見出し画像

「窓ぎわのトットちゃん」 と 「火垂るの墓」

私の人生に影響を与えた本。
そのうちのひとつが「窓ぎわのトットちゃん」

小学校高学年のときにはじめて読んだ。
「教育とは、まさにこれ!!!」と、トットちゃんとは、ほぼ真逆な教育を受けながら、衝撃を受けた。

いつか子どもが生まれたら、私はトットちゃんの通う「トモエ学園」のように、自由にのびのびと子どもを育て、彼らの好きなことを追求できる環境を用意したいなと思っていた。

何度となく読み返し、人にあげては購入しを繰り返していたが、なんと、子どもが生まれてから、一度も読んでいないし、今の住まいに所有もしていないことに気が付いた。

「窓ぎわのトットちゃん」が好きすぎて、そのエピソードを反芻しすぎて、
「実際に読む」ことを忘れていたのだ…。

「一家に一冊窓ぎわのトットちゃん!!」と即購入。

表示のいわさきちひろさんの絵が美しい。


1.トットちゃんは戦争の時代を生きていた


本を開く。目次から読む。
目次の次のページには…

「これは、第二次世界大戦が終わる、ちょっと前まで、実際に東京であった小学校と、そこに、ほんとうに通っていた女の子のことを書いたお話です。     

「窓ぎわのトットちゃん」

ートットちゃんは、「火垂るの墓」の清太と節子と、同じ時期を生きていた
なぜだかわからないけど、私は強烈にこのことを感じた。

それは、本書を読み進められなくなるほどのショックだった。

2.トットちゃんと清太と節子の運命

本書の中には、
傷痍軍人の慰問にトットちゃんが赴く話や、食べ物は配給制になりお菓子なんて手に入らなくなるエピソードが、トットちゃんの目線から描かれている。
まさにトットちゃんは、戦争の時代を生きていたのだ。

でも、
・電車にのって私立小学校に通うトットちゃん
・外国製のシルクの大きなリボンを身に着けるトットちゃん
・大きな飼い犬(ロッキー)とほんとうの友達のように過ごすトットちゃん

彼女が、親も家も失くし、学校なんてもちろん行けず、おしゃれなんて恐らく考えることもせず、蛍とあそんだ想い出とともに死んでいくしかなかった清太と節子と同じ時代を生きていたとは…。

同じ時代に生きていても、どんな環境に生まれるかで、こんなに人生が変わってしまうものなのか。

3.トットちゃんは何不自由もない子どもだったのか?


トットちゃんは、清太や節子より確かに恵まれていた。

でも、トットちゃんは、その家族は、何の苦労もなくあの時代を生きたのだろうか??

本書に、こんなエピソードが記載されている。

トットちゃんのパパは有名なヴァイオリニストだった。
そのパパに、軍需工場にいって、軍歌をヴァイオリンで弾くと、帰りにお砂糖やお米や、もうほとんど手に入ることはなくなっていたお菓子をいただける、という話がきた。
でもパパは、「僕のヴァイオリンで、軍歌を弾きたくないんだ…」と言って、その依頼を断った。

そしてママは、そのパパの決断に「そうね。やめれば?」と答え、パパは「ごめんね」とトットちゃんに謝った。

「窓ぎわのトットちゃん」より 抜粋・要約


トットちゃんのパパは、あの困難な時代においても仕事を選べる程の余裕があったから、食べ物にもまだ困っていなかったから、この”耳よりなお話”を断れたのだろうか。

たしかに、そういう側面はあっただろう。

でも私は、トットちゃんにパパにも、大きな苦悩があったと思う。

音楽家としてこうありたいという自分の理想と、社会から求められる役割との乖離
その音楽家としての矜持と、食べ物の不自由を取り除きたい、子どもにお菓子を食べさせてやりたいという、夫や親としての気持ちのせめぎあい、などなど…。

あの時代に、生き死にに関わる問題で悩めるなんて贅沢かもしれない。
でも、生き死にに関わらない問題だからこそ、決めきれない、誰にも言えない、あの選択は正しかったのかわからない、そういう苦しさもあると思う。

そしてトットちゃんも、そんなパパの苦悩、職業や生き方に対する矜持までをも奪いさろうとしたあの時代の雰囲気を、理解していたからこそ、このエピソードを書いたのだと思う。

4.トットちゃんと現代に生きる私との違い


トットちゃんは、清太や節子のような、極限状態で生きる子どもがいることを、知らなかったんじゃないかなとも思う。
情報統制もされていて、ネットもない時代だったのだから。

現代は違う。
様々な媒体を通して広く世の中のことを知ることができる。
また、昔に比べると、現地に赴いて実際を”見る”ことも、時間的にも金銭的にも格段にやりやすいだろう(もし、自分で直接現地に行けなくても、実際に現地に行った人の話にアクセスすることはできる)

5.明日からの私へ

現代に生きる私は、同じ時代に生きる誰かのことを、知ろうと努力すれば、叶う。
だから、知ろうとする努力を怠ってはいけないなと思う。

それから、
だれにでも、その人なりの苦悩ややりきれなさをもって生きているということを、忘れないでいたいなと思う。
この「だれにでも」は、自分の親や夫や子どもも当てはまることも、ちゃんと理解したいなと思う。

なんだか、「窓ぎわのトットちゃん」から話が離れてしまったけど…
一家に一冊 「窓ぎわのトットちゃん」 です。

いいなと思ったら応援しよう!

この記事が参加している募集