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資料で見る、牧野富太郎という人物①ヤッコソウについて


ヤッコソウ

 徳島県ではヤッコソウの分布の北限で、自生地が天然記念物に指定されています。この植物について、いろいろ紹介します。なお、筆者の勉強不足で間違った記載があるかもしれませんが、おゆるしください。
 また、以下の記述では牧野富太郎博士が繰り返し出てきます。もちろん、私はお会いしたこともありませんし、詳しく知っているわけでもありません。ただ、私が植物の研究を目指した一つのきっかけが、筆者が小学生のころ、子供向け科学雑誌に掲載された漫画で、ムジナモの話が載っており、それを見つけた牧野氏が喜んで小躍りした話を読み、植物に興味を持ちました。そして、筆者が博物館に就職する前に標本の扱いの勉強に行かせてもらった東京都立大学の牧野標本館で、たくさんの牧野氏の標本を拝見させていただきました。さらに、徳島県立博物館に来て初めて担当した企画展「目でみる博物学」で、牧野氏の描いた植物画(原画)を高知県立牧野植物園からお借りして、展示しました。
 このようになにかと牧野氏とは縁があり、いろいろな逸話を拝読しているとどうしても堅苦しく呼ぶより、「牧野さん」がしっくりきます。僭越ですが、以下その表記で通させていただきます。

ヤッコソウについての簡単な紹介

 徳島県の南部にはヤッコソウという変わった植物が生育しています。どう変わっているかというと、種子を作る植物(種子植物)は緑色の葉を持っていて光合成をして必要な養分を自分で作るのが普通です。ところが、このヤッコソウは高さ10㎝にも満たず、全体が白く緑色の葉を持っていません。自分では養分を作ることができず、別の植物にくっ付いて養分をもらっています。そうした植物を寄生植物と呼び、ヤッコソウはその寄生植物のひとつで、シイノキ属の植物の根に寄生します。秋に 「やっこ 」に似た白い花を付けるのでこの名が付きました。徳島県が自生の北限域にあたり、自生地が国や県の天然記念物に指定されています。
 ヤッコソウには帽子があり、その帽子は、雄しべが筒状になったものです。帽子の側面には花粉がつまった葯が帯のようになった葯帯があります。花ははじめは雄しべの帽子をかぶっていますが、やがてそれが抜け落ち、雌しべが顔を出します。花には甘い蜜がたくさん出ていて、花の下側にある鱗片葉の付け根に蜜がたまる構造になっています。その蜜を求めてやってきた小動物や虫が、たまった蜜をなめようとして頭を入れると雄しべの帽子に触れて花粉が付きます。そして別の花に移って同じように蜜をなめようとするとむき出しになった雌しべに体が触れて受粉し、種子ができます。
 寄生植物は変わった形をしたものが多く、世界で一番大きな花を付ける植物であるラフレシアもその一つで、葉は全く見られず、1mを超える奇妙な花を付けます。中心には壷のようになった場所があり、その奥に雄しべや雌しべがあって、臭いで呼び寄せられたハエが花粉を運んでいます。寄生植物は栄養を作るための葉を付ける必要がないので、子孫を残すための花にエネルギーを集中することができます。そこで、花粉を運んでもらうために効率の良い形になっていて、普通の植物とは変わった形をしています。

ヤッコソウの最初の発見者は山本氏ではない

 このヤッコソウは著名な植物学者である牧野さんが、教師であった山本一氏より、変わった植物があるとの連絡を受け、それをもとに研究し、新種として発表しました。したがって、ヤッコソウの発見者は一般的には山本氏であるとされています。
 実は筆者はこの山本氏とも縁があって、愛媛県の植物研究の重鎮である山本四郎氏(「愛媛県産植物の種類」をまとめられた方)が、クルマユリを見たいと徳島に来られた際に、自生地にご案内したことがあります。山で昼食をとっている最中もいろいろな植物の話をうかがったのですが、その中でヤッコソウの山本一は自分の父親だと教えていただきました。いろいろな意味でびっくりしたことを覚えています。
 NHKの牧野さんのドラマ(らんまん)にあわせて、徳島の地元新聞社から、牧野さんが名付けた植物で徳島に生えるものの記事を書きたいと言われ、まず思いついたのがヤッコソウで、それについて確認のためいろいろ調べてみました。
 ところが今まで筆者も最初の発見者は山本一氏とばっかり思っていたのですが、そうではなかったことがわかりました。しかも、それは牧野さんが自分で書かれていたのです。 

見つけた経緯

 見つけた経緯を紹介します。
 まず、この手の名前の経緯を調べたければ、元記載にあたるのが常道です。別の記事でも紹介しましたがいくつかのネット検索で調べることができます。

 International Plant Names Index (IPNI)のウェブサイトで検索したところ下記の2つが出てきました。
Mitrastemon yamamotoi Makino, Bot. Mag. (Tokyo) 23: (326) (1909).
Mitrastemon yamamotoi Makino, Bot. Mag. (Tokyo) 25: 255 (1911).

 今回は、日本の植物なので、Ylistの簡易検索で詳しく調べることができます。検索語 に「ヤッコソウ」と入れて検索します。いくつかの結果が表示されますので上からクリックして表示していきましょう。
 すると、「文献情報(原記載文献など): B. M. T. 23(270):(326), fig. (1909)」とありますので、調べていきます。難解な記号みたいなのが並びますので、ChatGTPに「次を日本語に訳して」として、先のテキストを入力します。
B. M. T. 23(270): (326), fig. (1909): This likely refers to a publication in "Botanical Magazine, Tokyo" (B. M. T.), volume 23, page 270, with additional information on page 326 and a figure published in 1909.」と回答がきます。
この「B. M. T.」は"Botanical Magazine, Tokyo"で、植物学雑誌になりますがgoogleで検索すると「CiNii 雑誌 - The botanical magazine, Tokyo」が出てきて、このジャーナルのサイトへオープンアクセスのボタンを押すと、雑誌の過去記事のページが出ます。そこで23巻を表示し326ページを含む記事を探します。
 そうして、23巻270号 雜録のPDFをダウンロードして、325pに「新厨新種やつこさうMitrastemma Yamamotoi Makino, gen. et sp. nov. 二就テ 牧野富太郎」という日本語の記述が出てきます。

"鹿兒島縣柑橘圖"に描かれたヤッコソウ

 さらに、調べていくと、植物学雑誌25巻299号 Observations on the Flora of Japan. (Continued from p. 235.) の英語の論文も出てきます。235p. からの続きの論文でさまざまな日本の植物を記録した一連の論文になります。その中の255p.に以下の記述があります。

This parasite was found at first by Mr. Yasusada Tashiro in the mountains of Tashiro-go in the province of Osumi in the southern part of Kiusiu, and the coloured figures by him appeared in his manuscript "鹿兒島縣柑橘圖" (The Figures of Citri in Kagoshima Prefecture) as "an undetermined parasitic plant."
意訳:九州南部の大隅地方の田代郷の山中で、田代安定が最初にこの寄生植物を見つけた。彼の鹿兒島縣柑橘圖という鹿児島県の柑橘類を描いた図譜中に色つきの図が掲載されている。

Observations on the Flora of Japan.

 先に出された「新厨新種やつこさうMitrastemma Yamamotoi Makino, gen. et sp. nov. 二就テ」では"鹿兒島縣柑橘圖"はでてきていませんでした。そこで、"鹿兒島縣柑橘圖"を検索してみました。
 《鹿児島県柑橘図》 - ジャパンサーチ (jpsearch.go.jp)から東京国立博物館に収蔵されていることがわかります。また、著者の田代安定氏についても情報が集まりました。
 最終的に國⽴臺灣⼤學圖書館 National Taiwan University LibraryのFacebookにたどり着き、それらしき図も見ることができました。念のため國⽴臺灣⼤學圖書館 でいろいろ調べてみると田代安定文庫が出てきますので、鹿兒島縣柑橘圖を検索表示します。

そこには以下の情報が載っています。

metadata識別號:cy0024848
主要題名:鹿兒島縣柑橘圖
其他題名:The figures of citrus in Kagoshima Prefecture
摘要:此件為田代安定撰寫並繪製的鹿兒島縣所產之彩色柑橘圖說,內容包括植物名、產地與葉形、果實特徵與產季等。最末收錄明治13年6月田代於大隅半島發現採集的奴草。
作者(職稱):田代安定
作成日期:明治15年(1882)
型式類別:手繪彩圖、鋼筆手書、毛筆手書
收藏取得方式:1945年接收自台北帝國大學
館藏地:國立臺灣大學圖書館特藏組

鹿兒島縣柑橘圖

 「明治13年6月田代於大隅半島發現採集的奴草」ということなので、1880年に見つけたことになります。6月にはヤッコソウは花が終わってしばらくたっているので真っ黒に近い色だったと思われます。にも赤黒くなり、子房がやや膨らんで種子ができつつある様子が描かれています。
 図にはMitrastemon yamamotoi Makinoの学名が鉛筆書きされており、誰かがヤッコソウであることをメモに残しています。

ここから見える牧野富太郎という人物

 ヤッコソウは山本氏が発見し、牧野さんに問い合わせた。以後も山本氏が標本を牧野さんに送るなどして、それをもとに研究し、和名をヤッコソウとし、学名を発見者の山本氏にちなんでつけたと一般的に言われています。
 しかし、事情はちょっと違っていて、山本氏は最初の発見者ではなく、田代安定氏が発表の10年位前に見つけて図に残していました。そのことを正確に書くと以下のとおりです。
①ヤッコソウは田代安定氏が鹿児島県で最初に発見した
②山本一氏がのちに高知県で見つけた
③いろいろあり、牧野さんに問い合わせが行った。
④山本氏は、以後も標本を送ったりして研究に貢献した。
⑤1909年に牧野さんが発表した論文では気が付いていなかった
⑥ 1911年発表の論文では、気が付いていた。
学名の山本氏への献名については、研究に貢献したということで献名されることも多いので特に気にする必要はないかと思います。
 したがって、これらから見える牧野富太郎という人物像はつぎのようなものになります。
①自分の研究が既存の研究を網羅できていなかったことを自ら明かしている
②1909から1911のわずかな間にそれに気が付くことのできたのは、情報網があったのか、文献を見て気がついたかのどちらかであったのだろう。
 牧野さんはいろいろな地方の植物研究家と交流がありました。徳島県内だけでも手紙が残っている方もおられます。また、文献の収集には力を注いでいました。それらは高知県立牧野植物園の牧野文庫に残っています。それに加えて、東大などに集まる膨大な文献も見ることができ、それらをよく見ていたのでしょう。
 このように、自らの研究に対しても真摯なスタンスを保ち、文献や人物のつながりの強力なネットワークを構築し、研究にまい進していたことがわかります。

牧野さんの後悔

 牧野さんはこの件に関して、我日本に於て学界に興味を与へし植物発見の略史(植物研究雑誌1928 年 5 巻 2 号 p. 37-49)の46p.で次のように述べられています(以下意訳)。

 このヤッコソウは土佐が最初の発見地かと云うと決してそうではなく、既に明治15年ころに田代安定君が発見して、鹿兒島縣柑橘圖に無名のままのせていたのだが、誰も知らなかった。その時にはすでにヤッコソウの命名を自分がすましていた。もちろん、それを私が知っていたら、発見者田代安定君の名誉を伝えるよう記念名を付けたのに、まことに惜しいことをした。

植物研究雑誌 1928 年 5 巻 2 号 p. 37-49

 次回の記事は「牧野さんが故郷の名を消した植物」についてお話します。この話も研究に対する真摯なスタンスが現れたエピソードになります。

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