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【シリーズ第8回:黒人アーティストの人生】🎵ソウル(魂)を感じたい🎵

このシリーズでは、私の大好きな黒人アーティスト、特に、1970年代、80年代に活躍したR&B、SOULミュージシャンを紹介しています。

・・・さて、誰でしょう🎵

さて、誰でしょう🎵

ヒント

  1. シンガーソングライターです。

  2. プロデュースもします。

  3. 男性で過去最多、25のグラミーを受賞しています。

  4. ハーモニカの他、色々な楽器が弾けます。

  5. シンセサイザーをスタジオ録音に取り入れたパイオニアです。

  6. 目が見えません。

生い立ち

 1950年5月13日、ミシガン州で誕生した。
 未熟児で、保育器に入っているときの過酸素が原因で目が見えなくなりました。
 ママは、彼が事故に遭うことを心配して、
 「外に出たらダメよ!」
 と言ったけれど、彼の冒険心を邪魔するようなことはしなかった。
 4歳のとき、ママはパパと別れ、6人の子供たちを引き連れて、デトロイトへ引っ越す。
 7歳になるとピアノ、ハーモニカ、ドラム、ベースを習い始め、近所の教会でクワイアーに入り、歌い始める。
 11歳のとき、モータウンのオーディションを受け、見事合格。 
 
 彼にとって、ダイアナ・ロスやマーヴィン・ゲイがいるモータウンは、キャンディショップみたいにキラキラした場所だった。

デビュー&売れっ子


 デビューはしたものの、最初の数曲はヒットしなかった。
 1962年、モータウンファミリーの全米ツアーに参加する。
 翌年、シカゴのリーガルシアターでのパフォーマンスが、アルバム化される。
 初アルバムのタイトルは"The 12 Years Old Genius(12歳の天才)”だ。
 
 ライヴパフォーマンスは、エネルギーに満ち溢れていた。
 13歳の彼は史上最年少で、ビルボードのトップアーティストに躍り出た。

 あっという間にモータウンの売れっ子だ!!

その人物とは・・・






Stevie Wonder(スティーヴィー・ワンダー)で~す。
収録された”Fingertips”のライヴ映像。

 14歳になると、作詞作曲もはじめた。
 ”Uptight(Everything's all right)”は、ヒットした最初の作品だ。
 15歳だった。

https://www.youtube.com/watch?v=8pBym6iHlBk

 彼自身の曲はもちろん、レーベルにも楽曲を提供し始めた彼は、作詞作曲者としても、モータウンと契約する。

” Signed, Sealed, Delivered I'm Yours”は、彼がプロデュースまですべて自分で行った初のシングルだ。

1970年代

 1970年代は、様々な面で、Stevie Wonderの世界が確立した時代だ。

 1970年、20歳のときにシンガーのSyreeta Wright(シリータ・ライト)と結婚した。
 モータウンとの契約が一旦終了したのもこの時期だ。
 この頃、シンセサイザーに興味を持つ。
 シンセサイザーがあれば、様々な楽器を演奏する彼は、自分ひとりでも曲を仕上げることができる。
 そして、これまで不可能だった音の世界が可能になる!
 彼は、エレクトロニック・グループのTONTOのMalcom Cecil(マルコム・セシル)と、Robert Margouleff(ロバート・マーグレフ)を迎え、シンセサイザーのプログラミング、エンジニアリングの担当を依頼し、新曲制作に臨んだ。

 彼は新曲持参で、モータウンと再契約に臨む。
 その内容は、高ロイヤリティの獲得や、制作コントロールの一任などだ。
 Stevie Wonderが黒人アーティストからリスペクトされる、もうひとつの理由だ。

 1972年3月、モータウンからMusic of My Mindがリリースされる。
 シンセサイザーを導入したこのアルバムは、トロンボーンとエレクトリックギター以外の楽器は、Stevie Wonderの演奏によるものだ。

https://www.youtube.com/watch?v=oYpcCMxQXaE

 1972 年から1976年は”Stevie Wonderのクラシック時代”と言われ、リリースされる曲は、今も昔もこれから先も、すべての年代に愛される、すばらしい曲ばかりだ。 

 中でも多くの国でシングルカットされた曲が、1972 年のアルバム”Talking Book”に入っている”Superstition”。
 聞いたことのない人はまずいない。

 1970年代以降における、もうひとつの変化は、彼の伝えたいことを自由に書けるようになったことだ。
 スピリチュアル、ポリティカルな内容が多くなった。

 1973年のLiving for the Cityの歌詞は、ミシシッピ州で、黒人として生まれた男性のストーリーだ。
 両親は働き者で、兄弟たちも容姿も悪くない。頭も悪くない。
 それでも仕事はなかなか見つからない。
 希望を抱いて都会のニューヨークへ行ったけれど、そこにも差別はあった。
 貧乏で、ドラッグを輸送した疑いで逮捕され、懲役10年をくらう。
 典型的な黒人の人生をスティーヴィーが激しい口調で歌っている。
 「俺たちが世の中を変えなければならない!」
 という、彼からのメッセージだ。

https://www.youtube.com/watch?v=rc0XEw4m-3w

 1974年の”You Haven't Done Nothing”はサウンドはファンキーでカッコいいけれど、内容はリチャード・ニクソン政権の不正に対する批判、怒り、揶揄だ。

 1976年、18枚目のアルバム”Songs in the Key of Life”がリリースされる。
 LP2枚に17曲、EPに4曲が収録され、シグネチャ・アルバムと言われている。
 George Benson(ジョージ・ベンソン)、Herbie Hancock(ハービー・ハンコック)、Minnie Riperton(ミニー・リパートン)をはじめ、これまでのアルバムとは異なり、多くのアーティストが参加している。
 
 このアルバムでは、やはり娘のアイシャの誕生を祝った、”Isn't She Lovely”がいいな。
 「彼女はかわいい?愛らしい?」
 と聞いている彼の幸せと喜びが伝わってくる。

 Stevie Wonderは、1970年代だけで、12のグラミーを受賞している。

1980年代

 1980年代は、さらに政治色が強くなった気がする。

 1980年にリリースされた”Happy Birthday”は、歌詞を聞かなければ楽しいバースデイソングだけれど、実は、
 「キング牧師の誕生日を国民の祝日にしよう!」
 というキャンペーンソングだ。

https://www.youtube.com/watch?v=RcVZfJO01NI

 1985年の”It's Wrong(Apartheid)”は、タイトルそのまま、南アフリカのアパルトヘイト政策に抗議している。

 同年、映画”The Woman in Red”のサウンドトラックに収録された”I Just Called to Say I Love You”でアカデミーを受賞した際、
 「ネルソン・マンデラ氏の名の下に、受賞します」
 とスピーチをしたことで、南アフリカのすべてのラジオ局から、彼の音楽が追放された。
 この曲も、世界中の人が一度は耳にしているはず。

 1985年、アフリカの飢餓救済のチャリティーソング、「We Are The World」にも、もちろん参加。
 
 同じく1985年、Dion Warwick(ディオン・ウォーウィック)、 Elton John(エルトン・ジョン)、 Gladys Kngiht(グラディス・ナイト)と共に、”That's What Friends Are For”をリリースした。
 これはエイズ研究財団へのチャリティーソングで、多くの収益をあげている。

 Stevie wonderはオバマ大統領のサポーターとしても、よく知られている。
 
 彼は音楽を通し、平和と融合を訴え続けているアーティストのひとりだ。
 「私たちが知るべきことは、”チェンジ”をすることだ!」
 「United States、そして世界の人々はUnite(結束)しなければならない!」
 「私たちは力を合わせなければならない!」


ママとの別れ 

 2006年から1年間、活動をしていない時期がある。
 5月31日、大好きなママが亡くなったからだ。
 ママは、彼に女性を愛することを教えてくれた。
 この世の終わりだと思った。
 悲しくて悲しくて仕方がなかった。
 パフォーマンスができなくなった。
 
 ある日、彼が眠っていたときのことだ。
 「ヘイ!ベイビー!」
 ママの声みたいだ・・・。
 「ママなの?どこにいるの?・・・ママのいるところに行きたいよ!」
 「ベイビー、あなたは大丈夫なの?」
 「うん・・・大丈夫だよ」
 目が覚めた。

 ママは、
 「ママは大丈夫だよ」
 「どこにいても、どんなときもあなたの中にママはいるのよ」
 ということを教えに来てくれた。
 2007年、彼は、再びステージに立ち、前を向いて歩き始めた。

最後に・・・

 Stevie Wonderのことで、強烈に覚えていることがある。
 といっても、私の思い出ではない。
 シカゴで学校に通っているときの担任の先生が、教室に入ってきたとき、開口一番、
「昨日、レストランで食事をしていたら、Stevie wonderが入ってきた!」
 と叫んだことだ。
 そして一時間、ずーっとStevieの洋服、歩く様子、雰囲気を詳細に教えてくれた。
 「アメリカにいたら、Stevie wonderにバッタリ会える可能性があるんだ~!!」
 と、嬉しくなって、ドキドキ、ワクワクした。

 最後にStevie のインタヴューから。
 彼が紹介していた、足も腕も使えない少年の詩です。

「もし、目が見えるなら、この世がカラーフリーの世界である目撃者でありたい。
 もし、歩くことができるなら、憎悪が消え去った土の上を歩きたい。
 もし、耳が聞こえるなら、ハーモニーが融合する、優しく、美しい音楽 だけを聞きたい。
 もし、私が言葉を発することができるなら、すべての人々への愛があふれる、夢が眠っている土地について話したい」

 彼は、
 「目が見えない私にはよくわかるんだ」
 と話していた。
 聖書の中の詩なのかもしれないけれど、彼の音楽制作のベースにある、彼が望む社会なんだろうな。
 


最後まで読んでくださってありがとうございます!頂いたサポートは、社会に還元する形で使わせていただきたいと思いまーす!