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老人ホームに春が来た🌸

 日本よりひと足先に桜が開花したシアトルでは、気温も15度くらいまで上がり、気持ちの良い日が続いた。ここ数日は、冷え込んでいるけれど、3月29日のイースターはお天気もよく、暖かく、春の訪れを感じずにはいられなかった。
 私が働く老人ホームの桜もすっかり散ってしまったけれど、イースター当日は満開だった。この日はワイン、軽食、ケーキが準備され、住民たちはミュージカル男優のパフォーマンスを観ながら、春の到来を祝った。
 学校や就職には関係ない老人たちだけれど、春になると彼らにも変化が訪れる。気候の変化による体調や精神の変化、家族の転勤や引っ越しによる環境の変化などだ。

 残念だったのは、ここのところ体調を崩していたジョージが、イースターパーティの翌日に亡くなったことだ。「俺、死ぬと思う」と話していたので、本人は痛みや苦しみから解放されて、楽になったと思いたい。
 ただ、残されたワイフのパティを見ているとつらくなる。
「何食べる?」
「・・・わからない。ジョージはいつも何を食べてたの?」
 いつもジョージに頼っていたパティは、食べたいものすら決められず、涙を浮かべる。60年以上連れ添ったジョージを失くし、悲しみに暮れる彼女には、さらなる試練が待っていた。メモリーケアへ移されるのだ。ここは、アルツハイマーなど、特別なケアが必要な人が入る場所だ。
 完全に隔離されたこの場所に、何度か食事を届けたことがある。多くの人が、ぼんやり椅子に座っていた。個人の部屋の壁は真っ白で、記憶が蘇るような品物を、部屋に持ち込むことは禁じられている。
 パティはジョージとの思い出を全て取り上げられ、メモリーケアへ引っ越しする。家族がそれを望んでいるらしい。そういえば、彼らの息子は、ジョージが亡くなるまで面会に来なかった。ホームにいる彼らのことしか知らないので、誰を責めることもできないけれど、なんだかな・・・と思う。自分の人生を他人に委ねるということは、そういうことなんだろうなぁ。

 パティは部屋を移動するけれど、ホームから出て行く人もいる。家族と同居する人、他のホームに移動する人、色々だ。
 その一方で、新しく入居してきた人もいる。
 ジュディは穏やかな女性だ。
「ランチとディナーの食事の時間が近いから、ランチはスープだけ、軽く食べることにするわね」
 頭もしっかりしている・・・と思ったけれど、そうでもなかった。
 昨日のことだ。デザートのアイスクリームを持って行くと、ジュディが言った。
「ランチも食べてないのにデザートなの?私のランチはスープだけ?」
「ランチ注文してないの?」
「してないわよ。あなたがスープを持ってきたんでしょ」
「スペシャルでいい?今からすぐに注文するよ」
「ハーフサイズでお願いね」
 彼女はハーフサイズを二度繰り返した。
 注文を取る係だったヴィッキーに伝える。やはりジュディは、この日もスープだけを注文したらしい。
 ヴィッキーがハーフサイズのランチを持って行くと、ジュディが言った。
「私、ランチなんか注文してないわよ」
「ユミ!ジュディが注文してないって言うてるで」
 ・・・うーーーん・・・こういうとき、記憶力がパーフェクトではない老人の言葉か、英語がパーフェクトではない私の言葉か、皆はどちらを信じるのだろう?とよく思う。しっかり会話のできる老人の言葉が信用されても仕方がないと割り切っているけれど、ちょっと悔しい。

 ジュディの少し後に入居したロウは、他の住民に比べてリクエストが多い。
「ユミ、オムレツにほうれん草を入れて。ほうれん草がなかったらブロッコリーとかズッキーニとかキャベツとか」
「ユミ、僕は乳製品が合わないから、チーズは入れないで」
「ユミ、ノンデイリー(乳製品フリー)のアイスクリームはないの?」
「ユミ、ノンデイリー(乳製品フリー)のコーヒークリーム持ってきて」
「ユミ、なんでフルーツがないの?」
「ユミ、さっきデリヴァリーのトラックを見たよ。なんでフルーツがないの?」
「ユミ、コーヒーおかわり。コーヒークリームも」
「ユミ、クランベリージュースのおかわり」
「ユミ、ご飯の後にフレンチトースト持ってきて」
「フレンチトーストにバターとシロップ塗って」
「ユミ、ベイクドポテトにバター塗って」
「ユミ、パンにバター塗って」
「ユミ、ライスにバター塗って」
ロウ、バターも乳製品やで
「これくらいなら大丈夫」
 大したリクエストではないけれど、一度の食事で5回も6回も呼び止められるので、ロウが来ると妙に忙しくなる。
 そんなロウも故障気味だ。
「ユミ、テーブルに置いてた俺の新聞がないねんけど捨てた?」
「捨てへんで」
「Oh...No!!!誰かが俺の新聞捨てた!アン!俺の新聞捨てた?」
「捨てへんわ!」
「じゃ、誰が捨てたんや!」
 新聞の次は塩のボトル、その次は雑誌だった。実は、何も持ってきていないけれど、食事が終わるたびに、ウェイトレスを疑って大騒ぎをする。

 新しい入居者の中でも、一番静かな人がサンディだ。彼は常に笑顔のジェントルマンだけれど、気が遠くなりそうな口臭を放つ。
 サンディは、ダイニングルームにデヴューしたその日から、おっぱい好きのボブと同じテーブル、ボブの正面に座る。これまでは、”ボブのテーブル”と皆が認識していたので、誰も彼のテーブルに座らなかった。ところが、サンディが座るようになると、他の住民の認識も”ボブのテーブル”から、”皆のテーブル”に変わったらしい。色々な人が座るようになった。とはいえ、ボブにとっては”ボブのテーブル”だ。他の人が座っていると、ボブは回れ右をして、出て行ってしまうので、なかなか食事ができない。

 ”ボブのテーブル”がなくなったからか、春の陽気のせいか、ここ最近、ボブの様子がおかしい。居眠りをしたことのないボブが、食事のテーブルで大鼾をかいて眠っている。大量の砂糖をコーヒーカップに入れ続けていたこともある。私は不在だったけれど、先日はパンツの中にうんこを入れたまま食事に来た。その翌日は、ズボンがストンと落ちて、ダイニングルームの真ん中で下半身丸出しになった。
 このようなアクシデントが続いた後のことだ。注文を取りに行った私に、ボブが言った。
「I want you!What do you want?」
 ボブにセックスしたいと言われてもなぁ・・・。ボブにして頂くこともないし。
「なんもいらんわ」
 老人のいいところは、言ったことも、言われたことも、コロリと忘れてくれるところだ。

  おかしくなったのはボブだけではない。春になると自律神経も乱れやすいのだろう。
 ここのところ、メリリンは食事に来ても、首を90度に曲げて自分の手を見つめていることが多い。
「メリリン、ご飯食べる?」
「・・・」
「イングリッシュマフィンとベーコン注文しとくね」
「・・・」
 いつもは向かえに座る韓国人のキムとおしゃべりをしたり、口喧嘩をしているけれど、鬱状態のときは、下を向いたまま微動だにしない。
 キムは心配するのかな?と思ったけれど、おしゃべりができなくて退屈なのだろう。メリリンとは正反対、真上を向き、大口を開けて居眠りをしている。

 春の陽気で、キムのように眠い人もいれば、夏時間に変わってから、体内時計が乱れた住民もいる。
 朝6時半に出勤すると、ジーニーがふらりとやってきた。
「ユミ、今って朝?それとも夜?」
「朝。朝ごはんは1時間後」
「そうなの?私、ご飯まで耐えれる?」
「バナナとコーヒーで、ご飯までがんばって」
「わかった。がんばる」

 食事の時は、きちんと洋服を着ているダナが、パジャマ姿で現れる。
「ユミ、朝ごはんって始まってるの?」
「まだやで。1時間後」
「あら・・・私、どうしたらいいの?」
「コーヒー飲みながら、そこに座っててもいいし、部屋で待っててもいいよ」
「あら・・・ありがとう」
 ダナはコーヒーが大好きだ。
 ここ数日は、コーヒーカップを片手に、フラリとキッチンに入ってくる。
「ダナ、コーヒー入れるから、ダイニングルームに戻るで」
「あら・・・ここは入ったらダメなところ?」
「そう。入ったらダメなところ」

 先日は、何があったのか、7、8人の住民が、早朝の真っ暗なダイニングルームにわらわらと入ってきた。
 老人ホームの春は、こんな感じでスタートした。

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