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バージニア州プリンスエドワード郡の抵抗

 アメリカの分離教育撤廃に至るまでの、黒人たちの戦い、白人至上主義者の抵抗についてを書く、プチシリーズ。
 第一弾は、Plessy v. Ferguson(プレッシー対ファーガソン裁判)でした。 

 第二弾は、Brown v. Board of Education(ブラウン判決、ブラウン対教育委員会裁判)。

 第三弾の今回は、ヴァージニア州プリンスエドワード郡がみせた、分離教育に対する抵抗です。

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 1896年のPlessy v. Fergusonから約60年後、1954 年5月17日、Brown v. Board of Education(ブラウン判決)によって、「分離教育は不平等」と認められた。
 
 ”分離すれど平等”がついに覆された!

 この裁判での勝利は、教育だけではなく、それ以外の不平等とも戦える、チャンスと勇気を黒人に与えた。
 公民権運動の歴史は、ブラウン判決なしでは語れない、とても大切な裁判だった。


 「教育機関を人種で分離することは不平等です」
 「分離は、憲法における、”公共施設の完全な平等”に違反します」

 この判決により、公立学校における人種隔離撤廃に乗り出せる!
 ・・・はずだったが、この歴史的判決には重要な内容が欠けていた。

 ”どのように”、”いつまでに”実現させるか、という具体的な事柄が、なにひとつ決められていない!!!

 その結果、

 「南部では、白人が黒人と同じ学校に通うことは絶対にない!」

 と、学校統合に対する激しい抵抗が起こった。

 そこで、1年後の1955年5月13日、最高裁判所は、

 「慎重なスピードで、計画的に分離教育を廃止していきなさい」

 という命令を出した。
 これがブラウン判決Ⅱだ。

 これに対し、Arkansas(アーカンソー)州のFaubus(フォ―バス)知事は、

 「我々の崇敬する神の名において、我々の尊い名誉において、我々が常に持ち続けた品位、品格・・・。

 一体全体、アメリカはどうなってるんやーーーーーーっ!!!

 と合衆国に対する失望を表明した。

 ミシシッピ州出身、上院議員のJames Eastland(ジェームス・イーストランド)は、

 「南部では市民全員が分離を望んでいる!
 最高裁判所の命令であっても、このディキシーでは分離された学校を維持していく!」

 と決意を述べた。

 アラバマ州保安官のMel Bailey(メル・ベイリー)は、

 「南北戦争から100年経って、この国は憲法14条で平等が認められてる?・・・
 法の下に平等?・・・
 ニグロが平等な扱いを受ける日が来る?・・・。
 どういうつもりや⁉
 俺のかわいい子供が、ニグロと同じ学校へ行く?

 抵抗やーーーっ!

 と絶対抵抗の意思を明確にした。

 そして、ヴァージニア州ではHarry Byrd(ハリー・バード)上院議員が、

 「最高裁判所は州の権利を侵した!
 統合された学校の実現には全力で反対する!
 統合を指定された学校の最高責任者に、学校をクローズする権利を与える!」

 と発表した。

 その結果、1958年9月から、ウォーレン郡、シャーロッツビル郡、ノーフォーク郡の公立学校が、ヴァージニア州知事によりクローズされた。
 学校へ行けなくなった子供たちの数は、1万2千人だ。

 翌年1月、合衆国最高裁判所と、ヴァージニア州最高裁判所の命令で、学校は再開する。
 けれども、統合は一向に進まない。
 国から統合を指定された学校の、生徒や親たちは、黒人の転入を阻止する。
 そして、そのような危険な学校に、我が子を転入させる黒人の親もいない。

 ヴァージニア州の中でも、モートン高校のあるプリンスエドワード郡は、特に、陰湿な抵抗を示した。
 ブラウン判決Ⅱの後、

 「統合は10年後の1965年までに行うことにします」

 と統合をダラダラと引き延ばそうとした。
 その一方で、プリンスエドワード教育財団を設立し、白人のプライベートスクールの、教育システムを強化した。
 
 1959年5月、

「9月1日までに統合を完了しろ!」

 と最高裁判所が命令すると、

「統合するくらいなら、クローズする方がマシだ!」

 モートン高校だけではなくプリンスエドワード郡にある白人、黒人すべての公立学校をクローズした。

 それと同時に、白人だけの”プライベートアカデミー”をオープンした。

 学校から締め出された黒人の数は2千人だ。
 黒人教師も職を失った。
 他の土地に移れる人はまだいいけれど、他州に知人がいない人の方が多い。

 「学校に行ってない間は、何をしてるの?」

 「水を汲んだり、木を切ったり・・・。ときどき従弟と、川に釣りへ行くこともあります」

 「学校に行くよりも楽しい?」

 「いいえ。8年生までの本は自分で読めるけど、それより難しい本は僕には読めません・・・」
  
 あるインタヴューに、黒人少年が答えていた。
 私にもわかるほど、彼の英語はたどたどしかった。
 南部の黒人に与えられていた、教育レベルの低さがわかる。

 
 ブラウン判決以降、プリンスエドワード郡の状況はまったく変わらない。

 1963年9月、ついにRobert Kennedy(ロバート・ケネディー)大統領が動いた!

 大統領は、4年間教育を受けていない、子供たちのために、”プリンスエドワード・フリースクール”を開校した。
 白人4人を含む、約1500人の子供たちが通った。
 この学校は、1964年9月8日、政府命令でプリンスエドワード郡が公立学校を再開するまで、約1年間運営された。

 このとき、司法長官を務めていた大統領の弟(Robert F. Kennedy)が言った。

 「公立学校で、無料の教育を与えない国は、この地球上で、共産主義の中国、ベトナム民主主義共和国、サラクワ州(マレーシア)、シンガポール、ブリティッシュホンジュラス(ベリーズ:中央アメリカ)と、バージニア州のプリンスエドワードくらいだ」

 5年間の閉校を経て、人種統合されたプリンスエドワードの公立学校に、1500人の黒人生徒が戻って来た。
 白人は10人にも満たなかった。
 白人生徒が、黒人も通う公立学校に戻って来るのは、1970年代に入ってからだ。

 閉校していた5年間、2千人近い子供たちが、学校に通えなかった。
 その中で、教育を受け続けることができたのは、5%にも満たない。
 つまり、2千人中、どうにか教育を受け続けた子供は、100人以下だった。
 5年後に、再開した学校に戻れた子供はまだいい。
 中には、学校が再開したときには、学校に戻る年齢を過ぎていた子供たちもいる。

 2003年6月15日、プリンスエドワード郡は、1959年から1964年の5年間、教育を受けるチャンスを奪われた生徒のために、卒業式を執り行った。

 「俺は、学校に戻れると信じていた。
 でも、学校は始まらなくて・・・始まった時には、毎日16時間も働いていたんだ。
 今更、学校に戻れる状況じゃなかった。

 俺は、スペシャルだと思っていた。
 なにかできると信じていた。
 これからどうしたらいいのか考えながら、夜間学校に通い始めたのは、ミドルエイジになってからだよ。
 あの時代に失ったものはもう手に入らない」

 卒業式に参加した、ひとりの男性の言葉だ。

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