優しい言葉と呪いのような感情について

『自分の心に、従ってあげてね。』

そう優しく俺の頭を撫でて言ってくれた人は、

「……なんて、名前だったっけな」


顔も名前も忘れてしまった。
そんな夢だったかのような不思議な人を、たまに思い出す。
あの人は確か俺の担任教師だった気がした。
何年何組の先生だったのかも、もう忘れてしまってるけれど。

あの頃は小さな疑問が沢山浮かんでいた。
そんな俺の抱えきれなくなった悩み達を優しく拾って聴いてくれた先生だった。
先生は居ない、俺が居るだけの保健室にその人はふらりと現れて、
『今日は先生が保健の先生になっちゃおうかな』
なんて言っては俺の悩みを解決してくれた。
保健の先生なんかよりも、カウンセラーの人よりも、俺にきっと興味が無いであろう家族よりも。
何よりもその人が俺にとっての先生で、いちばん信頼を置いてる人だった。
そんな大好きな先生の名前も顔も忘れてしまったらしい。なんて薄情だ。

……あぁ、思い出した。
その人は俺が卒業する時、泣いてくれたんだったっけか。
俺の名前を呼んでは元気で居てね、先生が死ぬまで、
__なんて、重い感情を押し付けてきた記憶がある。
重くは感じなかったし、俺も元々そのつもりだったから何も言わず受け入れたけれど。
先生と生徒と言うにはすこし複雑な関係だったのかもしれない。
まぁ、血の繋がりがある訳でもなかったけれど。
きっと先生にとっても俺は大事な人間だったのだろう。
そうであったら嬉しい。

あと、先生の誕生日。
クラスのみんなで祝うことになったんだっけか。
下手な飾り付けをして、校長先生にわざわざ話に行って、大袈裟な誕生日パーティーを開いて。
びっくりした顔のまま固まる先生にみんなが笑っていた気がする。
その後涙を零した先生にクラスメイトが慌てて可愛い柄のハンカチを差し出して、
『先生は今がいちばん幸せです』
なんて涙ながらに幸せそうな顔で笑って。
どんな顔だったかはいまいち思い出せないけれど。

あの後、いつも通り保健の先生の居ない保健室で、先生を待って。
バレないように持ち込んだプレゼントを渡して。
『愛されてるなぁ、私。』
なんてまた泣き出すもんだから、どうにかこうにか説得して先生の流れてくる涙を止めた気がする。
ハンカチは持ち歩いていなかった。


楽しかったと曖昧に感じるあれらは夢だったんじゃないか、そう考える時がよくある。先生は、確かに存在していたはずなのに。
記憶を追いかけるようにぼんやりと思い出していく。

もし、仮に、俺がずっと夢を見ていて。
なんてありえない仮定のことを考え出す。
先生は俺の中でしか存在していなくて、俺はずっと寝たきりで。
先生の存在するあの記憶が全部偽物で。
そうしたら、そうだったら。おれは、

「……やめだ、やめ。この癖は先生にも怒られただろ。」
目を閉じる。
確かに存在して、確かに感情を思い出させられたあの記憶を大切に思ってる俺が、疑っちゃいけないだろ。



『君らがわたしのことを好きでいてくれる限り、先生と呼んでくれる限り、先生と思ってくれる限り。先生はずっと先生です。』
だからそんなに心配しないでいいんだよ。
と、先生はそう言った。

「でもそれじゃあ、俺が忘れたら、俺らが先生って呼ばなくなったら。先生はどうなるんですか。」
そう言ってるうちに不安になってぎゅ、と自分の手に爪を立てる。
『うーん……難しい質問だね。
先生が君ぐらいの時そんな賢くなかったよ?
まぁ、でも、先生って誰かひとりでも呼んでくれたって言う記憶が私にある限りは私は先生だったって思い出せるんじゃないかな。』
「じゃあその記憶がなくなったら?」
『そうだったら私は先生に憧れるだけのただの人間だね。
……君は、何がそんなに心配?』
じっ、と俺の目を見て真剣に聞いてくる先生からなんでか目を背けて、床を眺め言葉をはき出す。
「いずれ、全てを忘れる日が来るじゃないですか。
先生のことも、この記憶も、俺のことも。全部。忘れていく日が」
俺はそれが怖くてたまらない。

そうぼそっと呟いて、きゅ、と服を掴む。
だって、先生が俺だけの頼りで。
産んだだけの家族なんかよりも、わざわざ嫌味を告げてくるクラスメイトなんかよりも、助けてくれない校長先生なんかよりも、大人よりも。
先生だけが、俺の話を聞いてくれて。
依存だってのはわかってるんだ、重い感情だなんだ言って何より重いのは俺だ。
何よりめんどくさいのは俺だ。
わかってるんだ、全部、ぜんぶ。

『__くんはさ、』
いつの日か言われなくなった俺の名前を先生が呟く。
『賢いからさ、周りの些細なものに気を遣いすぎてる。
君は、まだ子供で、間違いなく君で、先生を先生と慕ってくれる私の大切な優しい生徒だよ。
だから、そんな君のために先生は言います。

忘れて、何が悪い?』

ひゅ、と喉から変な音が出る。息が。
『先生は忘れることが悪いと思ってません。
記憶の忘却は整理のために大事で、嫌な記憶は忘れた方がラクだし?
君は先生が先生じゃなくなることも、君が先生のことを忘れることも、この記憶を思い出せなくなることも、全部恐れてる。
でもそれの何が悪いの?
忘れてもいいよ、私の事全部。
だって、忘れても君が私のことを先生と呼んでくれた事実も慕ってくれたことも、何も変わらない。
だから恐れないで。
大切な記憶、そう思ってくれたってことが忘れても先生は存在すると思ってます。
だから、もういい、もういいんだよ?
全部、許してあげて。』

やさしくて、冷たい言葉がすぅと脳内に入ってきて、
固く結んでぐちゃぐちゃになった糸が、解けていく。
「……でも、」
『うん』
「おれは、わすれたくない、」
『なら、忘れなくていいよ』
「せんせえ、」
『どうした?』
「おれせんせいのことすき。」
『先生も君のこと好きだよ。』
「ごめん、こんな感情持って、依存して、ごめんなさい、」
『……許してあげてって言ったでしょ?』
「……うん」

ああ、格好つかねえなぁ、こんな恋心、墓まで持ってくつもりだったのに。
伝えるとしても、もっとかっこよく伝えたかったのに。
子供らしい感情が湧き出ては弾けて、1度壊れてしまった涙腺はもう止められない。

『先生のために生きて』
俺の呪いを、先生が全部上書きして。

ずるいなあ、なんてただ思う。
「ずるいよ、せんせ。」
『先生は生徒に道を示すものでしょう?』
「……ずるいな」
『ふふ』




「んな事言った先生が先に消えてどうするんだよ」
卒業式にふたりで並んで撮った写真を傷つけないようにやさしく触る。
俺には知らない苦労が沢山積もった先生は重くなって、沈んで行った。
「……せんせい」
あれから何年経ったかな。
忘れなかったね結局。
元気ではなかったかもしれないけど、がんばって生きてはいた。
まあでも何年経っても家族の中で俺は存在しないし、クラスメイトの中にも存在しないし。
世界から、俺だけ拒まれたみたいで。

先生は、もう居ない。

「俺がんばったと思うんだ。えらくない?せんせ。
歳は数えてないけどさ、多分長く生きたよ俺。
平均的に見たら低いんだろうけど。」

「ありがとう、先生。俺の知らない色んなものをくれて。
先生は幸せだった?クラスで誕生日パーティーしたときさ、幸せって言ってたよね。」

俺もさあ、もういいかなって思うんだ。

「えらくない?おれ。今度あったら褒めてほしい。俺も先生のこと褒めるから。」

目を閉じる。今日はいい夢を見れそうだ。
終わらない幸せな夢を、ずっと。

話すことはあの頃のことしかないけど、きっと楽しいはずなんだ。

だから、この世界にはちょっと合ってなかった者同士、また集まって傷を舐めあってずっと話そう。


これは紛れもないふたりの呪いだ。
優しい毒が身体を蝕んでいく、呪いだ。

あたたかいな。
日向で、優しい風に吹かれてるみたいな暖かさを感じる。

思考が深くまで落ちていく。
今度逢ったら話をしよう。
かけがえのない宝物の話を、ずっと

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