きっかけは、、、
和(かず)さんからのお誘い
この本との出会いはほんとうに偶然でした。手に取った時点でかなり売れ行きも好調だったようですが、奇跡的にも未だ存じ上げない状況で、著者が登壇するイベントに誘ってもらいました
和さんは文学部ご出身。社会課題コンサルとして企業で医療・介護・地方創生分野を核にDX全般について法人顧客をリードされるお仕事をされながら
お祖父さまの書かれていた著作を書籍化された「翠の風」など特別な視点にフォーカスを当てた文筆活動をつづけられつつ月1ペース(現在はそれ以上!?)で電子書籍を出版しているという驚くべき方なのです
いろいろお誘いして視野を広げてもらっている間柄。”行きます!”と即答。
この時点では、しんめいPさんのお話を聞ける!?お目に書かれるチャンスは、「東洋哲学!?興味あるし」「自分とかない!って、自分づくりとかを発信したいなら 、調べとかなアカンやん」くらいの受け止め
~とにかくお得感だけは非常に感じつつ、イベントに向かいました
東大前での出会い
会場は、とあるスナックでした。名前は、#スナックサンクチュアリ
1階は、出版社のようで真面目そうな先生風の方がスタッフ(社員さん?)とお話されているのを横目に、脇の入り口から地下へ階段を降ります
地下の会場には、いらっしゃるではありませんか、予習の際に拝見した動画ホスピタリティの御髭のご仁。他にも同社の方と、固定ファンの方など沢山の出会いが期待できそうな、静かで真面目だけどワクワクしそうな予感!
イベントは基本、立食形式で…じつは何を隠そうワタクシ、立食パーティーなるものは苦手だったのを漸く克服できたばかりで、まだまだぎこちなく…
登壇したビリギャルこと”さやか”さんが仰るには
なかなか挨拶にいくエンジンがかからず
モジモジしていると現れたのです、すんごい読書家らしい常連のオジさまが
「この本よかったよ」と
しんめいPさんの「自分とかないから」を自分ならどう読むか、みたいなのをデモンストレーションしてくれたのです
本を手に取りながら簡素な言葉で、わたしの眼をみつめて伝えようとしてくれるオジさまの軽やかなリベラルに背中を押されてしまったのでしょう
オジさまに御礼を申し上げ、本棚から「自分とか…」を1冊手に取ったその足でレジに向かい、購入し
前の方で読者の方と歓談していらした、しんめいPさんにサインをお願いしてました
「自分とかないから」ほんと良かったですよ。読み終えて1か月以上経ってますが、じ~~~んと来てます
この感想文は、「先入観ありあり」「ふつうの期待値」で読んだ私が受けたこの本のインパクトについて
飾ることなく書いたつもりです
もし未だ読んでいない方や、読んだけど違う受け止めをなさった方と
なんらかのエネルギーの交換になれば幸いです
ひたむきに愉快なストンと落ちる解明シリーズ
とにかく楽しく(核心を突くユーモアで)分かりやすい
この本は6章構成なのですが、いきなり最初から
「自分とかない」のタイトルそのものを現した「無我」
について、お釈迦様の教えを
その時点の、著者の等身大の受け止めで書き始めます
しかし、これは東大卒の著者が、哲学科とかで学んだことを嚙み砕いた解説本とかではなく、お釈迦様の死後2000年をかけて世界が悩みぬいた、仏教も苦しみ抜いた過程を
若い著者自身が、じぶんの人生の転換期で大いに迷い悩みながら答えを見つけて行った道筋と共鳴させながら描いていて
第1章の時点で、すべてを分かって書いている訳ではなさそうなのです
そんな旅のような、探求の道を読者が追いかけるような構成が
この本をとてもユニークで魅力的にしています
「悩み=>=>=>答え」と書くと
あたかも真面目~~な、暗~~い印象を与えかねないのですが
たとえば、お釈迦さんの登場シーンでは
こんな例え、誰が思いつく~^^!
しかも、たまたま上手く言ってみたとかではなく
第3章「道(タオ)」について、低いのが強い、という目線を与えるのに
婚活アプリの最強キャラを登場させる伏線になっていたりするんです(別に狙ってはなかったんやおもいますけど)
なんというか捉え方や説明の観点が、身近な「あるある」感を活かしてて
気持ちいいんですよね ”あ~~そういえば、そう!”
な感覚
ちなみに、しんめいPさんより
「写メとかスクショとかして、感想とか書いて下さいね。けっこう読んでるんで」と言われた言葉を鵜呑みにして⤴⤴⤴貼ってますけど
あれって、10万部になる前だったからOKやったんかな…大丈夫かな
自分とか、考えちゃうから、悩んでしまうのか?
くわしくは本文を読んでいただくのが、一番たのしくハラハラどきどきするのですが
おもに第2章で語られる
著者自身が悩んで進んだ稀有な道のりには
”ふつう、ここまで悩みを深くできるほど、行動できないよね^^”
というドラマがあり
面接が最強に得意
一流IT企業に就職し、社長直下に配属(しかし仕事ができず、ひっそり退職)
革命戦士である宣言をして南の島で子供たちに理想の教育をめざす(チームワークができず、多様な人間と上手くできず島を離れる)
子供の頃、”しんめいくん面白い”と言われたキャラ設定から、芸人をめざす(グランプリで1回戦敗退)
空っぽ、だとバレないように
作ろうと即座に動いた先で、空っぽだと自覚してしまうという循環
が描かれ
最終的に、空っぽでいいよね、と気づいた
と、2章 「空」この世はフィクション 龍樹の哲学 で
さらっと書かれていますが、、、
なんとも凄いドラマですね!!!それを支えてくれる人も多かったと書かれてますが、この過程で注がれたエネルギーが
のちに、しんめいPさんを
大きな気づきの旅へと送り出す力になったのかもしれません
インド→中国→日本と、著者の悩みを出口へ辿る「哲学トラベル」
この本の分かりやすさは、著者のモノの見方や、語り口の軽妙さだけでなく
構成の妙にあるなあと痛感させられる点があります
1つめは、既に書いたとおり
仏教が、インドに始まり、中国を経て、広く一般の人を救うようにと伝わってきた過程が、著者自身の悩みの解決の道筋になぞらえて語られる点です
もう1つは、人間の成長について書いているところ
個人の悩みを一旦、なやんだままでいいよね、むしろその方が強いかもと
ポジティブにとらえ直す過程(~3章)
そのうえで著者として世の中のためになることを書く発信者として思い悩み
言葉はいらない、わからない、という受け止めの先に
大我に生きる、という視界に到達できた美しさ(~6章)が
霧が晴れたような爽快感を与え
「見えた」という感覚に訴えることに成功しているのかもしれません
「本当に良かった」とおもえる結末
不思議なもので、わたし中学高校と、親鸞聖人(第5章)の浄土真宗を教える学校に通いつつ、真言密教とも関わりが深い大峰修行(第6章)に数年間、毎年夏に行っていたことがあるんです
空海は、陽キャだ
と、入ってきやすい語り口で語られる軽妙なフレーズも
”たしかサンスクリット語で、キャは(空)、空海の頭文字だよな”
などと余計なことを考えながら読んでしまってました
そんな私も、仏教に救われ感謝し、なんとなく分かったように感じながらも
世間が東洋哲学にむける眼差しが故に
働きざかりの人に届く、人の役に立つものを発信するには
仕事とか経済活動に近い所で見聞きした言葉で語らないと
などと、中途半端に気負ってしまっていたのかもしれません
結果、しんめいPさんの著作を拝読して
悩みぬいた先に
見つけたもの、には
普遍的に人を楽にする、救う力があるのかな、とおもいました
最後の方で、書かれていたこの箇所
しんめいPさんが書かれているこの感覚こそ
「大我」に生きる
ということなんでしょうね
自分ってないな、と感じながらも、その場に生きている自分
大きな意味のある存在の一部として夢中になって存在すること
30年以上前に、奈良の山奥で法螺貝の音を聞きながら
”ざ~~んげ、ざんげ♪”の掛け声の人たちが
「同行二人」という文字の白い襷や、布かばんを下げているのを思いだし
1人じゃない、一緒だ
と言われることの意味、ありがたさが
ようやく私にも分かった気がしました
「あ、空海、たしかにいるわ」という感覚になった
という、しんめいPさんの1文と、挿入された写真に触れて
自然に涙が出てきました
ありがたい気持ちになりました
道は開ける
方法より、方向
結局、伝える(使える)手段として、何がいい悪いってことはなく
どちらに向かうかということなんだな
と、思考をスッキリさせていただけたと感じています
何か具体的な目標があってもいいし、気持ちいい・心が広がると感じる方に定性的に進路を選んでいってもいいのでしょう
行き先は、海じゃなく山でもいいはず
予定・運命、に重きを置くと
合っている・間違っている、という観念に縛られてしまいがちになりますし
最終的に、低い方へ(本書3章で書かれているように、海の方へと)進んでいくのが世の常なのでしょうが
その過程で、登るべきと感じる山があれば、それを目指すのもいいのでしょう
なかには、不慮の事故によりあえなく帰らぬ人となることもあるでしょうが
いずれは死に行く我が身であれば、挑戦したい山があれば目指してみるのも自然なことのような気がしてきます
著者のしんめいPさんが、本を書くということに挑戦されたのも
その過程においては、自分を低く低くフラットにとらえることで、海へと至ることが出口だったのかとおもいますが
導入においては、東大に入る、一流企業をめざす、芸人になる、といった高い山を登ることに果敢に挑まれたわけで
その登るという過程がムダだ、ということではないようにも受け止めました
山を目指して降りてきたからこそ、海に注ぐ水に沢山の悩める人の心を満たす養分が備わっていたのかもしれず、、、たっぷりのユーモアと共に
下山して見たもの
5章で、親鸞さんが山を降りるシーン
自分は仏教を極めても、下の世界では飢饉や疫病で苦しんでいる地獄のような絵図が繰り広げられており
そこで人の救いとなってこその仏教だと、山を降りられたとのこと
その下界でみたものは、地獄だったのでしょうか
ただ、最近わたし、業界の先輩で、浄土真宗のお坊さんになられた方に
「見返り橋」という場所について教わったんです
終焉の地ともされる、稲田の地
ここに伝わる「聖人見返り橋」には、いろんな形の伝わり方があるようですが
私が聞いたのは
最期に京都へ帰る際に、”一度も振り返ることのなかった人生を歩んだ親鸞聖人がただ一度、家族や信者の方を振り返った橋”
というものでした
地獄をみる覚悟で下山して、確かに民衆は苦しんでいたでしょうし、流罪になるなど、ご自身も酷い目に遭われましたが
見返り橋からみたのは
おそらく、人間が触れることのできる情の豊かさだったのではないかとおもいました
感謝とともに
本を読んでの受け止めは、みなさんそれぞれだと思いますが
わたしは、気負わずに、でもせっかくだから、意義があるとおもうこと
思いっきりやったらいい
信じる山を、登って行こう
という気持ちになりました
しんめいPさん
素晴らしい旅路を、本という形で書いてくださりありがとうございました
参考1)子供の頃に、わたしもやりました。崖つるし~~~
参考2)純粋に登山として大峰山脈をめざすのも、発見がありそうですね
参考3)されど霊山であることは敬重すべきと身をもって教えてくれる体験記