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4.安らぎのオアシスへの道標

「退院したから、明日からまた散歩に行けるよ。」

心臓の検査入院をしていたおじいさんから、一本の電話がかかってきた。

83歳という年齢もあり、もしものことがあってもおかしくないかな‥という不安がどこかでよぎっていたけれど、思ったより元気そうな声で、母は心から安堵した。

またおじいさんと一緒に朝の散歩ができる。そう思っただけで再び目の前に映る世界が、温かい無数の光たちに包まれて輝き始めた。

その日の夜は、元気を取り戻したおじいさんの優しい笑顔を思い浮かべながら、眠りについた。

すっかりと秋も深まり、地面を彩っている落ち葉たちが、カラカラとかすれたような音を立ててあてもなく儚げに流されていく様子が、この世の虚しさを静かに漂よわせる翌日の早朝、

母は浮き立つ気持ちを抑えながら、日の出に合わせて家を出た。

少し息を切らしながら歩いていくと、おじいさんがいつもの場所で待ってくれているのが見えた。

母は嬉しくなり、足早に駆け寄って話しかけた。

「退院おめでとうございます。良かったですね。」

「ありがとう。」

おじいさんの第一声は、思ったよりも元気がなかった。母が少し不安気な表情になったとき、おじいさんは息を飲んで、ゆっくりと話しはじめた。

「おまはんはとっても元気じゃから、歩く速度が早い早い。わしみたいな足の悪いおじいさんと一緒に歩いてたら、おまはんの運動にならんじゃろう。」

おじいさんの口からは、思いもよらない言葉が出てきた。

びっくりして頭が真っ白になった

その瞬間、

母は、すべてを察した。

おじいさんはたった今

別れを告げようとしている。

「そんなことないですよ。一緒にお話ししているだけですごく楽しいですし。」

母は努めて笑顔を心がけた。けれど、おじいさんから流れてくる空気が、もう以前とは違ってきているのを感じ取った。

母は昔から人にかなり気を使って生きてきた。そうするように子供の頃から厳しく育てられてきたからだ。そのため相手の言わんとすることはすぐに察しそのまま受け入れ、自分の意見は極力言わないようにすることに、すっかりと慣れてしまっていた。

これでもう、終わりなんだ‥

そう思うと、母の左胸の鼓動がだんだんと大きく高鳴り始めた。


そして気づいたら

いつもの散歩コースが、

収穫を終えた後の淋しげな風が吹き抜ける田畑がどこまでも広がっているだけの

寒々しく虚しい光景に、

一瞬にして姿を変えた。

それでもそんな気持ちの変化を悟られないように、おじいさんの歩く速度に合わせて母はにこやかに歩き続けた。

別れが近づいた頃、おじいさんは言った。

「後でおまはんの家に、木を2本、軽トラに積んで運んで行くから、庭に植えてくれへんか。」

「分かりました。じゃあ、お待ちしてますね。」

母は出来る限り笑顔で答えた。


家に帰った後、母はおじいさんが来るのをひたすら待ち続けた。

けれど、

おじいさんは待てど暮らせど、

現れることはなかった。

母はこれまでのおじいさんとの思い出を回想し始めていた。散歩中偶然に出会ってから一ヶ月半というとても短い間だったけれど、毎朝の散歩が楽しみで仕方なかった。

母はこの出会いに心から感謝していた。

けれど、そんな気持ちとは裏腹に

諦めきれない気持ちをもて余して苦しんでもいた。

心の空虚感を埋められることのないまま母は73歳まで生きてきたけれど、ようやく手にした穏やかな幸せを

そっと放して

また自分を押し殺して生きる人生に戻るのだろうか。

自分の心をありのまま解放できる場所があることが、何より人間にとって大切だったことを確かに学んだはずなのに、いつもと変わらない様子で静かに家事をしている。


母の心の底に 確かに芽生えていた

希望の芽。

それは母の人生を

一瞬にして光に変えた。

そんな神様がくれた出会いは、

残された儚い人生を母に、

どう生きるように伝えたかったのか。


おじいさんは 母を気遣って

身をひいた

母も おじいさんを気遣って

身をひいた


けれど

それはきっと、神様の意志に

反している


人は いつの日からか

心から深く繋がり合える人を求めて

愛の欠落感という 大切な宝物を

背負って生きている

その宝物が

時として人を傷つけたり

似たような傷をつけ返されたり

していく中で

空虚で、ちっぽけな自分を

思い出させてくれる

そして

そんな自分を愛しいと認めたとき

本来の自分を取り戻し 光溢れる世界へと

還っていく


母にとっての幸せは

空虚な自分を認めて 

子供のように 本音を声に出し

神様からの愛という贈り物を

胸にしっかりと抱いて

自分を慈しむことではないか

と思うのだけれど


お互いを思いやり 離れようとしている

2つの清らかな光は
 
安らぎのオアシスへの

道標を見失って、 

同じ祈りを重ね合わせながらも

殺風景な寒空の下 彷徨っていた


そして

次の日おじいさんは

母の予想した通り、現れなかった


ただ 

互いに強く握りしめた

揃いのキーホルダーだけが

優しく金色に 輝いていた















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