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「どうする家康」における歴史への向き合い方~逸話、伝承が残った理由を逆算する作劇~

はじめに

 大河ドラマは、一般に歴史ドラマですが、架空の人物が主役(「黄金の日々」)、現代劇(「いのち」「山河燃ゆ」「いだてん」)、史実では死んだ人物が最終回まで生き延びる(「北条時宗」)、最終回で史実はつまらないとひっくり返す(「葵 徳川三代」)などなど、バラエティ豊かであり、実は「史実に添った重厚な史劇」というイメージは、思い込みと好みという印象論でしかありません。

 ですから、大河ドラマは、もっと大雑把に「時代や社会のうねりの中で懸命に生きる人々を描いたドラマ」というぐらいの括りが丁度良いと言えるでしょう。その「時代や社会のうねり」を描くために時代考証が参照されますが、あくまでドラマが主体ですがから、史料の扱い方、歴史に対するアプローチの仕方は、作品ごとに個性が出てくるのは当然です。

 それでは、「どうする家康」では、どんなアプローチをしているのでしょうか。今回はそれについて、大雑把に考えてみましょう。


1.史料の歪みを読み解き、ドラマ的に再構築した「鎌倉殿の13人」

 まず、比較対象として前作、「鎌倉殿の13人」を考えてみましょう。一般に鎌倉時代は、戦国時代や江戸時代に比べると一次史料があまり多くないとされています。鎌倉後期を舞台にした「北条時宗」の頃は、今ほどに研究も進んでおらず、時代考証は難航しました。ただ、一方でその分、創作の余地は広く、史実を無視したドラマチックな展開になっています。

 さて「鎌倉殿の13人」が描いた鎌倉前期の政治史は、かなり少ないのです。更にその日本中世史研究の最重要史料と言われる『吾妻鏡』ですら、物語性が強く信憑性は決して高くありません。
 ですから、『平戸記』、『愚管抄』、『明月記』といった北条家側からとは違った角度から史実を見ることができる日記類も参照されます。しかし、これらもまた一級の史料であると同時に客観性は弱いことは否めません。したがって、鎌倉期の歴史というのは、まだまだ分からないことが多いと言えるでしょう。

 しかし、このことは裏を返せば、ドラマ作りにおいては想像の余地が多くあるということであり、作り手としては腕の見せ所です。脚本家の三谷幸喜さんは、かなりの史料を読み込み、時代考証の先生方の話をよく聞き、それらの史料を総合的に採用しながら脚本を書いています。


 その中で、歴史に対する考え方が見える一例が、源平合戦の一ノ谷の戦いです。一ノ谷の戦いと言えば、義経の「鵯越の逆落とし」が軍記物語の記述として有名ですが、考証会議では「崖を駆け下りたのは義経ではなく、多田行綱だったという説が有力」という指摘されたそうです。その結果、義経は鵯越を下りませんでした。
 しかし、後白河法皇への戦勝報告にて、法皇は鵯越を義経のものとして称賛します。当然、梶原景時は法皇の誤解を訂正すべきだと忠告しますが、義経は「いいんだ。歴史はそうやって作られるんだ」と答えます。
 三谷さんは軍記物語と近年の学説との折り合いをつける中で、「誰が後の歴史を都合よく組み替えていくのか」ということを見事に見せつけたのです。

 これは、史料を批判的に読み込む力がないとできないことです。三谷幸喜さんは、史料の歪み(書き手の様々な意図)を自らの批判的な読みと時代考証の先生方の指摘から読み解き、その史料同士の隙間を埋めていく形で歴史を再構成する方法を取ったのですね。まさに「歴史はそうやって作られる」のですね。

 また三谷幸喜さんは、最初からおわりまでをきっちり決めて脚本を書きあげるスタイルを取りませんでした。ドラマで役者の演技を実際に見て、それを脚本に活かす形で臨機応変に組み上げていきました。三谷幸喜さんの優れた構成力あってのこうした離れ業は、点としての史実(実朝暗殺、平氏滅亡などなど)はわかっているにもかかわらず「何が起こるかわからない」という独特の緊迫感を生みだしました。

 つまり、各史料の歪みを読み解き、その隙間を埋めるようライブ感覚で再構成していくことで、「鎌倉殿の13人」でしか描けない「歴史」を作り出し、そこに人物を放り込む…それが、「鎌倉殿の13人」における歴史に対する向き合い方だったと言えるでしょう。


2.何故、伝承、逸話が現在に残ったのかを逆算していく「どうする家康」

 比較的、脚本の自由度が高かった「鎌倉殿の13人」に対して、「どうする家康」は初期段階からかなり綿密に計算されていることが脚本の特徴です。
 わかりやすい例をあげれば、夏目広次です。彼は一次史料で残っている名は広次ですが、彼の忠節を讃える浜松にある碑には「夏目次郎左衛門吉信旌忠碑」と「吉信」の名が残っています。一方で山岡荘八「徳川家康」では「正吉」の名が採用されています。つまり、様々な名前の通説があるのです。
 ですから、配役発表の時点では「広次」の名であったことは、史実を重視し、一番確かな一次史料によったのだと歴史好きの好事家ほど思ったことでしょう。

 しかし、「どうする家康」における真実は、真の名は吉信であり、致命的な失態で生き残った結果、松平広忠の命で「広次」と改名したということになりました。どちらの名も真実です。そして、二つの名前の狭間に、夏目広次の葛藤と人生の選択が織り込まれ、最後、自身の名を思い出してくれた家康に対する万感の思いを胸に、家康を守るため散っていくという人間ドラマを生みだしました。

 つまり、本作では「何故、一次史料では「広次」であるのに、世の中に最も流通し、顕彰されるのが「吉信」の名であるのか」という点に着目し、「家康が竹千代時代に慕った男の真の名前を残すため」と組み換えてみせたのです。家康は、広次の罪と悔恨を濯ぎ、彼への感謝の念を表すため「吉信」の名を後世に残したのです。
 そして、このドラマを生みだすため、序盤から家康は「吉信」の名にかかわる形で、広次の名前を間違え続け、その度に広次が何とも言えない表情をすることを繰り返しました。そこにドラマの伏線を張り続け、彼の最期へ備えていたのです。

 このように、「どうする家康」では、客観的に正しいもの、あるいは有力な新説をただ重視するという方法も取らず、また自分の作りたい物語のために勝手に都合のよい史料を採用するという無理もしませんでした。本作の脚本は、徳川家康に関する多くの伝承、逸話を史料の信憑性で区別せず、その全てに敬意を払い、何故、それらの伝承や逸話が残ったのか、その理由を順序立てて描くことで、「歴史」を編んでいます。

 その際、重視しているのは、後の伝承や逸話を語り継いだ人の意図ではなく、その伝承や逸話の元になった彼らの意思、葛藤、選択といった人生そのものです。歴史のうねりの中で、人々が何を自発的、能動的に考え生きていったのか、その人生を描こうとしているのです。
 そして、そんな彼らの人生が様々な形で交錯し、人間関係を作り、大きな物語へとなっていきます。その点を特に重視して、第1回から入念に描かれたのが瀬名(築山御前)です。彼女の理想と人生は、家康と家臣団、徳川家の人々を結びつけ、今なお生きていますよね。


 こうして見てくると、「どうする家康」における歴史に対する考え方も見えてきます。それは一言で言えば、「歴史とは、大きな政治史や経済史というものではなく、無数の人々の人生が織りなす織物である」ということではないでしょうか。


おわりに
 9/10は「どうする家康」休止ということで、閑話休題として、「どうする家康」の歴史に対する考え方をごくごく簡単に考えてみましたが、いかがだったでしょうか。
 それぞれの大河ドラマが、その時代を読みながら描くべきテーマを見出し、歴史に敬意を払い、様々なアプローチをしてくれています。各ドラマの歴史へ向き合い方が見えてくると、また大河ドラマが面白くなってくるような気がしますね。

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