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日本は戦争させられた?ルーズベルトの知られざる野望とは

フランクリン•ルーズベルトといえば?

アメリカ第32大統領、フランクリン・ルーズベルトと言えば、どんなイメージがありますか?

ニューディール政策を実施して、アメリカ経済を復活させた大統領、第二次世界大戦を終わらせた大統領など、何かとプラスのイメージが強い、ルーズベルト。

しかし、ルーズベルトには、日本人には明かされることのなかった、闇の一面がありました。

それは、異常なまでの反日主義です。

第二次世界大戦への参戦

時は1939年9月、ヨーロッパで始まった第二次世界大戦で、ドイツに追い詰められていた盟友・イギリスを助けるためにも、ルーズベルトは「何とかして参戦できないか」と考えていました。

ルーズベルトは、ドイツのナチスを抑え込むためには、「アメリカが立ち上がらなければならない」と固く信じていたのです。

しかし、アメリカ国民の85%は、「第一次世界大戦の惨状は二度と繰り返したくない」と考えていて、アメリカが参戦することを望んでいませんでした。

また、ルーズベルト自身も、戦争をしないことを公約して大統領になったので、何とかして「不干渉主義」の世論を変える必要がありました。

当時、1935年から1937年までの間に制定された「中立法」により、参戦国との武器の取引が禁止され、アメリカ商船がそうした製品を輸送することも、強く禁じられていました。

その目的は、どんな犠牲を払っても、アメリカが外国の戦争に関与することを防ぐため。

ヨーロッパで、ナチスドイツに追い込まれた同盟国を見ても、アメリカ国民の意思は、なかなか変わりません。

そこでルーズベルトは、当時、有色人種で唯一、世界に台頭して目障りだった日本を標的に、アメリカに戦争を仕掛けさせることを考えました。

日本が先に仕掛けたと演出することで、アメリカ参戦の口実が出来上がるからです。

そして、1940年12月、アメリカ議会は中国国民政府への、1億ドルの借款供与案を可決。

ルーズベルトは、「われわれは、民主主義の兵器基地とならなければならない」との談話を発表します。
1941年3月には、大統領の権限で、他国に武器や軍需品を売却、譲渡、貸与することができる、武器貸与法を成立させます。

これによって、アメリカはイギリスや中国国民政府、ソ連に軍事援助を行えるようになりました。

「戦争しない」と言って選挙に勝った、わずか半年後のことでした。

この辺りから、ルーズベルトは、黄色人種で目障りだった国、日本をじわじわと追い込んでいきます。

日本を開戦へ追い込んだルーズベルト

ルーズベルトの側近、財務長官ヘンリー・モーゲンソーは1940年、宣戦布告せずに、中国国民政府軍を装って、日本を先制爆撃する計画を、政権内部で提案しました。

モーゲンソーは当時、「日本の家屋は木と紙でできているのだから、焼夷弾で焼き払おう」と目を輝かせていました。

アメリカはすでに、関東大震災の被害を分析し、焼夷弾による空襲が、日本を壊滅させるための、効果的な方法だと認識していたのです。

モーゲンソーの案は、そのときは採用されませんでしたが、アメリカは「フライングタイガース」と称し、戦闘機100機と空軍兵士200人を中国に派遣。

彼らを、退役軍人、クレア・シェンノートの指揮下に置きます。

戦闘機は、中国国民政府軍のマークを付けていましたが、アメリカは実質的に支那事変に参加していたと言えるようなものであり、ルーズベルトは極秘に、「戦争には参加しない」という公約を破っていたのです。

国民政府軍を装った、日本への先制爆撃計画は翌1941年、息を吹き返します。

7月23日、ルーズベルトはJB355と呼ばれる文書に、署名しました。

その文書とは、150機の長距離爆撃機を、国民政府軍に供与して、東京、横浜、京都、大阪、神戸を焼夷弾で空襲するという計画書。

真珠湾攻撃の5カ月前に、ルーズベルトは日本への攻撃を命令していました。

しかも、この計画を推進した、大統領補佐官ロークリン・カリーは、ソ連のスパイだったことが明らかになっています。

ルーズベルトとソ連

実は、ルーズベルト政権は、疑似共産主義政権と言われるくらい、当時のソ連と非常に親密な関係にありました。

アメリカは、第一次世界大戦に参戦を決めたウィルソン大統領以降、干渉主義政党である民主党に、けっして政権をとらせませんでした。
民主党が、1932年の選挙で、フーバー政権を倒せたのは、1929年秋から始まった世界恐慌への対策に、フーバー政権が失敗したから。

ルーズベルト以前の共和党政権は、1917年に成立したソ連を、国家として認めることはありませんでした。

しかし、ルーズベルト政権は、政権1年目の1933年に、すぐにソ連を正式承認します。

承認の条件は、絶対に内政干渉しないことでしたが、ソ連がそれを守るはずがありません。

当時、アメリカに蔓延していた共産主義者グループ、労働組合、左翼思想家などを利用して、スターリンは留学生を装ったスパイを、全米の大学に送り込み、米国の最先端技術を盗ませました。

政権中枢では、共産主義に寛容な思想の、ハリー・ホプキンスが大統領側近として、アメリカ外交をリードしました。

日本の先制爆撃計画を起草した、財務長官ヘンリー・モーゲンソーは、ルーズベルトの親友の立場を利用して、国務長官コーデル・ハルを差し置いて、外交問題に口を挟みました。

そのモーゲンソーの右腕が、ソ連のスパイであるハリー・デクスター・ホワイト。

彼こそ、日本をアメリカとの戦争へと向かわせた、「ハルノート」を起草した人物だったのです。

さらに、第二次世界大戦末期、アメリカとソ連は同盟国になっていました。

ルーズベルトは、ソ連のスターリンと組んで国際連合を創設し、戦後の国際秩序を構築しようとしていたのです。

そのため、1945年2月、ソ連領・ヤルタで行われた首脳会談で、ソ連による中央ヨーロッパ支配と、アジアの共産化、特に中国共産党政府と、北朝鮮の誕生を容認してしまいました。

今の国際秩序は、ルーズベルトによって生み出されたと言っても、過言ではありません。

日本の孤立化

話は戻り、JB355の署名から2日後の7月25日、アメリカは国内の日本資産を凍結。

7月28日に日本が、フランス領インドシナ進駐に踏み切ると、ルーズベルトは8月1日、日本への石油輸出を、全面的に禁止しました。

そして英国、中国、オランダも巻き込んで、封じ込めを強めます。

これが、かの有名な「ABCD包囲網」です。

石油がなければ国は成り立ちませんから、日本は東南アジアへと、資源を求めて進軍せざるを得なくなりました。

しかし、その一方で、日本はアメリカとの対立を、平和的に解決しようと努力していました。

石油全面禁輸から、1週間後の8月8日、当時の首相・近衛文麿は、ハワイでの日米首脳会談を、駐米大使・野村吉三郎を通じて、米国務長官のコーデル・ハルに提案しました。

しかし、ルーズベルトはそのころ、大西洋上の軍艦で、イギリス首相ウィンストン・チャーチルと、大西洋会談を行っていました。

ここで発表されたのが、あの大西洋憲章で、「領土不拡大」「国民の政体選択権の尊重」「強奪された主権・自治の返還」がうたわれました。

これを、当時、植民地主義を取っていた、アメリカとイギリスが発表していたのです。

しかし、実際「政体選択権の尊重」は、ドイツ占領下の東欧のことを言っていて、アジアの有色人種に適用するつもりは、ありませんでした。

そして、大西洋会談でルーズベルトは、参戦を求めるチャーチルに対して「3カ月は日本を子供のようにあやすつもりだ」と話します。

これは、戦争準備のため、時間稼ぎをするので、しばらく待ってくれという意味。

先ほどの近衛文麿の提案に対して、ルーズベルトは「ハワイは無理だが、アラスカのジュノーでなら会談してもいい」と回答しましたが、初めから、首脳会談を行うつもりなどありませんでした。

ルーズベルトは何とかして、日本と戦争をして、その強大な影響力を弱体化させたかったのです。

実は1940年10月、米海軍情報部極東課長、アーサー・マッカラムが、「マッカラム覚書」と呼ばれる、日本を追い詰めて先制攻撃させる方法として、8項目の覚書を書いています。

そこには「在米日本資産の凍結」や「オランダとともに、日本への石油輸出を禁止する」といった内容がありました。

すべての点が線でつながったように、8項目の覚書は、ほぼ実行に移されたのです。

そして、開戦へ

1941年10月、日本の首相となった東条英機は、11月にアメリカへ特使を派遣し、コーデル・ハル国務長官と会見させました。

日本は、アメリカが日本の資産の凍結を解除すること、太平洋における、アメリカ海軍の拡張を停止することなど、至極当然のことを要求しました。

これに対してハルは、日本がすべての占領地から撤退することを提案します。

12月1日に、日本が直ちにこれを拒否したため、交渉は膠着状態となってしまいました。

さらに、米陸軍参謀総長、ジョージ・マーシャルは、非公式の記者会見で「紙でできた日本の都市を燃やす」「市民を爆撃することに何の躊躇も感じない」と言い放ち、ますますアメリカの反日感情が露わになってきます。

人種差別主義者として知られるルーズベルトは、日本人を激しく軽蔑するような言葉を残しています。

ルーズベルトは、「日本人は頭蓋骨の発達が、白人より2000年遅れているから凶悪なのだ」と語っていたのです。

また、駐米イギリス公使、ロバート・キャンベルは、ルーズベルトとの会談内容を、本国に手紙で報告しました。

その手紙の中で、ルーズベルトがアジアで、アジア人と白人の「人種交配」を進めることが重要と考え、「インド-アジア系、ユーラシア系、さらにいえば、ヨーロッパ-インド-アジア系人種なるものを作り出して、それによって、立派な文明と極東『社会』を生み出していく」と記述されていたのです。

しかし、「日本人は除外し、元の島々に隔離してしだいに衰えさせる」と語り、日本人だけは、生き残らせず、撲滅しようと企んでいました。

このような「元の島々に隔離してしだいに衰えさせる」というルーズベルトの悲願を、言葉に出して、日本に通告したのが「ハル・ノート」でした。

11月26日に通告されたハル・ノートには、日本がすべての占領地から撤退することが提案されており、日本からすると、とても受け入れられる内容ではありません。

そうして、戦争以外に手段がなくなった日本は、真珠湾攻撃を実行することとなりました。

そして、ルーズベルトの思惑通り、アメリカ世論は一挙に戦争容認に傾き、戦争を開始することができました。

戦争中

戦争が始まると、アメリカの日本への残虐行為は、すべて正当化されました。

太平洋の戦場では、アメリカ兵による日本兵への残虐行為が行われました。

初の大西洋単独無着陸飛行に成功した、チャールズ・リンドバーグは、当時の戦場についてこのように語っています。

「わが軍の将兵は、日本軍の捕虜や投降者を射殺することしか念頭にない。日本人を動物以下に扱い、それらの行為が、大方から大目に見られているのである。われわれは、文明のために戦っているのだと主張されている。ところが、南太平洋における戦争を、この目で見れば見るほど、われわれには文明人を主張せねばならぬ理由が、いよいよ無くなるように思う」

具体的には、アメリカ兵は、日本兵の遺体から金歯を盗んだり、耳や鼻、さらには頭蓋骨を「お土産」として持ち帰っていたのです。
ルーズベルトだけでなく、当時のアメリカ人は日本全体を、人間ではない野蛮な存在とみなしていたのです。

ただし、アメリカ人はドイツ人やイタリア人は同じ白人であり、人種的蔑視の対象ではないとして、全く別物として見ていました。

また、戦争が始まると、アメリカ国内では、12万人以上の日系人が、全財産を没収されて強制連行され、鉄条網が張り巡らされた収容所に入れられました。

強制収容された日系人のうち、7割がアメリカ生まれの2世でアメリカ国籍を持っており、残り3割の1世も永住権を持ち、20〜40年もアメリカで暮らしていました。

なんと、ルーズベルトは開戦5年前の1936年に、ハワイの日系人を強制収容する計画を、検討していたことが明らかになっています。

戦争以前に、ルーズベルトは日本人という存在を、いかに消したがっていたかということが、よく分かりますね。

そして、アメリカによる、残虐行為の最たるものが、東京大空襲や広島、長崎への原爆投下など非戦闘員の大量虐殺。

アメリカは戦争が始まると、ユタ州の砂漠に、東京・下町の街並みを再現する、日本家屋群を作り、ちゃぶ台の上に、はしと茶碗まで置いて、焼夷弾の効果を確かめる実験を行いました。

そうして完成したのがM69という、日本を焼き尽くすための「新型焼夷弾」。

江戸時代の大火が春に集中していたことを調べ上げて、1945年3月10日を東京大空襲決行の日に選びました。

東京大空襲の約1カ月後の4月12日、日本を戦争に追い込んだルーズベルトが死去し、後任に副大統領の、ハリー・トルーマンが就任しました。

このトルーマンが、8月6日に広島に、9日に長崎に原爆を投下した大統領です。

投下を決めたのはトルーマンですが、原爆の開発を進めたのは、やはりルーズベルトでした。

ルーズベルトは、真珠湾攻撃2カ月前の1941年10月に原爆の開発を決断します。

翌年、原爆開発の「マンハッタン計画」に成功しました。

1944年9月、ルーズベルトとイギリス首相チャーチルは、原爆が完成したら「日本人に対して使う」という秘密の合意、ハイドパーク協定を結びました。

そして、ルーズベルトが亡くなったことは、日本にとっては、全く喜ばしいニュースではありませんでした。

なぜなら、トルーマンもまた、激しい反日主義者だったからです。

ポツダム宣言が発表されたのは、1945年7月26日ですが、トルーマンはその前日の25日に「広島、小倉、新潟、長崎のいずれかの都市に、8月3日ごろ以降の、目視爆撃可能な天候の日に、特殊爆弾を投下する。追加分も準備が整い次第、前記目標に投下せよ」と2発の原爆投下を命令していたのです。

トルーマンはこの日の日記に「ジャップに対し、降伏し、命を無駄にしないよう、警告の宣言を発するつもりだ。彼らが降伏しないことは分かっている」と書きました。

トルーマンは、ポツダム宣言とは関係なく、原爆を落とすつもりだったのです。

広島と長崎に原爆を落とすまで、日本を降伏させないように、ポツダム宣言はできていました。

アメリカは開戦前に、日本の戦争回避の努力を知りながら、時間稼ぎをして追い込み、戦争が終わるときも、和平の意図を知りながら、引き延ばして原爆を落としたのです。

そして、アメリカの思惑通り日本は降伏し、アメリカによる日本統治が始まっていくのです。

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