【第二回】ファイトクラブ(1999)
だけど私にとっては、困ったことに、まさしく完璧な映画だった。
story.
僕は不眠症になった。
医者は治してくれない。運動して、カノコソウの根でも噛んでいろと言われた。
「僕」の日常は完璧だったはずだ。
調味料をひととおり揃えた冷蔵庫、気泡の入ったオーダーメイドの皿。次々と注文した北欧家具。僕の全てがが詰まった高級マンションの一室。たとえ、すべて失ったとしても、保険で買い戻せる。
なにひとつ不自由なく生きてきたというのに、僕は苦しかった。
眠れなくなった僕にとっての世界は、壊れたラジオのようなものだった。
コピーのコピーのコピーのような日常が終わらない。
医者に薦められて見に行った「睾丸ガン患者の会」は一時的に救ってくれた。僕は次々と「病気で苦しんでいる人たちの集会」に出向いた。危機に瀕する彼等と接することで、僕は再び眠れるようになった。
だけどそれも「どこまでも堕ちる女」マーラ・シンガーに破壊された。彼女のせいで、僕はまた眠れなくなった。
そんな僕の前に現れたのが、タイラー・ダーデンだ。彼は飛行機の緊急着陸時に酸素マスクがなぜ落ちてくるのか教えてくれた。
僕の頭が良いと言ってくれた。だけど「それで何か得したか?その頭で」とも言われた。
タイラーはなんでも知っていた。
ガソリンと冷凍オレンジジュースでナパーム弾がつくれる。
人の脂肪から石鹸がつくれる。
脂肪があれば爆弾がつくれると教えてくれた。
それじゃあ爆弾があれば、なにを創れるだろう?
いつしかタイラーの悪意はフランチャイズ店のように全米展開され、僕は彼の目的を知ることになる。
gossip.
第二回は映画「ファイトクラブ」になります。
監督は映像派のデヴィッド・フィンチャー。「セブン」や「ゲーム」 は二十年近くたった今見ても、色褪せない鮮烈な映像演出を見せつけてくれます。
恐ろしく速いカットと展開。圧縮ファイルのような密度で映像ドラッグのよう。
僕の好きな(大好きな)伊藤計劃氏は「ファイトクラブ」を「史上最速の映画」と表現していました。
主役は百面相の演技をこなすエドワード・ノートン。殆どノートンの演技でもっているような映画「真実の行方」は一見の価値ありです。
ノートンが出ている映画を見ると、いつも「このキャラってエドワード・ノートンだっけ?」と思ってしまうくらい、見る度にキャラクターが違う。
この役者がどんな人間なのか、私にはちっとも見当がつかない。
今回の彼はまさしく「自分が異常であると理解できない異常者」であり、現代の退屈が生んだ怪物である。
そして主人公の相棒、理解者にして□□であるタイラー・ダーデン。
これがまた滅茶苦茶カッコいい。人類史上、類を見ない。
演じる役者はブラッド・ピットです。「セブン」では犯人を前に凄まじい葛藤をしていましたが、今回はいたってクール。全てを見透かし、あるいは全てを見捨てたようなバッドガイを演じています。
私はハリウッドでよく見るキラキラした笑い方が苦手だ。さわやかな視線に白い歯をのぞかせた、化粧品広告のような微笑みが嫌いだ。この世全ての災難が、スマイルでなんとかなると言わんばかりの態度が大嫌いだ。
だけどブラッド・ピットの笑い方は好きだ。へらへらとして、だけど悲しげに世界を眺めるような笑いが好きなんだ。
私のオールタイム・ベストワンの映画は「ファイトクラブ」だ。
「オールタイムベストテン」なる言葉がある。
さぁ君の好きな映画を10本あげてごらん?というわけだ
私はこれが難しい。
好きな映画を10本に絞るのは大変だ。世間には山ほど面白い映画があって、その面白さも多種多様だからだ。
だけど「一番好きな映画はなにか?」と訊かれたら、迷わず答えられる。私は今まで観てきた映画で「ファイトクラブ」が一番好きだ。
ファイトクラブはどんな映画だ?
90年代へのアンチテーゼ?
物質史上主義と資本主義の否定?
サブリミナル効果と、どんでん返し?
自己破壊のための哲学か?
退廃文学か?
それとも「僕」が自分を取り戻し、自己実現に向かう物語なのか?
どれも正しく見えるし、違うようにも見える。
「ファイトクラブ」を見る度に、私の中で答えが変わる。まるで私自身の変化に合わせて、「ファイトクラブ」も変化しているみたいだ。
かつて「ファイトクラブ」を初めて観た私は、あまりの退廃さに震えあがった。興奮で夜も眠れなかった。なんて虚無感!現代のデカダン!
自己破壊的なタイラー・ダーデンにシンパシーと憧れを抱いた。
私は、まるっきりプロジェクトメイヘムの一員であり、「宇宙に打ち上げられた猿」みたいだった(苦笑)。
だけど同時に思う。「ファイトクラブ」に憧れているうちは、「ファイトクラブ」を理解できない。そんな気がする。
タイラーは「ファイトクラブのルール」を提唱した。
ルールは8つある。大事なのはルール1と2だ。
ファイトクラブ・ルール。その1
「ファイトクラブのことは口にするな」
ファイトクラブ・ルール。その2
「ファイトクラブのことは絶対に口にするな」
実際のところ、このルールはあまり守られていないようだ。
(ファンである私も記事にしている時点で、ルールを守れていない)
だが考えてみると、このルールは奇妙だ。
自己破壊をうたうタイラーがルールを決めてしまうのは、まるで矛盾している。
ルールを否定する男が、新たにルールを設定しているのだ。
ファイトクラブは多くの矛盾をはらんでおり、一言で表現するのは難しい「矛盾多き映画」だ。
だけどあえて語ろう。
最近の私は「ファイトクラブ」を愛の映画だと考えている。
(なんだか一周回って平凡な答えに回帰してしまった)。
自己破壊へのプロセスも、世界に対するイタズラも、全ては「僕」の愛ゆえだ。
冒頭、「僕」が言う。「人は愛する相手を傷つける。だが傷つけた相手を愛するとも言える」と。
だから「僕」は自分を傷つけ、世界を傷つけた。
ファイトクラブで傷つけ合い、マーラ・シンガーを傷つけ、極めつけはタイラー・ダーデンとの決別だ。
全てを愛せない主人公が、全てを愛せるよう、なにもかも傷つけることにした。
だからこそ最後にビル群を吹っ飛ばして「僕」は言った。
「心配ない。これからはすべてがよくなる」と。
postscript.
実はオレンジジュースとガソリンでナパーム弾は作れないんです。
あたりまえですが。
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