろう。
 「特殊な時代」というのはこれまで二回あって、それは第一次世界大戦と第二次世界大戦である。これから第三次世界大戦は起こり得るのだろうか?

 話を広げ過ぎて落としどころが見つからなくなってしまったが、侵攻されているウクライナや紛争中の国々の人々はともかく、貧しくても意外と幸福度は高い国は存在していて、結局は心の持ちような気もする。他人と比べてしまうのが不幸の源なのだと言える。足るを知ると老子も言っているしね。

 そんなこんなで希望もなければ絶望もない。そんな世界で蓮田彩子は生きているのです。