細川幽斎と田辺城の戦い

 舞鶴港を巡った後,市の内陸に位置する田辺城を訪れました。16世紀後半に丹後を平定してこの城を居城としたのが下の写真の細川幽斎です。舞鶴市は港周辺の煉瓦建築や引揚関連施設が観光の主役のように見え,田辺城はおまけのような気分で訪れたのですが,舞鶴の地名はこの田辺城の別称「舞鶴城(ぶかくじょう)」に由来しているとのことです。

 幽斎は明智光秀の盟友であり,幽斎の息子忠興は光秀の娘ガラシャを妻として迎えていました。本能寺の変の7日後に光秀が送った覚書には,「信長を討ったのは忠興を取り立てるためで,それ以外に理由はない」とまで記しており,幽斎と忠興を取り込もうとしていたことがうかがえます。しかし幽斎は光秀の誘いを拒み,光秀は山崎の戦いで豊臣秀吉に討たれ天下を取れずに終わりました。その後幽斎は信長の喪に服すとして出家し,京都との間を往来して文芸界の第一人者として活動しました。また文芸のみならず,豊臣秀吉の九州遠征に帯同して島津氏を説得するなど参謀的な立場で活躍しました。

隅櫓から見た城門


 秀吉の死後,幽斎は石田三成ら奉行衆と敵対することになります。関ヶ原の戦いの直前には,石田方の1万5千の軍勢が田辺城を攻めました。このとき息子の忠興率いる3千の軍勢は関ヶ原で戦っており,幽斎は近隣の百姓や町人,僧などを集め,わずか5百の勢力で田辺城に籠城しました。すでに隠居し文芸界の第一人者だった幽斎が,自身の名誉や配下の武士たちの命運のため,玉砕を覚悟で籠城した決意に心打たれます。
 幽斎は「古今和歌集」の秘事口伝の伝承者であり,このころの朝廷を含む全文壇の最高権威としての地位を築いていました。古今伝授が途絶えることを恐れた後陽成天皇は,「幽斎は古今集の秘奥を伝え,天皇の師範であり歌道の国師である。速やかに包囲を解くべし」と命じました。これを受け敵将は和議を提案しますが,幽斎は開城には応じず防備を固めます。さらに3人の公卿が勅使として田辺を訪れると敵将は驚いて包囲を解き,52日間にわたる籠城戦は終わりました。石田方がここで長く足留めを食らったことが関ヶ原の戦局に影響したといわれ,先の本能寺の変と合わせて幽斎は日本史の流れを大きく左右した人物といえます。
 徳川家康と懇意にしていた忠興は小倉に所領を与えられ,忠興の息子の時代には細川氏は小倉から熊本に移りました。その直系子孫である細川護熙も,首長の座を早々に去り文芸の世界で活動しましたが,多いに政局の混乱をもたらした点では室町時代の足利義政に姿が重なります。

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