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20.〈囁き〉の正体

 しかし、五日経っても〈囁き〉は与えられなかった。
 待てど暮らせど、配られる様子はない。
「も~、どうなんてんのぉー」
 リリも湯殿の仕事をサボって待っているけれど、以下同文。
 そのまま一週間。
 
 待ち草臥れた杏奈は、息抜きに図書室に行ってみることにした。
 四階から離れようとすると、誰かがついてくる気配。
 例の影だろうか。
 鬱陶しいが、下手に撒いて騒がれるとややこしい。
「諦観、達観」
 自分に言い聞かせ、護衛代わりに影をくっつけたまま、栄螺階段を下りていく。
「こんにちはぁ」
 挨拶しながら図書室に入ったが、受付の机には前と同じく誰もいなかった。
 否、向こうで話し声がする。
「――やよ。なんであげなきゃいけないのよ」
 リリの声だ。棚の向こうにいるらしい。
「なんでって……、ミツルは図体こそ大きいが、まだ九つだ。鏡の死まで、あと三十年もあるんだぞ」
「それがなに?」
「なにって……、可哀そうだとは思わないのか!」
 揉めているようだ。
 そろりと棚の陰から覗き込めば、壁際にリリと白髪の男が立っているのが見えた。
 あれが司書のワカド?
 いや、違うか。
 髪は白いが、顔や体付きは若者のようだ。司書の「爺様」という呼ばれ方はそぐわない。
 じゃあ誰だろう、と二人の様子を見守っていると、リリが冷え冷えとした口調で返した。
「喉から手が出てんのは、ミツルじゃなくてあんたでしょうに」
 図星だったようで、みるみるうちに男の顔が朱に染まる。
 交渉決裂か。
 鉢合わせするのは不味いと、杏奈が踵を返しかけたそのとき、ぽんと誰かに肩を叩かれた。
 ぎくりとふり返ると、後ろに背の低い白髭の老人が立っていて、ひらりひらりと杏奈を手招きする。
 老人と一緒に暗がりに身を寄せた途端、男が通路に現れた。肩を怒らせながら去っていく。その後すぐにリリも奥から出てきて歩いていった。
 出入り口の扉が開閉し、図書室に静けさが戻る。二人が引き返してくる様子がないことを確かめ、杏奈は暗がりから出た。
「やれやれじゃな」
 一緒に通路に戻った老人は、ふんすと鼻息。
「図書室は人が滅多に来ないから、いまみたいに密会に使われることが多い」
 やめてほしいんだがな、と長い顎髭をしごきつつ苦笑いする。
「……二人はなんで揉めていたんでしょう?」
「さてな」
 老人が白い眉毛を上げ下げする。とぼけられたと思った杏奈は、深くは追及せずに話題を変えることにした。
「あ、名乗るのが遅くなりましたが、私は――」
「知っとるよ。モリト=アンナじゃろう? 入ってきたばかりの」
「ご老体は、司書のワカドさんですか?」
「ご老体!」
 老人が目尻に皺を寄せ、おかしそうに肩を震わせる。
「そうじゃ。ご老体だが名前は若いワカド」
 ワカドは一頻り笑った後、と白髭をしごきつつ、おもむろに上を見上げた。
「ところで、息抜きはやめにして、四階に戻ったほうがいいぞ」
「え?」 

「この四乃宮で囚人同士が揉めていたら、まずは〈囁き〉絡みを疑ってみるとよい」
 とぼけられたと思っていた問いの答えを唐突に与えられた杏奈は、受け取り損ねて聞き返した。
「〈囁き〉絡み、ですか?」
「よくわかんない」が口癖のようにいっていたリリが、〈囁き〉のことで男と揉めていた?
「そもそも、〈囁き〉ってなんなんですか?」
「一口で説明するのは難しいな。一括りに〈囁き〉と呼ばれてはいるが、実際の〈囁き〉は、千変万化じゃから」
 今回は〈喉から手〉なのかもしれん、とワカドはいうが、よく解らない。
「〈囁き〉は、受け取る側によって、その都度変化するのだ。儂が知るだけでも〈囁き〉と称して配られたのは、勇気、希望、絶望、悩みの種。鍵、オール、渡し舟、通行手形。鱗、血液、涎、食指……」
 二人三脚、なんてものもあったかな、と苦笑交じりに続ける。
「抽象と具体が混在しているじゃないですか」
「そうじゃな。しかも、正反対の効果まである。……〈囁き〉は、得た者を震え上がらせ、奮い立たせもする。〈囁き〉を得た者は勇者にも卑怯者にも、善人にも悪人にもなれる」
 確かに逆向きだ。
 眉根を寄せる杏奈に、ワカドが厳しい声でいった。
「すぐに四階に戻って備えなされ」
〈囁き〉の正体を掴めないまま、杏奈は図書室から追いだされてしまった。


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