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2.ちっぽけな自分が愛しい

「あの畑で育てているものは何だと思う?」

「◯◯◯?」

「正解!」

朝の散歩中の母とおじいさんの会話は、本当にたわいのないものだったけれど、そんな何気ない会話の根底に静かに流れている穏やかさが、母を日に日に


元気にしていった。


「でも、愛とは、違うかな‥

ただ、言葉を交わし合うことがこんなに楽しいなんて思ったことはなかったから、このままずっと続くことを祈るよ。」

そう言った後、母は目を伏せた。

愛とはどんなものかを知らずに生きてきた母は、愛とはもっと、計り知れない位の大きな感情の渦に呑まれてどこかへさらわれていくようなものだと思い込んでいるのか‥

目を閉じると、自然と流れてくる穏やかで優しい光こそ、愛であることには、まだ気づいていなかった。


ただ、おじいさんと出会ってからの母は、明らかに軽やかになり、笑顔が増えた。そして本人も気づかないうちに

今までとは違う新しい祈りが、

母の未来を動かし始めていた。
  
73歳のおばあさんと83歳のおじいさんが、ある日突然、とある田舎道でばったり出会ったのは偶然ではなく、

明らかに必然だった

人は短い一生のうち、縁のある人としか出会えない。そう思うとすべての出会いは、何かしら自分にとって影響を与えてくれる素晴らしいものだから、出会いの裏側に隠されている本質を見抜いて

魂の成長を促されていることに感謝することが、

穏やかに、心乱すことなく生きていく知恵ではないかと思う。

母は、この出会いによって、今まで後ろばかり振り返って嘆いていた生き方から、

まだ見ぬ優しさに溢れる未来を想いながら、前を向いて「今」を生きていく生き方に変わっていった。

人は、自らの人生に一すじの

愛という灯りを見い出すと、

永遠には続かないという人生の

「儚さ」

を本能的に悟り、

「今を生きる強さ」

にはっきりと目覚め

失われていたエネルギーを取り戻す。

そして、愛を広げる世界へと飛び立っていく


「大切な今、という一瞬を生き切る」

ことこそが、私たちに与えられた使命。


母は昔、ローカル歌手として歌を歌っていた。

「好きなことをしてお金をもらえるなんて、こんなに幸せなことはないと思っていたよ。」

と聞かされた時、とても羨ましかったことを覚えている。

母はこれから、おじいさんとどのようなハーモニーを奏でていくのだろうか。

そしてそのハーモニーが生んだ愛を、どのように広く還元していくのだろうか。

ようやく母の第二の人生が、始まろうとしている。


気がつけば収穫の時期が終わり、稲穂の根っこだけが力強く地面をはっている田んばを吹き抜ける風が

少し肌寒くなったある日、

おじいさんは、しっかりと母の手を導いて

「ここがわしの家じゃ」

と、教えてくれた。

おじいさんの家は、母の家から歩いて15分程のところにあった。

こんなに近くで生きてきたのになかなか出会えなかった2人が、ある日ある場所で、呼ばれるように引き寄せ合った。

その奇跡こそ、母にとってもおじいさんにとっても必要だから起きたことであり、

子供の頃、母親から愛情をもらえなかった母は、73歳にして、ようやく愛を学ぶ時期に入った。


そして

私自身も、

同じように母から貰えなかった愛情を、

母をそばで見守り、助けていくことで、

まだ子供のように

欲しがっていることに気づいた。


そうか、私も母と一緒だった‥

もう振りほどいたと思っていたけれど

私は、大切な大切な母の手を、

まだ強く、握りしめていた


けれど、


母がおじいさんと出会って、

真実の愛を知っていくことで、

ようやく真の意味で安心して、


母の手を

そっと放して、


自分の行くべき本当の未来を、

これからは生きられるようになるのかなあ

なんて、遠くで安堵感に包まれながら


母を想うことで

どこかで愛という見返りを

ひたすらに求め続けてきた

ちっぽけな自分を


初めて 泣きたくなるくらいに


愛しいと、感じた。





 


 




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