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あの頃のアントニオ・ペーニャ’97⑤(終)

その後ボクたちは、ロス・カデテス・デル・エスパシオというチームとの連戦に入った。

前回多少なりとも評価され、今回はどの会場に行ってもカデテスとの対戦ということは、オフィスは「テレビで日本人とカデテスの抗争をやるから」と言ってプロモーターにこのカードを売りこんでいるのだ。しかしなぜかテレビマッチで、この試合が組まれることはなかった。

これはボクたちが年末日本に試合に行くと、オフィスに伝えたことが原因だった。
ペーニャの頭の中ではボクたちとカデテスの抗争を予定していたのだが、日本行きを聞いて白紙に戻してしまったのだろう。

実際にこのころ、ボクはペーニャとたまたま話をする機会があったのだが、開口一番「お前、日本に行ったんじゃないのか?」と言われ、テレビ収録が入っていない理由を理解できたのだ。
ちなみに日本には、その2か月後に1試合やりに行くだけなので、テレビマッチのスケジュールにはほぼ問題はない。
ペーニャは頭の切り替えが早いのはいい面でもある一方で、細かいことを確認したり調整したりということは一切やらないため、こんなことはAAAではよくあることだった。

そして年明け早々、唐突に事件が起こった。

「今後きみたち日本人ユニットを、今までのようにテレビマッチに組むことはできない。」

1月の終わりにオフィスに呼び出されたボクたちは、マッチメイカーのマルコス・メディーナにそう告げられた。

その予兆は数週間前から感じていた。

というのはビザの更新のため、ヘススとイミグレーションに必要書類を確認しに行くなど動いていたのだが、肝心のペーニャのサインの入ったレターがいつまでたってもオフィスから用意されなかったからだ。
当時メキシコで働く場合、まずFM-3と呼ばれるビザを取得し、それを5年間更新するとFM-2に切り替えることができる。さらにそれを5年間更新し続けることで永住権が取得できるのである。
ボクはFM-3を5年間更新し、この年からFM-2に切り替えようとしていたところだった。

ボクたちがクビになったのは、ペーニャがある出来事で大激怒したためだ。巻き添えを食うような形で、そのしわ寄せを無関係の日本人選手全員が被ってしまった。

そして呼び出された日は、ボクのビザの有効期限の最終日でもあった。

クビ宣告の直前、オフィスに行くと1年前と同じようにその場にタマレスが用意され、1年前と同じようにペーニャも社長室から出てきて、みんなと一緒に食べだした。
偶然にも1年前と同じくボクの隣でパクつくペーニャに、1年前と同じように、ボクはビザの話を切り出せずにタマレスをほおばった。

すべてがバカらしくなったボクはプロレスをやめ、たまたま縁があったので、取材する側へとまわった。

しばらくはCMLLの取材だけだったが、1年近くたったのちにAAAを取材する機会に恵まれた。

取材申請のためにオフィスに電話すると、マルコスはボクからの電話に大喜びしており、会場でもヘススがペーニャのもとへと連れて行ってくれるなど大歓迎だった。クビにしたのはペーニャの独断で、彼らはそれに対して何か意見できる立場にはないのだ。
しかしそのペーニャも、クビにしたことなど忘れたかのように出迎えてくれたのは、ちょっと微妙なところだった。

翌年の年末には別件の仕事で訪れていたアカプルコで、偶然ペーニャに出会ったことがある。
当時のAAAは毎年12月に年内最後のテレビマッチを、ゲレーロ州チルパンシンゴで行っていた。なぜそんな田舎で最終戦をやるのか不思議に思っていたが、試合のあと車で1時間ほどのアカプルコに移動して年末の数日間、バケーションを楽しむのがペーニャの恒例行事だったのだ。

そして06年9月にエル・トレオで行われたビッグマッチ、ベラノ・デ・エスカンダロに取材に行った際のこと。この大会はおそろしいほどに進行が悪く、6時予定の開始時間は1時間以上遅れ、終了したのは夜中12時を回っていたと記憶している。

というのも、この日会場にはペーニャの姿はなく、病床から現場に指示を出していたのだ。
現場サイドはペーニャに指示を仰ぐべく電話で連絡し、やりとりをしていたため、試合と試合の間は長い時には10分もの間ができてしまい、間延びした大会になってしまった。

この大会で最後の指揮をとったペーニャは、その3週間後55歳という若さで亡くなった。

ペーニャはその前年すでに体調を崩しており、5月から7月にかけてAAAのテレビは再放送ばかりされたことがあった。これはペーニャが現場で試合をチェックすることができなかったため、やむをえなく過去の大会を放送していたのだ。

偶然だが、ボクがメキシコにいた15年間は、ペーニャがAAAを旗揚げしてから亡くなるまでの期間とほぼ重なる。

90年代はルチャと言えばAAAといってもいいほど、その名は世間に浸透しており、アレナ・メヒコやエル・トレオは過去のものとなりつつあった。

そして派手にショーアップされたAAAのテレビ中継は、とても自分が目指しているものと同じ次元のものとは思えないほど、洗練された世界を映しだしていた。

そんな団体とは縁もゆかりもないと思っていたが、不思議なものでボクはそんなメジャー団体に流れ着き、1年の間だが仕事をすることができた。

それは何物にも代えがたいとても濃厚な1年で、それまで知らなかったルチャ・リブレの世界を体験することができた。

ボクのルチャドール生活に終止符を打ったのはペーニャであることも含め、AAAがこんなに人生のターニングポイントに関わっていたとは、今回文章を書くまで気づかなかった。
そう考えると、いいことも悪いことも含め、ペーニャには感謝を伝えるべきなのかな、と思うのだった。

おわり


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