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バビルサは牙を伸ばすし、人は金を稼ぐ

生物の進化は面白い。
犬の鼻は些細な臭いを感じ取るし、コウモリは音だけで周囲を把握する。
ただ、さすがに意味がわからない進化をしている動物がいる。
バビルサだ。

バビルサはインドネシアに生息する動物で、バビは豚を、ルサは鹿を意味する。ヘッダー画像がそのバビルサなのだが、私には鹿要素がよくわからない。分類学上はイノシシの仲間である。
バビルサの不思議進化のエピソードは聞いたことがある人もいるだろう。
それは、牙が伸びすぎて頭に突き刺さってしまうことがあり、最悪の場合死ぬというものだ。
じゃあ伸ばさなければいいじゃないかと思うのだが、なんとバビルサは牙が長ければ長いほどモテるというのだ。難儀である。

子孫繁栄のために、自らを死に追いやる牙を伸ばし続ける。そんな様をとって、どっかの誰かが「死を見つめる動物」と名付けた。たぶんこのキャッチコピーを思いついたとき気持ちよかっただろうと思う。私なら絶叫している。ただ、実際に刺さることは無いらしい。得てして本当のことはどうでもいいのだ。

死にはしないにしろ人間として生まれた私からすると、その牙の進化はやはり納得できない。
「その牙、意味あるんですか?」としたり顔で論破でも始めたくなる。
ただ、あらためて考えると案外論破されるのは私かもしれぬと思えてきた。
なんとも不思議なアナロジーが見えてきたのだ。

そのアナロジーとは「本来の用途」を超えた「象徴」を「必要以上」に身に着けようとする、ということである。
タイトルにあるように、この「象徴」がバビルサでは牙、人間ではお金であると妄想している。では、なぜそんな妄想をしたのか、考えていく。

「バビルサと人間のアナロジー」という妄想

バビルサが牙を伸ばすことは我々人間からすると一見無駄に見える。
ただ当のバビルサからすればかなり重要であり、自分のDNAを後世に残すために命がけで牙を伸ばしているのである。
バビルサの牙のように一見無駄に見えるが、その種にとっては命がけで獲得しようとするものを人間に当てはめたとき、それは何になるだろうかと妄想した。それこそがタイトルにも書いた「お金」ではないかと思う。

いやいや、お金は無いと生きていけないが、牙は無くても生きていけるではないか、という反論がもう一人の私から聞こえてくる気がする。
だが、ほんとうにそうであろうか。

人類がお金を獲得したのは世界的にみてもせいぜい紀元前600年頃、日本にいたっては西暦668年頃といわれている。
今の人類は現生人類と呼ばれるが、現生人類は遅くとも3万年前から存在する。つまり、かなり多く見積もっても人類がお金を使っているのは人類の歴史のなかで上澄み10%だけなのだ。
お金など無くても生きていけるのである。

ではなぜ我々はこれほどまでにお金を求め、たった10%の上澄みであるお金がここまでの力を持っているのであろうか?
これはおそらく複雑で多くの要因があるだろうが、主要なものは2つではないかと私は思うのだ。

まず1つは、「生活水準維持と繁殖の優位性の確保」である。
これは直感的に考えても当然のことである。遺伝子を後世に受け継ぐためには最低限の生活ができることが重要である。
ただしこれだけではお金の莫大な力を説明するには足らない。なぜなら生きていける程度の生活水準であればお金は余るほどはいらないし、何なら物々交換時代でも成り立っていたのだ。つまり、現代社会においては生活水準の確保にお金は重要であるものの、人間が生存していくのに必ずしもお金がいるわけではない。

ただし、お金の存在によって変わったことがある。それは各自の生活水準がどの程度であるかがわかりやすくなったことである。これが最も重要であり、2つ目の要因であると考えられる。
つまり人々がお金を求める最も大きな要因は「社会的価値の可視化」である。
お金が発明された当初、その最も画期的な点は「価値の均一化」と「価値の保存」であったはずである。物々交換では人によって物の価値は変わる。さらに、交換するものの価値は時間がたつほど小さくなる。生鮮食品であれば尚更である。
お金はそれらを一気に解決した。

このお金の特徴が社会にそれまで以上の格差をもたらしたことは想像に難くない。お金が登場するまでは時間とともに減るはずであった価値を容易に保存できるようになったことで、より多く獲り、作り、より多く稼ぐことができるようになった。そして均一化された価値基準によりその差を明確に把握できるようになってしまったのだ。
これにより多くのお金をもっているものは、より良い生活ができることを明確に示すことができる。

人間の脳みそは必ずしも万能ではない。そのため、お金がない時代は無数のものの価値を合理的に計算することはできなかったのではないかと思う。
デンバー数という数がある。これは脳の新皮質の大きさと群れの大きさの相関を求めたものである。簡単に言うと脳みそが大きいほど群れが大きいのだ。このデンバー数、人間はおよそ150である。たったの150だ。

能力的に言えばたったの150の対象間の関係しか把握できないはずの脳は、お金という抽象化によって容易に無数のものの価値を比較できるようになった。つまり、「価値の均一化」と「価値の保存」のために作られたお金が、本来の役割を超えて、「価値の可視化による比較容易性」をもたらした。
これにより、お金はお金以上の存在になったと言えるのではないだろうか。
それゆえ我々は必要以上のお金を求めつづけているのではないかと思える。
これが先に述べた「社会的価値の可視化」の意図したところである。

バビルサはどうであろうか。
牙はもともと外敵から身を守るためであったり、えさを掘り起こすために使っていたはずである。
つまり、「生活水準維持と繁殖の優位性の確保」をしていたはずだ。そのため牙の大きい個体は外敵に襲われづらく、えさを確保しやすかったはずである。よって、バビルサの中では牙が大きい個体を好むよう進化をしたと思われる。このことがバビルサの牙に異変をもたらした。
バビルサは牙の大きさを「社会的価値の可視化」として利用するようになってしまったのだ。これにより、牙は牙以上の存在になったのではないだろうか。本来の用途には使えないほどに牙を大きく大きくしていき、ついには「死をみつめる」までになったのだ。

社会的な生活をする生物は、その群れの中で社会的価値があることを示したがる。だからこそ「バビルサは牙を伸ばすし、人は金を稼ぐ」のである。
先にも述べたようにバビルサの牙は伸びすぎていよいよ「死」を見つめさせている。本論の焦点はアナロジーである。
そう、「お金」も死を見つめさせているのではないだろうか。などと妄想してしまった。
考えすぎだろうか、いやいやそうでもなかったりするから怖いのである。

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