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キングダム考察 62巻 羌瘣が信に告白しようとした具体的な時期&「心を読む」術で羌瘣が信の心に見たもの

【考察その17+β】

今回の考察、元々は上記の記事と同じタイミングで、
気分転換的に突発で思いついたと言う流れから、
同じ記事で当初公開したものでした。

ですが記事公開後、いつものような度重なる修正(追記)で
どんどん長文化が進んでしまい、
手を入れるうちにこの考察をもちょっと深堀して書いてみたくもなり。
だったらと、それぞれの記事を独立したわけでした。


・・・今回を糧として、今後はどんなにおバカな記事でも
2本だてはやめようと決心した次第です(大汗)。


なので今回、前半は再掲ですが、追記修正もそこそこやってます。
お約束のように長文で恐縮ですが、
知っている部分は目をつぶって読み流し、
お付き合いいただければ幸いです。




考察:羌瘣が「ずっとしたかった」告白の「ずっと」とは具体的にいつからか


当初の予定では、この記事よりも前に、
上記の深堀考察を公開するつもりで書いておりました。

そのため、羌瘣が信に礼のぶっちゃけに乗せて告白するシーン
を何度も読み返している中、そういえば

「今みたいなこと(告白)をずっと話したいと思ってた・・・」
(62巻44ページ)

↑のシーンで、「え、いつからそんなこと思ってたの!?」、と
結構驚いたことを思い出しました。
なのでその考察を書き始めたら、元考察よりも筆がスルスル進み笑、
先にこちらを公開した次第でした。


今回、「ずっと言いたかった」の「言おう」と思った時を、
朱海平原での戦い・三日目の、天幕での手繋ぎシーン
(51巻49ページ〜)として話を進めたいと思っています。

以下、根拠を書いていきます。


このシーンが描かれた作品上の意味は、
羌族における「命を分け与える術」の存在を表明することでした。
これが今後のシーンで「禁術」が発動される伏線となりました。

でもまさかこの後、本当に命を分け与えることをしてしまうシーンが
描かれるなんて誰も想像しなかったでしょう。
むしろ読者には(私を含め)信と羌瘣のイチャイチャシーンの1つ(爆)
としか捉えられてないと思います(笑)。


あとこのシーンは、伏線のほか、
羌瘣が信に対して初めて「自分の命を分けてもいい存在」
アピールをした話
でもあったはずです。


シーンの最初、信が羌瘣の天幕に勝手に転がり込み、

「どうせ同じ寝てるだけなら、お前と話しながらの方がいいじゃねぇか」
「尾平やテン相手はうるせーだけだしな」
(51巻51ページ)

と話した事が、羌瘣のスイッチを入れたのでしょう。

まずは言葉よりも先に、羌瘣は信の手を握ります。


この場面を最初目にした時、ドッキリもしましたが(笑)
そこそこな違和感がありました。

羌瘣が信の手を握ったのは、信が嬉しいことを言ってくれたので
乙女心が発動(笑)してスキンシップしたくなったのかな、
と当初は思いました。

で、信は期待通り、めちゃくちゃドギマギするんですけど、
一方で手を取った側の羌瘣はめっちゃ冷静で、
乙女心なんてどこ吹く風と、全然嬉しそうに見えませんでした。

なので当初から、羌瘣的には手繋ぎ自体に
色恋的な意味はないかもとうっすら予想は出来ました。
ただそうでないなら、手を取る直前の羌瘣の目のアップの意味深さは
何なのかと異様に引っ掛かかりました。

なんか、娯楽で読んでいる漫画なのに、
なんでここまで悩む(?)必要があるのだと悔しくなり(苦笑)。
そんなわけでこのシーンについては当初、
羌瘣が「まじない」で真剣に、信に命を分け与えようとしていたと
無理くり解釈して流してました笑。


話が進むうちに、ここでの冷静さの理由が、61巻で回収出来ました。

羌族の技で「手を握る」意味は、
相手の心を読むと言う意味が込められていました。

羌礼が羌瘣を襲いに来た際、
羌瘣は刀を抜こうとする礼の手を制するように手を握り、
礼の心を読もうとしました。(61巻165ページ)
その後不意をついた羌礼は羌瘣と組み合う形で両手の平を合わせ
(167ページ)、その結果羌瘣は礼に、禁術で命を削ってしまったことを
読まれてしまったわけでした。


羌瘣は、「尾平や河了貂よりも羌瘣と一緒にいたい」と言った
信の本音を探るため、「信と手を繋ぐ動機が欲しい」と思ったことが
先に立ったのだと思います。

手を握ってまず信には
「これは”術”と言うより、”まじない”だと思う」(51巻52ページ)
と伝えました。


「まじない」とは、我々もおそらく身に覚えがある、
母親が子供の怪我に手を乗せて「痛いの痛いの飛んでいけ」
と言うのが一例でしょう。

これはもちろん、
痛い感覚がこの文言で無くなる効果はありません(笑)。

これは、母親が怪我をした子供に対して、
「怪我をして痛かったね、辛かったね、
 でもずっと寄り添っててあげるから、頑張ろうね」

と言う寄り添いの気持ちの表明であり、

受けた子供側も、
「痛いけど、辛いけど、寄り添ってくれる人がいるから、
 なんとか頑張ろう」
と言う気持ちが起こるきっかけとなる、
まさに「通じ合うもの同士の心の交流」であるのです。
(多分ね・・・笑)


この時点の羌瘣は羌族の「本来の命を分け与える術」を
しっかり覚えていたわけではありませんでした。
実際の禁術発動の直前に自ら

「(禁術が生き返るものかどうか)分からん」
「やったこともないし呪語も覚えていない」
(58巻113ページ)

と言っていることがその表れです。

自分が覚えていない術だから、この時点では多分今後
ホンモノの術が発動することはないはずだから
嘘のまじないだとしてもバレないだろうと(笑)
ほのかに頭の片隅にあった術を引っ張り出し、
「まじない」を自分の都合のいいように創作したのでしょう。

「手のひらを合わせる」ことが羌族的には
お互いの気をお互いで感じ合える尊い行為でもあり、すなわち、
手繋ぎが「自分の命(=生きている気)を分ける(=共有する)」
と言う解釈も遠からずと羌瘣は捉えたのかもしれません。


もちろん、尭雲との戦いで想像以上の深手を負っているようだった
信を労わってあげたかった気持ちがあったのは大前提でしょう。

自分自身の動かせるところが実際手くらいしかなく、
気功として効果があるかどうかはともあれ、
プラシーボ(気休め)くらいの効果は嘘じゃないとも
思っていたのかもしれません(笑)。


そして羌瘣にとっては「術ではない」との前置きが、
「がっつり効果が期待できるものじゃない」、すなわち
「話半分で受け流して欲しい」という意思表示でもあったでしょう。

まじないを介して信に自分の気持ちを伝えることへの
照れももちろんあったはずです。


羌瘣は「まじない」の意味の説明に、

「実際に傷を癒すことはできないけど、少なくとも私にとって
 信は自分の命を分け与えたいと思う存在なんだよ。
 寄り添っているから、だから少しでも元気になってね」
と言う意味を乗せて伝えたつもりだったと思います。


しかし、そこは不幸にも、信は戦災孤児でした。
実の母親を知らず、里親の里典や兄弟分の漂も、
そんなことをしてくれる存在ではなかったでしょうし、
愛溢れたまじないの存在は当然知らないでしょう。

むしろ信は羌瘣がやることについて、秘薬の件があったり、
ガチにしっかり効果があると思い込んでいるフシがあるんでしょう。


言葉が途切れた後、羌瘣の呼吸が深くなったような描写があり、
それを見て信は本当に命を分け与えられていると勘違いしたようです。

まるで、「痛いの痛いの飛んでいけ」と言われた子供が
「痛いのが飛んでいかないじゃないか!、嘘つきめ!」
とキレるが如く(笑)、手を払い除け、
「いるかよ!、お前の方こそボロボロのくせに!」
ガチ怒りする始末でした(笑)。

羌瘣は「やべ、こいつまじないをマジで受け取ってる、面倒なやつめ」
と焦り(笑)、即座に
「安心しろ、これは力を吸い取る”術”だ」(53ページ)
とまじない宣言を撤回し、術にしちゃって締めました。


51ページの意味深な羌瘣の目のアップは、
自分が信に命を与えてもいい存在と伝える決意をした現れだった
と言うことでしょう。

きっと信がまじないの意味をちゃんと受け取ってくれていたら、
羌瘣的にここが彼女の告白になったはずでした。


ここで62巻の元々のシーン、
「今みたいなことをずっと話したいと思ってた」に戻ります。

62巻のこの言葉のタイミングは、朱海平原の戦いのあと、
信が将軍になって1年め、魏との同盟の初年度であり、
天幕手繋ぎからは約1年くらいしか間が空いていません。

なので「ずっと話したい」と、
さぞめちゃくちゃ昔から言いたかった風な言い方の根拠には、
最近すぎだと思ってました。


この記事を書き始めた当初から、
「黒羊戦での信の羌瘣救出ハグ」(44巻54〜55ページ)で
絶対関係性変わっただろと言う色眼鏡(笑)を持って
記事を作成しようと思っていましたが、
当時の私は全然その方針では説得力を持った文章を書けなかったんです。


その後、信と羌瘣の武人としてのつながりの中で
黒羊戦が信と羌瘣を含めた飛信隊の
大きな成長となった戦いであったことについて深堀し、
やっぱり黒羊戦の救出ハグで、
この手繋ぎシーンで「ずっと言いたかった」気持ちの内容、
すなわち「命を分け与えてもいい」気持ちの土台が出来たことを
考察することが出来ました。

その気持ちが、手を繋ぐ言い訳のためとはいえ、
「信に命を分け与えたい」と羌瘣の中ではっきりと「具現化」したのが、
この天幕手繋ぎのシーン
だったと言うことなんでしょう。


また、この天幕手繋ぎの告白が空振ったことで、
ちゃんとストレートに伝えればよかったと言う後悔を抱えていた場合、
時間はたかだか1年だったとしても、
羌瘣にとってはとても長く感じていたことでしょう。

だからきっと、その「気持ち」を抱えて行動した時間が
「ずっと」と昔のように感じていたのは、その現れだったんでしょうね。


あと、礼的に「中途半端」な気がする伝えた内容についても、
羌瘣が「あのくらいでいい」(62巻44ページ)と言ったのは、
そもそも伝えたかった内容が「まじない」レベルだったから、
と言うことならば、筋が通っていますしね。


考察:蚩尤族の『心を読む』で具体的に見えるもの


そもそも、蚩尤族は「超能力者」ではなく、
あくまでも彼女らは「気功」の達人です。

心を読む、と言うのはあくまでも「気を読む」、
すなわち「気を探る」ことと同意でしょう。


で、「気」ってそもそも何?、ってことですよ。

大昔流行ったスプーン曲げすらできない私には、
正直な話、もう「気」が何かなんて想像つかんですわ(汗)。
ここからは彼女らの言葉を借りた
勝手な想像の世界になる見込みです(爆)。


まず、実際に気を読んでいる描写を、
羌瘣は具体的にこのように言っていました。

「礼は本当に蚩尤になって深い闇の淵にいる」(61巻174ページ)

羌瘣は相手のことを想像するときも、
第一人称視点でものを見ているだろうと言う考察を以前していました↓。

「蚩尤になった」確証は、
羌礼が初めて現れた際、天幕の中で羌礼の気配を

「龐煖!、いや違う、この気配は、幽連・・・」
(61巻123ページ)

と蚩尤の気配を感じたからであり、それは
以前対峙した幽連の「深い巫舞の中にあるような気配」
(33巻203ページ)のようなものだったのでしょう。

そして手を合わせて礼の気を同調してみたところ、
暗い闇の中にいる感覚、および足元が淵の端に立っているような
おぼつかない感覚を感じたのではないでしょうか。


「気」とは、は言語化できない「感覚」が伝わる感じなのでしょう。
実際に映像が見えたり音を聞いたり、予知夢じゃあるまいし笑
いくらなんでもそんな状態で認知は出来ないだろうと思われます。

ですがその割には、羌礼が羌瘣の気を読んだ際、
禁術を使ったことを具体的に読めたことは結構不思議でなかったですか?。
まるでその場の再現VTRが見えたのか?、とか想像しちゃいました
(苦笑)。

ですがよく考えるとこれも「気を読む」で全て解決は出来る描写でした。


まず、「瘣姉、あんた体の中の気の道が、ズタズタに・・・」
(61巻168ページ)と言っており、
これは実際に気を読んだときの「事実」だったのでしょう。

で、ここからは恐らく、
「気がズタズタになる」原因を礼の経験則から考えたことで、
その候補の一つとして「禁術?」と羌瘣に聞かせました。

で、羌瘣がその問いを聞いた時の心の動揺を、礼は感じたのでしょう。

そう、これは誘導尋問で「嘘発見器」的に、
心の動揺があるかないかを探っている
のです。

感じた心の動揺から畳み掛けるように「しかも・・・」と繋ぎ、
羌瘣から更に「よせ、礼」と、動揺の言葉と心の乱れを引き出したことで、
礼は自分が知り得る禁術の中で、
一番やばいものである可能性が高いとみたのでしょう、
「よりによって"呼び戻しの術"を・・・使ったのか!?」
と質問を更に投げました。

そして最後のその質問を聞いた瞬間の羌瘣の心の動きから、
その推測が真実であることを礼は察することができたわけです。


考察:手を握って羌瘣が信の中に見たもの


天幕手繋ぎシーンに話を戻します。

「信の心を読みたかった」ために「信の手を握った」羌瘣でしたが、
具体的には51巻52ページで羌瘣の呼吸が深くなるところが、
羌瘣が実際に信の心を深く読んだ瞬間であったと想像しました。

このシーンをもう少し深く考察していきます。


なお「信がなんでこの日羌瘣の天幕にやってきたか」の深層心理について、
この記事を公開した当初は考察していなかったので、この記事では
表情や言動から単純に読み取れるところだけ触れる方向で進めています。

もちろんこの表向きは、この日の作戦のお礼と無茶振りしたお詫び、
そして本人も言っている「羌瘣と話しながら寝落ちしたい」
なんだとは思います。

この記事の後に公開した記事でこの部分に触れてますので
興味があれば後ででも読んでいただければと思います。
(ちなみにスケベ目的ではないですよ、残念ながら笑。)


手を繋ぐ直前、信は自分の怪我の具合を話すために
この日の尭雲の戦いを思い出していました。
そして「次は俺が勝つ」と意気揚々?と言い放っており、
これは自分で鼓舞して「興奮状態」を盛り上げている
ような感覚なんだろうと思いました。

その直後、羌瘣に手を預けました。
ですが、預けた手の繋がれ方が普通じゃなかった
(指の間に指を挟む、通称「恋人繋ぎ」と言われる繋ぎ方)ことで、
「自然に高揚した興奮状態」になったんでしょう。


この時の信のドギマギさ、
めちゃくちゃリアルだったので見てて恥ずかしかったです(笑)。

以前信が河了貂とキスしたシーン(27巻98ページ)を
やっぱり引き合いにしてしまうのですが、
信にとってはどちらも事故(自分が主体的にやってない)
であるにも関わらず、羌瘣との方がドギマギしすぎなんですよね。
河了貂との方がむしろ普通じゃないレベルが断然高いにも関わらずですよ。

「身内的な位置付け」の河了貂と、「異性の仲間」の羌瘣、という
対象の相手の違いがあると見えるよう描いているんでしょうが
(もちろんその差もあることは前提ですが)
実際のところ、信の態度の差の直接的な原因は、
どれだけ表層意識上の心構えがあったかによるものだと想像しています。


信と河了貂の、いわゆる「事故チュー」(笑)、
こんなロマンチック(?)ではないですが、実は私も、
そういえばあれは事故チューだったなー程度の経験はあります笑。

これはあくまでも自分の経験上の感覚で、
事故チューが全て同じ感覚と言い切るつもりはありません。
それとすっかり忘れたことを無理矢理思い返したものだし(爆)
正確でもないかもしれず、異論がある人もいるとは思いますが、
事故チューの瞬間に、何が起こっているか全く理解が出来ない
という状況があり得ると想定しています。

その時の記憶はなんつーか、
唇に手のひらをむぎゅーっと押し付けられているような感覚
近いような気がします。
もちろんノーカンですわ。

信と河了貂は2人ともキスをするなんて想像もしていなかったはずで、
その瞬間は共通に何が起こったか理解できなかったと思われますが、
先に状況を認識した河了貂によって信が突き飛ばされたわけでした。

なので、河了貂は「キスをした」認識を持ちましたが、
多分信は自分(たち)がやったことに最後まで実感湧かないまま
だったのではないでしょうか。

後日意識してしまう河了貂(27巻145ページ)に対し、
信は「あのくれぇで何意識しているんだ」(146ページ)と
げんこつ食らわせてました。

これは90%くらいは信のデリカシーがない(笑)現れなんでしょうが、
信にはむぎゅー(笑)な感覚は記憶にあるかもしれませんが、
誤解を恐れない表現をするならば、起こったことは信にとって、
全く記憶に留まらないレベルのことだったのでしょう。


今回は、羌瘣から「手を」と促されて手を預けるワンクッションで、
自分の手に何かされる期待(笑)が表層意識に置かれたのでしょう。

でもって実際、期待以上のビックウェーブ(笑)が来てしまい、
そのため相当なドキドキ感に襲われたのでしょう。


なお、羌瘣が「恋人繋ぎ」をした意味、
あるとするならば、手のひらを密着させたかったとかの程度で、
そんなに深い意味はなかったと私は思います。

もちろん密着度合いの強い握り方であり、
親しみが込められた手つなぎには違いないでしょう。

↑羌瘣は男子禁制の村で育っており、
キスや子作りについては羌象から教えてもらってた(?)ものの、
男女が手を繋ぐ意味を知る機会もないし、
羌瘣にとっては特に知る意味もなかったと想像しています。

話がかなり逸れましたので戻します。


羌瘣は、手を繋いだ瞬間の信の「高揚した興奮状態」
(信にとっては手繋ぎでドキドキしていた状態)は、
その直前に話していた「尭雲との再決戦を意気込む」流れから、
不自然には思わなかったと思います。
そのためになお「まじない」で元気な気持ちになって欲しいと
思ったかもしれません。


一方、「まじない」で「命を少し分ける」と聞いた信は、
「動揺」や「焦り」や「怒り」など、
色々な焦燥の感情が瞬時にどっと押し寄せたのでしょう。

「羌瘣がボロボロになる」ことについて、信が以前体験したこと、
すなわち山陽戦で500人の介子坊隊と戦ってボロボロになった羌瘣の記憶
(22巻82ページ)がフラッシュバックしてたと思います。
だからボロボロで動けない羌瘣に対して、この時は全然信は悪くないのに
「すまねぇ」(51巻51ページ)と謝ったのでしょう。

山陽戦時の信の気持ちの考察は、ハグオマージュ記事の中、
カット2にて取り上げてました。↓

信にとっては「羌瘣がボロボロにならない」ことが最も望むことであり、
さらにボロボロになりそうな「羌瘣が自分を削って信に命を与える」
(と信が思っている笑)なんてもってのほかだったに違いありません。


一方、信の気持ち(気)を読んでいた羌瘣は、
自分が「命を分け与えたい(くらいの存在)」と伝えた途端、
信の気持ちが最初の高揚の気から一転し、
色んな「腹立たしさ」「悔しさ」などあらゆる焦燥の感情に加え、
「悲しさ」も感じたのだと思います。
(上記オマージュ記事を参照してください)

自分が気持ちを伝えたタイミングで、
信が負の気持ちのデパートのような動揺を起こしたということは、
自分の言葉が信の焦燥を煽ってしまった、すなわち
「自分からの命(=気)を受け入れることを信は望んでいない」
羌瘣は解釈したのだと思います。


そのため、羌瘣が信に寄り添う心の表明を、
信に合わせて「戦いに対して鼓舞する」形に方向転換したのでしょう。

まずは「まじない」を、効果的めん的「術」にすり替え、
「実は命を吸い取っていた」と効能自体も撤回した上で、

その直後「自分達が死力を尽くし切らないと勝てない戦いだ」と鼓舞し、
それからなんとか、それを聞いた信も目の光を無事に復活させ、
「ああ、俺もそう思っている」と力強く答えてくれたのでした。


この経験から羌瘣は、自分が信に寄り添えるのは戦いの中だけと
改めて思い直した
んだと思います。

これが今後の羌瘣の行動原理になったと言うことでしょう。


そしてこの約10数日後、対峙する龐煖との戦い

「戦わせない、あいつ(信)が来る前におまえ(龐煖)を仕留める」
(57巻144ページ)

と決心する流れとなったのでしょう。


終わりに


やー、綺麗に腹落ちする考察ができて、なんと言う自己満よ。

51巻の天幕手繋ぎシーン、奥が深かったんだなぁ。
ここ以前、なんと自分が色々な違和感に目をつぶって
イチャイチャだけ楽しんでいた(笑)だけだったのか。
自分の下劣さを改めて思い知りました(汗)。


今回の記事作成後、黒羊戦の救出ハグの深堀を行ったことで
この記事から黒羊戦に関わる羌瘣の心の動きの描写を
記事から削除しています。

ここで書いた「離眼の守り子」に対する羌瘣の心の動きの考察が
個人的に好きだったので、機会あったら復活はさせたいです。

ただ、2人の仲が確定的な本編の流れでもある中で、
過去の深堀は「何を今更」感も拭えないので、
それこそ今後の本編の展開次第って感じでしょうね。

また機会が出来たらお付き合いいただければ幸いです。


最後までお読みいただき、ありがとうございました。




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