【短編小説】何かのプロローグ-2・完
さて、玻璃さんの退職を巡る話はもう一つある。
煙草を吸い終えた仁保は、吸い殻をぽいと宙に放る。その先には、古びた小さな焼却炉があって、既にその中は轟々と火が燃えている。思い出したかのように僕は作業着を羽織って、仁保がそれを見て軍手を渡してくれる。
何を隠そう、弊社には奇習が存在している。
繰り返しになるが、古い会社である。故に備品も古く、机なんかは木造が殆どである。さっさと買い換えればいいのだが、勿体無いとか面倒臭いだとか、そういったどうでもいい理由で先延ばしにされている。
その木造の机だが、退職者が出た際に替わる。そして、退職者が使っていた木造の机は、粗大ゴミ行きではなく、自社内で処分される。
僕と仁保は、会社裏のゴミ捨て場に二人、玻璃さんが使っていた机を持ってきて、斧を手にその机をバラバラにした。程よい大きさに分解したら、それらを焼却炉に入れて燃やす。
そのあたりで、玻璃さんが様子を見にやってきた。冬も終わりだがまだ肌寒く、制服にコートを羽織った彼女は、手を擦り合わせて白い息を吐く。こちらを見ると、普段通りの笑顔を見せてくれた。
それから机だった木片が燃え尽きるまで、僕たち三人は何も話さなかった。仁保は煙草の二本目を吸い始め、僕は何か話題がないかと視線を泳がせ、玻璃さんは何も言わなかったが、彼女がどうしていたかを僕は確認する余裕がない。無言の中に、燃える音だけが小さく木霊する。
焼却炉には灰だけが残った。
あとはそれをゴミに出すだけなのだが、そこで玻璃さんが動いた。コートのポケットから小さなガラス瓶を取り出したのだ。華奢で美しい曲線をしていて、フラスコのように下半身が丸い形状をしていた。いかにもアンティーク調、一輪刺しを思わせる大きさのそれを手に、僕たちの前に歩み出る。
「あの」そう言って振り返る顔は、相変わらず笑顔だ。「それ、少し持っていっても構いませんよね」
それ、というのは、焼却炉に残っている灰のことだ。僕は、彼女の意図を掴みかねて少し動揺する。
「まあ、捨てるものですから……しかし、どうしてまた」
玻璃さんはちょっと恥ずかしげに笑う。「記念のようなものです。皆さんのことを、私なりに忘れないように、と」
「それは——」素直に優しい人だと思った。彼女の中での会社の記憶は、捨て去られてもなんの問題もないものだと勝手に思っていた。それはおよそ偏見で、女性とはそういうものだと思い込んでいた。特に、彼女は芯の強い人なので、後腐れなく、思い残すこともなく、清清した気持ちで出ていくのだと。であるから、彼女のこの行為は、僕には意外性があり、それと同時に深く感激していた。
ふと仁保のほうを見るが、彼も何か考えているようで、何も言わずに腕を組んでいた。僕たちの返答を待たずに、玻璃さんは焼却炉を開けようとする。彼女の美しい手が傷付いては、と僕は急いで行って、代わりに蓋を開いてやった。
びっしりと敷き詰められた灰。砂漠のように殺伐とした無に、彼女は瓶を突っ込んで掬い挙げた。引き出した手の中に収まるガラスの中に、きらきらと光を反射しながら、灰が収まっている。
それを見て、それから僕の顔を見て「ありがとうございます」と彼女は小さく頭を下げる。僕は体が僅かに高揚したのを感じ、察される前に距離を取った。
「仁保さんも——」と彼女は立ち上がって振り返る。しかし、そこで言葉が詰まる。彼女の視線を追うと、依然としてそこには仁保が居るのだが、その様子は先ほどと何も変わっていない。腕を組んで、何も言わず彼女を見ている。玻璃さんが何か言おうとする前に、仁保のほうが口を開く。
「それ、ちょっと貸して」
彼が指す方向にあるのは、先ほど彼女が掬った灰の入った瓶である。玻璃さんは、緊張した面持ちでゆっくりと仁保のほうに向かい、彼に瓶を手渡す。
「あの、どうかしましたか」
彼女の問いかけには答えず、瓶を受け取るが、その視線は玻璃さんから外れることはない。そのまましばらく、彼女を見つめたまま何も言わないので、玻璃さんは気不味くなって視線をこちらに向けてくる。そこでようやく、僕は仁保のほうに近寄って割って入ることを思いつくが、そうするより先に仁保が口を開く。
「玻璃さんは、この灰に何を思い返すんだ」
「それは、会社での思い出とか——」
「会社での思い出って何」
「皆さんに良くして頂いたこととか——」
その言葉を聞いて、仁保は悲しげに眉をひそめ、唇を噛んだ。何歩か彼女と距離を取って、瓶を持つ手を振り上げる。その時の彼の表情は、一瞬のうちにいつも通りの無表情に戻っている。僕も、玻璃さんも状況を飲み込むには時間がやや足りない。あっ、と気づいた頃には、仁保は手を振り下ろして、あの瓶を地面に叩きつけていた。
当然、ガラスは粉々に砕けていて、中に入っていた灰も地面に撒かれた。風が少し吹いて、それは空へと舞っていく。
僕は何も言えなかった。玻璃さんも、驚いた顔でその場に立ちすくんでいる。仁保が埃を払うように両手を叩いた。
「良いんだ」
大きく息を吐いてから玻璃さんを見つめ直す。「嫌な奴らのことなんか忘れちまえ」
このときの僕は、棒立ちしている中でいろんなことを考えていた。玻璃さんの気持ち、僕のやったことのこれまで、玻璃さんのしてきたこと、それから仁保の言葉。それらは結びつく筈もなく、バラバラに思い出されては、僕の頭の中を掻き乱して、何も結論は生まれない。そんな僕では、この状況に都合の良い言葉を置くような器用な真似も出来る訳なく。
ただ、冷えた夕方の風に吹かれて、我慢できずにくしゃみをした。
そのあとは、予定通りに玻璃さんは会社を辞めていき、送別会が催され、僕と仁保はそれに参加するにはして、彼女と話すより先に酔い潰れて、しまいには記憶を無くしていた。朧げに、たくさんの贈り物を抱えて微笑んでいた彼女の姿を覚えている。
「どうだったかなぁ」
翌日、出社してきた仁保は、眠そうな顔で頬杖をつく。
「あの店の串焼き美味しかったな」
そう言いながら、屋上で煙草に火を付ける。その端正な横顔を眺めて、僕はおもむろに呟く。
「仁保さんって優しいですよね」
「だろ」
そう言う声にはまるで心が籠っていない。
事務の席は、文字通り空白になっており、そのうち新しい事務机と社員がやってくるらしいと、掲示板のお知らせには書かれていた。木造の机は数を減らしはしているものの、依然として古めかしさを助長するように並んでいる。これが絶滅するにはもう少々時間はかかりそうだ。
「新しい毎日がやってきますねぇ」
ぼんやりと曇り空を見上げる。仁保は雑に「そうだな」と相槌を打って。
「変えなきゃ変わらない」
と言う。僕はそれに返す言葉もない。
別れの季節。ドラマチックなシチュエーションと言葉。何か新しい、ワクワクしそうな何かが始まりそうな、盛大な雰囲気を醸し出してはいる。
しかし、まるで何も始まらない。そういうものだ。
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