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孤独なメンヘラ

 孤独だから精神を病むのか、病んでるから孤独を感じるのか。
 
 春から夏の終わりまで、あまり記憶がないんだけど、メンタルが限界頂点すぎて、だれかに全部わかってほしくて、だけど全肯定してくれる他者なんて、どこにも存在しないって知ってるから、つらくてつらくて爆発しそうだった。土台無理な望みだって理解していても、心がついていかなくて。

 例外的に唯一自分を全肯定してくれる存在がいるとするなら、親だろう。理屈ではなく、本能で存在そのものを愛おしいと思う、それが親から子への愛というものではないのか。

 私は小さいころ、若かりし母との相性があまりよくなく、今でこそ関係は良好なのだが、当時は何をしても怒られて、否定されて、人格を踏みにじられて、一番身近な存在である親から粗末に扱われることに慣れてしまった。

 だから長らく、自分を大事にするということがどういうことなのかが本気でわからなかった。尊重すべきは自分の意志などではなく、他人の意見や顔色、こうすべき、こうあるべきという規範。自分というものがなかった。

 ただ、生きることに漠然とした恐怖心や不安感があった。

 それでも子どものころは親に養われてるから生きていられた。大人になると自分を試される場面ばかりで、元々自信など全くないどころか、振り切れてマイナスであるのに、両親から愛されて何不自由なく育ち、自然と自己肯定感の育まれたしあわせな人間たちと平等に扱われる、その絶望。

 正体不明の苦しさと居心地の悪さに息が詰まりそうな日々、無価値感だけをハッキリと感じて、それ以外はほとんど気絶しているようなものだった。

 やることなすこと見張られてるんじゃないか、間違えたらこ○されるんじゃないか、そういう尋常じゃない緊張感に常にさいなまれる。

 出来ない自分に価値などないのだから、出来ることしかやらない。失敗しても許されるのは若者の特権だというのに、そこからしか学べないことがたくさんあったというのに、私はそれをせず、挑戦することから逃げ続けた。

 そりゃあなんにも出来ない20代後半ができあがりますよ。だけど当時の息をするだけでせいいっぱいで縮こまっていた自分に、そんなことができるはずもなかった。

 若いころは自分の気持ちを全然上手く言語化出来なくて、だけど感じることはいっぱいあって、胸のうちでつかえるばかりだった。
 だから今こうやってnoteに書けるようになっただけ、以前よりは幾分いいのだけど。

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