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「どうする家康」第46回「大坂の陣」 老境の家康の覚悟と若き秀頼の諦めが平和への人柱か

はじめに

 いよいよ、家康の人生で最後の戦い、大阪の陣が始まりました。思えば、小牧長久手の戦いこそは、家康自ら望んだ戦ですが、以降の戦は小田原征伐、唐入り(直接戦場には出ませんでしたが)、関ヶ原の戦いと全て望まない戦へと追い込まれ、結局、自ら決断するという重苦しさを孕んでいました。

 今回も例外ではありませんが、苦渋の決断ではあるものの、どこかで状況の推移を受け入れていく諦観と静かな覚悟が窺えます。


 それは老境の円熟が成せる業といったものではありません。前回、家康はいつまで経っても「戦無き世」を実現できない人生の空しさ、そして「戦無き世」を阻む自身の怯えに絶望しました。人生の終わりが見えたからこそ、その戦ばかりで夢を叶えられないことに耐えられなかったのです。

 しかし、「戦無き世」を作る志を、次代の秀忠に託すことでその絶望から救われました。「戦無き世」は一代で成すことではなく、次代に、そして次々代へと引き継がれてこそ、成せる可能性があります。そもそも、一人で実現しようというのが思い上がりなのでしょうね。

 こうして秀忠に志を託すことで自分のやるべきことを見定めたのが、今回の家康に見える諦観と覚悟なのです。家康は、乱世を勝ち残った戦国最強の怪物となって、次代に対して何を見せてやれるのか、次代のために何を引き受けて人生を終えていくのか、大阪の陣という戦を通して、家康自身の人生の闘いの最後も描かれることになります。

 そこで今回は、豊臣勢が見ようとする戦への願望と家康だからこそ見えている戦の真実の対比から、家康の覚悟について考えてみましょう。




1.豊臣家の立ち込める暗雲

(1)豊臣家の野心に応じるしかない徳川幕府

 対峙する狸と狐というオープニングアニメーションが、大阪の陣が家康と茶々の対決であることの比喩であることは一目瞭然です。しかし、豊臣方の総大将は秀頼です。にもかかわらず、茶々をそれとするこのアニメーションは、秀頼自身の本心がこの戦を望んでいないことを暗示しています。


 さて冒頭は、阿茶が家康の使う鉛筆に興味津々となるところから始まります。日本最古の鉛筆が、久能山東照宮に収められている家康のものということで、それを持ってきましたね。鉛筆はイギリスで発明されたものですから、阿茶は「面白き道具ですな、按針さまのお土産で?」と聞くのです。墨要らずのそれはさぞ不思議なものだったでしょうね。墨とは違うタッチに「絵を描くのも面白そう」と嬉しそうです。
 第41回でも描かれた海外事情に好奇心旺盛な家康…彼が本来、貿易によって得たかったのは、こうした文化的なものであったろうということを示唆しています。また阿茶とこういう語らいをする穏やかな時間が、彼の求めるものでしょう。

 ただ、その鉛筆で描くのは、城郭の構図という半ば戦絡みのものというのが皮肉です。本人の気持ちとは関係なく、家康の身体には戦が染み込んでいるのです。


 だからこそ、阿茶の「絵を描くのも面白そう」の言葉に「絵を描くのが好きじゃった」千姫が「あの子にくれてやったら喜んだろうに…」と、戦を知らぬ彼女にこそ相応しい道具だと呟くのです。
 因みに彼が思い出す千姫は、出会うことのない成長した彼女ではなく、別れる前の幼子のときの姿です。そして「何かあればかけつける」というあの約束…家康の本心とは裏腹に、彼は、千姫のいる大阪城にその何かを仕掛けるかもしれないのです。信長の期待に応えられず、その妹のお市の願いにも駈けつけられず、そして自身の孫でもあり、お市の孫でもある千姫との約束を破るかもしれない家康。織田家との約束を破るのは、最早、宿業のようにすら感じますね。

 ともあれ、平和を享受すべき孫娘を危機に晒した政略結婚と現在の緊張関係…どうにもできない忸怩たる思いを「お千」と文字に書くしかない家康がやるせないですね。



 さて、その千姫をブリッジにして、場面は大阪城に移ります。囲碁を楽しむ秀頼と大野修理を茶々と千姫が見守ります。

 修理は碁を打ちながら修理は「そろそろ騒ぎ始める頃かもしれません」と秀頼に話を振ります。前回の引きとなった方広寺鐘銘事件のことです。「君臣豊楽」「国家安康」の銘文が、豊臣家からの意図的な挑発行為であることが改めて示されます。後ろで艶然と微笑む茶々を見れば、事の首謀者が彼女であることも明白です。

 秀頼の「どう出てくるであろう?」という問いも彼女らに策に従う秀頼という図が見えますね。秀頼の淡々とした問いに修理は「どう出てきくるにしろ、我らの望むところ」と答えます。修理のこの言葉の意味は、その後の駿府城の場面で分かりますが、頭の良い秀頼はそれだけで戦の到来を察し、確認するように「もしそうなったら…」に聞きます。


 修理は「このときを待っていたと多くの者が秀頼さまの元へ集いまする」と暗に戦を仄めかし、その言葉に茶々はより笑みを深くします。おそらく彼女の目には、見目麗しき秀頼の元に戦支度を整えた荒武者が集う壮観な大軍勢が映っているのでしょう。彼女は戦の華やかさとその先の豊臣の栄光しか見えていません。それは、千姫の「何の…話でございます?」と訝る問いにも満面の笑みをたたえて「もうすぐ豊臣の世が甦るという話じゃ…お千」とうっとりする様にも窺えます。無論、戦を知らない愚かさと視野の狭さのなせるところでしょう。


 場面変わって駿府城では、茶々らの目論見どおり銘文の解釈を巡って喧々諤々の議論がかわされます。徳川を侮辱しているといきり立つ林羅山に対して、のらりくらりとその反対の解釈を述べるのですが、完全に羅山が豊臣の真意というツッコミ、崇伝が豊臣の言い訳というボケというコントになっているのが可笑しいですね。
 コントを見た正信は「要するに、これを見逃せば幕府の権威は失墜し、豊臣はますます力を増大させてゆく。されど処罰すれば、卑劣、言いがかりとみなされ、世を敵に回す」と、どちらに転んでも徳川には不利に働くという巧妙な挑発と読み解きます。
 「んー、実に見事な一手」と扇子を使って芝居がかってしまうのは、お手上げだからです。


 「腹を括られる他ないでしょうな」と戦が避けられなくなったという指摘に、阿茶は「おとなしくしておれば、豊臣は安泰であろうに」と呆れ顔です。 
 現状であれば、権力はなくても、将軍家から不可侵な他大名とは違う地位を堅持しながら、十分な蓄財で裕福に生きていけるからです。冷静に考えれば、わざわざ滅亡のリスクを犯し、全国を戦乱に巻き込むことは、たとえ勝利しても豊臣家の威信も力も削がれるだけで利は薄いのです。無謀な飽くなき権力欲に「何故こうまでして天下を取り戻そうと」と秀忠が呟くのも無理はありません。


 豊臣の挑発に首を捻る彼らに対して、家康は淡々と「倒したいんじゃろ、このわしを」と応えます。この言葉はダブルミーニングです。
 一つは、力ある者が支配すべきという覇道を求める弱肉強食の戦国の論理が未だに生きているという事実です。そして、それを招いているのは、心ならずも武断的な覇道を収めた家康自身です。弱肉強食の世界は頂点に君臨したらゴールではありません。今度は頂点にいる自分を、下にいる者が虎視眈々と狙う…終わりはありません。

 もう一つは、茶々自身が家康に復讐の機会を窺っているという個人的な事情です。茶々の思い込みは逆恨みでしかありませんが、家康は市を助けられなかったことに言い訳はしません。
 どちらにせよ、家康自身が乱を招く中心です。だから、家康のこの弁には逃げることはできない、受けて立つしかないという諦めに似た覚悟があるのです。



(2)大阪城内の猿芝居と秀頼の孤独

 オープニング後、ナレーションから加藤清正らが亡くなり、今や片桐且元だけが「かろうじて豊臣との仲をつないでおりました」という状況が語られます。
 二条城の会見後、次々と豊臣恩顧の大名が亡くなります。1611年に浅野長政、加藤清正が、1613年に池田輝政、浅野幸長、1614年に前田利長と、ざっと挙げただけでも豊臣の味方になる大大名が大きく減ったことがわかります。彼らの後継者たちは、秀吉から直接、恩恵を受けていませんから豊臣に恩義を感じる必要はありません。彼らの死は、結果的には徳川家の天下を揺るぎなくしていくものになります。

 平たく言えば、家康が頑健で長生きしていることが尋常ではなく、それについていけず多くの大名が脱落していったということにもなります。家康は生きているだけで、徳川幕府存続に後見したことになりますね。


 こうした豊臣恩顧の大名たちの相次ぐ死は、豊臣家の凋落を意味しています。権威は豊臣家だから維持されるのではなく、それを支える人材があればこそです。秀吉が亡くなった直後には、多くの人材がいました。しかし、まず関ヶ原の戦いによって、二つに割れたことで、三成、大谷刑部、小西など優秀な人材を失いました。そして、徳川幕府による10年によって、徐々に人材の多くは徳川へ流れています。
 それだけに残された豊臣恩顧の大名たちこそが大切であり、彼らがいなくなった時点で徳川家との戦を踏み止まる選択もあったはずです。しかし、その凋落を茶々たちは見ようとはしません。
 大阪城内の活気だけを見て、世の中全体を見た気になっています。それゆえに徳川家との唯一のパイプである片桐且元の重要さがわからないのです。


 その且元、とにかく戦を避けようと我が身の不甲斐なさを詫び、全面的に平伏します(茶々と修理がこれを見ただけで怒り狂うでしょう)。
 しかし、事既に遅し、「度重なる徳川への挑発、最早看過できませぬ」と正純は述べ、それを肯定するように、家康は脇息をトン、トンと叩き、且元を圧迫します。この家康の圧迫会見は以前にもありましたね。正純から示された最後通牒は以下の三つから、いずれかを選択することです。

1.秀頼が大阪を退去し国替すること
2.他の大名同様、江戸に屋敷を持ち参勤すること
3.茶々を江戸へ人質として差し出すこと

これらを、幕閣全員が且元に向き合うようにして迫ります。たじたじとなりながらも「穏やかにおさめとうございます」と抵抗する且元には中間管理職の悲哀が溢れていて同情を禁じ得ません。演じる川島潤哉さんの地味な実直さが、いい塩梅ですね(笑)
 とはいえ、有効な手段もなく「千姫さまも心を痛めております。秀頼さまとの仲も睦まじく…」と情に訴えますが、今や交渉に長けた家康は、且元の言葉を遮り、傲然と「三つのもとめ、いずれかを受け入れよと申し伝えよ」とトドメを刺します。
 幕府の威信の維持が、長期的に見て「戦無き世」のためになると家康は判断し、豊臣次第としたのですね。


 且元はすごすご引き下がり、大阪城に戻りますが、案の定、茶々は「左様な求め、どれ一つ受け入れられるわけがない!」と声を荒げますが、間髪入れない「これは徳川の謀略である」という断言から、二人の言葉は、最初から徳川方来るであろう無理難題に対して打ち合わせてあった猿芝居であることがわかります。
 驚いた様子もなく二人を見つめる秀頼の冷めた顔もそれを黙認して…いや、するしかないことが察せられます。

 秀頼の冷めた顔にも構わず、「祝いの言葉を呪いであると言いがかりをつけ豊臣をつぶす企てに他ならぬ。古狸の悪辣なる仕打ち、断じて許すべからず!」と用意した言葉を淀みなく語る修理を見て、流石の且元も自分を蚊帳の外に置いた茶々と修理の意図を悟り「修理、こうなるとわかってあの文字を刻んだな」と絞り出すように怒りを向けます。

 「片桐どのが頼りにならんので」と悪びれもしない修理に「戦をして豊臣を危うくする気か」と至極全うな返事を返す且元ですが、その様子を「ふふん」とほくそ笑む茶々を見れば、そもそも且元に勝ち目はありません。

 茶々の後ろ楯がある修理はバン!と畳を叩くと、手を横に振り「徳川に尻尾を振って、豊臣を危うくしているのはお手前であろう」と糾弾し、脇に控えていた家臣らも「そうじゃ」「そうじゃ徳川の犬」と同調し、且元は追い詰められます。
 そもそも、この場は、徳川との戦に反対である且元を追い落とすためだけに設けられただけですね。茶々の意向に添わない者は排除する…それが今の豊臣家の姿なのです。

 「秀頼さま、引き続き徳川との取り次ぎ私に勤めさせてくださいませ」と訴える且元に秀頼だけは「無論頼りにしておる、一先ずは屋敷にて十分休むがよい」と労います。秀頼自身は汚れ仕事はせず、公正であるべきだからですが、一方で彼は且元を排除したくないのかもしれないですね。
 しかし、修理は「あれはもう狸に絡めとられております。害します者も現れるでしょう」と、排除を仄めかし、茶々は「おもしろうないのう」と且元があたかも変心したように演出し憂うふりをしますが、口許は薄く笑っています。その様子を窺う秀頼は、状況を察しますが、口には何も出しません。そして、そんな秀頼へ気遣う目を向けるのは、修理らの徳川家への罵倒に心を痛める千姫です。


 閨で千姫は「あれは片桐どのを亡きものにすると…戦になるのですね」と自身が感じたことを率直に確認します。それまで背を向けて寝ていた秀頼は、わざわざ千姫のほうへ寝返ると「お千、余は徳川から天下を取り戻さねばならぬ」と答えます。「せねばならぬ」という答え方には、豊臣家の後継者としての義務感が窺えます。更に続けて「それが正しきことなのだ。わかってはしい」と自分にすら言い聞かせるように千姫を諭します。

 しかし、秀頼を見つめる千姫の表情は浮かないままです。秀頼は起き上がり「案ずるな。そなたのお爺さまや父上さまがそなたに手出しできようか、そなたは安全じゃ」と不安を払おうと気遣います。前回の猫と抱えて、猫を描く千姫と楽しげに話す秀頼の姿、今回の妻の不安に対して誤魔化そうとはせず、真摯に答えようとする様子からは、夫婦仲の良さだけでなく、生真面目で優しい秀頼の性格が窺えるように思われます。
 進んで戦を望む物にありがちな、荒々しさも、血気盛んな若気も、力に任せるような強引さもありません。「天下を取り戻さねばならぬ」という言葉とは裏腹に、その物言いは穏やかで淡々としています。

 千姫はそんな秀頼の様子を確認すると意を決し、「あなた様は本当に戦をしたいのですか?」と問い質しますが、千姫の言葉に秀頼はうつむいてしまいます。それゆえになお「本当のお気持ちですか?」と彼女は優しく尋ねます。それでも秀頼は、うつむいたまま…「余は、"豊臣秀頼"なのじゃ」としか答えられません。

 ここで彼が言う"豊臣秀頼"とは、彼の名前ですが彼そのものではありません。"豊臣秀頼"という役割のことを指しています。武勇に優れ、芸事も堪能、知略にも長けた万能の豊臣の継承者にして武士の棟梁となることを約束された存在、茶々を始めとする豊臣家の期待を一身に受ける器、それが"豊臣秀頼"という役割です。その役割に必要なことは、人々の期待に応えられる能力を持つ器物であることを証明することであり、それは彼の人格や人間性とは無関係です。

 何故、彼が「天下を取り戻さねばならぬ」のか。彼が天下を欲しているのではなく、"豊臣秀頼"という役割には天下を担うことが義務付けられているからです。秀頼は若くして、個人ではなく、身動きもできず自由な考えも許されないという器としての自分の立場を自覚し、諦めているのです。前回のnote記事にて、秀頼自身が天下をどうしたいのか、そのビジョンや意志はほぼ描かれていないことから役割を演じているだけではないかという推測をしましたが、それは当たっているように思われます。

 多かれ少なかれ、主君とは、家臣や領民の期待に応える義務があります。ですから、絶大な権力を持ちながら、それを自分の思うままには扱えません。常に公共の利益と一人の人間としての自由意思との間で葛藤し、苦悩します。それは、「どうする家康」という作品の中で、家康が生涯を通じて抱えてきたものであり、本作ではその葛藤がずっと描かれてきました。その苦悩は、天下人という頂点に立つに従い、より孤独なものとなっていきました。

 今、秀頼は、物心ついたころに父を失い、幼くして豊臣家という絶対的な家格の頂点にいます。秀吉がいれば、彼の体験をもってその帝王学を実践的に学べたことでしょう。しかし、秀頼はそれもなく、ただただ皆の期待に応えよ、天下人に相応しくあれ、と言われ、頂点に立ち続けることを強いられてきました。無能であれば早々に別の道もあったでしょうが、彼はおそらく血のにじむ思いでそれに応えてきたのではないでしょうか?そして、磨かれた才能は、自分に与えられた役割の孤独と虚しさに気づかせたことでしょう。
 彼の不幸は、その葛藤を誰とも分かち合えなかったことです。彼を慕う妻の千姫にも不可能です。ですから、千姫は、うつむく彼を哀しそうな表情で見守るしかできません。


 皮肉にも、彼の苦しさを理解できるのは、将軍職を譲ってなお天下人の孤独に耐え続けている家康しかいません。二条城で彼が家康に言った「徳川どのと共に手を携えて」という言葉、実はそれが実現していたら彼は救われたのかもしれません。相談すべき義理の祖父を敵としなければらない"豊臣秀頼"という役割がただただ不憫ですね。
 裏を返せば、父から天下人とは何かを実地で学べる、凡庸な二代目、秀忠は、本人には色々不満と劣等感はあるでしょうが、かなり恵まれていますね。



2.それぞれの大阪の陣前夜

(1)常真(信雄)の世渡り上手に見る才覚

 さて、その秀忠は、江戸にて、豊臣との戦は少し脅せば収まるだろうと太平楽を決め込んでいます。呆れるほどの楽観論に正室である江は、微笑みながらも「ならば、殿がこの戦の総大将を務めては?大御所さまにはお休みいただいて」と自分の希望をねじ込みます。普段から、年上女房として呑気な秀忠を随分、上手くコントロールしてきたと察せられる一幕ですね。意外な提案に驚いた秀忠ですが、「ね!そうなさいませ!」と強く釘を刺す物言いに、千姫を気にかけているのだとわかり、千姫を可愛がっていた家康が「酷い仕打ちはせんさ」と宥めます。

 しかし、実父:浅井長政も養父:柴田勝家も母:お市も前夫:豊臣秀勝も全て失った江は、心の底から戦を恐れています。ですから、その戦を勝ち残ってきた家康は、その戦の恐ろしさを体現しているように映り「そうでしょうか?戦となれば鬼となれる方では?」と強く返します。家康から厳しく帝王学を学ばされている秀忠は、自身の家康への恐れから江の言葉に反駁できません。畳みかけるように「姉も一歩も引かぬ性質…何が起きても不思議はございませぬ!」とヒステリックに叫ぶと「あなたがお指図なさいませ」と懇願します。
 こうなっては、愛妻家にして、気にかけすぎて家康に叱責されるほどに千姫を思う親バカ秀忠は、彼女の申し出を受け入れるしかありません。

 そして、江の心配が、そのまま現実となってしまうのが今回の終盤のハイライトになります。それは、家康が鬼になれるからではなく、個人的な肉親の情だけでは動けないのが、天下人であることをよくよく自覚しているからです。家康が鬼になるのではなく、天下人は心を鬼にしなければいけないときがあるのです。


 一方、大阪城では、毛利吉政(勝永)、長宗我部盛親といった関ヶ原の戦い以降、改易され、豊臣を頼ってきた者たちを交えて酒宴が催されています。家康を恨むことが集うことに、家康を(勝手に)憎む茶々は、「気がねなく大いに呑みなされ」と上機嫌です。

 そして、その酒宴の席には、同じく関ケ原の戦いで改易され、今はただの道楽者である織田常真(信雄)がいます。彼は茶々の従兄であり、浅井三姉妹を庇護していたこともあるため、大阪城では扶持米も与えられ、信頼される立場にあったのです。さて、その常真、小牧長久手では妙計で秀吉を負かしたことを語り、上機嫌で太閤に鮮やかに勝ったのは自分だけだと得意げに語っています。
 更に「あんときは徳川もいたが、総大将はわしであったわ」と総大将は事実だけれど実質はお飾りであったことは隠して、家康をちゃっかり貶めて高笑いしているお調子者ぶりには、呆れかえった視聴者もいたのではないでしょうか(笑)


 祖父:家康を憎む者たちが、家康を蔑む酒宴に、流石の千姫は居たたまれず退出し、一人廊下で忍び泣きます。そんな彼女をそっと追ってきた常真「これはこれは千姫さま…」と、厠を探すついでに偶然会ったようなふりをして、近づくとそっと「戦は避けましょう」と真意を語ります。そして「あなたのお爺さまには世話になった。やりとうない」と漏らします。この言葉で酒宴での家康を貶めるほら話が、あの場の狂言であったことがわかります。家中の信頼を得るため、場の空気を読み、周りに合わせていただけでした。
 常真は、小牧長久手のとき、家康だけが彼の味方として馳せ参じたときの感謝を忘れてはおらず、また関ヶ原における改易も恨んではいなかったのですね。


 それでも彼に訝しげな千姫を安心させようと「わしのもっとも得意とする兵法をご存知かな~?」とうそぶくと「わ・ぼ・く♡…でござる」と余裕の笑みを浮かべます。
 まあ、小牧長久手では勝手に秀吉と和睦をして家康を怒らせ、その後、家康と秀吉との和睦交渉で家康が望まなかった旭姫との婚姻を取り付けるなど、徳川方からすると結構、アレな功績しかないようにも思われますが、結果オーライということでよいでしょう(笑)
 また、彼が天正大地震で自分の領地が壊滅して大変であったにもかかわらず、家康を心配して和睦の使者に立ったことを鑑みれば、彼にしては結構、頑張っていたと言えます。

 そして、急に真面目な顔になると「大丈夫、わしと片桐でなんとかします」とキリっと答えます。その言葉に誠意を感じた千姫は「片桐どのはおそらく明日、大野どのに…」と大阪城の主戦派が片桐且元暗殺を目論んでいることを秘かに伝え、逃すよう促します。
 事態が考えていた以上に悪化していると知った常真は、且元共々、大阪城を離れることにします。何故なら、大阪城では、主戦論の急先鋒である茶々の意向に添わない者は排除しようとしていると考えられるからです。親戚である常真なれば、多少の猶予はあるかもしれませんが、身動きが取れなくなり、戦にでもなればそれこそおしまいです。見切りをつける以外なかったでしょう。


 且元が騙し討ちになるところを常真が救い、大阪を脱出した件は、すぐに家康に伝わります。この報告の中で、阿茶から「京の五徳どのが手助けなさったようで」との一言が入るのが心憎いですね。五徳と常真、そして本能寺で亡くなった信忠は同母兄妹です。因みに五徳の名は、兄妹三人が支持具の五徳のように支え合って欲しいという気持ちから信長が付けたという逸話があるほど、仲が良かったようです。また、信康の死後、織田家へ帰った五徳を庇護したのも常真だと言われます。苛烈な父、信長を恐れた五徳ですが、このお調子者の兄ならば慕っていたような気はしますね。

 しかし、ここでわざわざ五徳の名が挙げられたのは、彼を救った理由が兄だからだけではなく、兄が徳川家のために動いていたからでしょう。ここで思い出されるのが、五徳が信康との別れの際の「一つお願いがございます。これからもずっと、どこに行こうと、私は岡崎殿と呼ばれとうございます。お許しくださいますか?」というおねだりです。信康は、五徳の願いを快く許しましたが、それが今生の別れとなり、彼女は以降、再嫁することなく今に至ります。つまり、五徳は、今なお信康の妻、徳川の嫁、岡崎殿なのでしょうね。


 話を戻しましょう。家康は、この事態に「これで我らと話せる者は豊臣にはいなくなった…」と交渉のパイプが無くなったことを重く受け止めます。片桐且元に対して圧迫外交を行った家康ですが、それは戦を避けたいという彼の思いと実直さを信頼しての駆け引きに過ぎません。信頼できない相手に不用意な交渉は逆効果ですから。

 また常真にしても、改易したものの織田の御曹司として家康は気にかけており、いざというときは大阪城から退去させるように家臣に指示を出しています。これも常真への信頼があればこそですね。いずれにせよ、正純の言葉どおり「これが豊臣の返答」…つまり戦です。


 そして、常真がちゃっかりしているのは、且元を逃しただけでなく、豊臣の戦支度の現状も伝え、実質的にも家康の役にも立っていることですね(この通報は史実です)。これにより、常真は、この後、二条城で会見した際に知行地を約束され、また大名に返り咲きます(笑)家康はその後も彼を織田の御曹司として遇したと言われています…って、いやあ…実にしたたかで逞しいですね。人間万事塞翁が馬を地で行く人です。

 常真は信長の後を継げる天下人の器ではなかったかもしれません。しかし、その人懐っこい人柄で人に好かれ、失敗してもめげない逞しさで、この戦国の世を生き抜き、織田の血を今に遺したことは評価すべきです。時代の流れに時に流され、時に逆らい、どんな結果になろうと自分の意思のまま生きていく融通無碍さは、家康には出来なかった生き方でしょう。そして、こうした生き方こそ、"豊臣秀頼"という役割以外を諦めてしまった秀頼に教えられたら…何か変わったかもしれません。大阪方は家康と戦うという主戦論に凝り固まったことで、よい人材を自ら手離したと言えるでしょうね。

 逆に家康は、五徳といい、常真といい、家康が信長と結んだ絆によって築かれた織田家との縁によって、救われることになっているのが興味深いですね。家康の天下取りにおいて欠かせなかったこと、信長にも秀吉にもなかったものは、人の和なのです。



(2)全ての戦を終わらせるための家康の覚悟

 常真から漏ららされたことやその他の情報を総合すると、豊臣の兵は10万にも及ぶとわかり、彼らとのパイプが失われた今、看過できない事態となりました。阿茶の「とうとう始まるのですね…」という溜息のような一言には、この戦いが誰のためにもならないという虚しさを窺わせます。家康は静かに「諸国の大名に大阪攻めの触れを出せ!」と命じ、退去しかけた正純に「大筒の用意もじゃ」と当時としては大量虐殺兵器となるカルバリン砲を持ち出すことを決意します。

 家康の心中では、これを使いたくないものの、これを使わざるを得ない事態が起きることが織り込み済みなのでしょう。哀しいかな、家康の長年の戦で磨かれてしまった勘は、こういうときだけよく当たるのです。一瞬、戸惑う正純と沈鬱そうな表情をして身震いする阿茶の反応に、カルバリン砲を持ち出さなければならないこの大戦の起こり得る凄惨さが窺えます。

 


 座り込んでぼんやりと具足を見つめる家康の元に駿府から正信がやってきます。よっこいしょ爺むさく座る正信に「年寄りがこんなものをつけて笑われんかのう…」と渋い顔をしています。鷹狩で鍛えた家康の身体なれば平気な気もしますが、70歳の身体に30㎏はある当世具足をまとうのは、想像しただけで難儀なのでしょう。

 老骨に鞭打たなければならないという家康の愚痴に対して、「重さで腰が折れんよう気をつけなされ」と他人事のように言う正信にすかさず「お前も出るんじゃぞ?」と返すタイミングが笑えますね。無言で突然、節々痛むという白々しいジェスチャーを始める正信を見るのも久々ですが、今回ばかりは老齢同士、「わしとてあちこち痛い」から我慢しろと却下されます(笑)


 ひとしきり小芝居を終えると、正信が駿府に来た用件「秀忠さまが、ご自分が総大将で全軍を指揮すると」という将軍家の意向が伝えられます。勿論、正信は秀忠の本音が千姫にあることを見抜いているのですが、その上で「秀忠さまにお任せしては?」と提案します。

 この正信の提案は、老身の家康の気苦労を除こうという気遣い、そろそろ秀忠に譲るのも後継者育成になるということ、そして千姫を気遣う秀忠ならば、豊臣と和睦の道を探れるかもしれないという期待、そうした諸々を含み込んでのことでしょう。何より正信は、家康の本音が豊臣との戦を避けたいということであったのを知って尽力していますから。股肱の臣ならではの、進言なのです。



 しかし、家康は「(秀忠は)戦を知らん」とにべもありません。それを秀忠の経験不足を危ぶむ言葉と聞いた正信は「我らがついておる」から安心するよう言いますが、家康の真意は「そうではない。知らんでよいと言うておる。人殺しの術など…」と言葉が切れて、物憂い顔になるのは、今の自分が戦ばかりも思い返すからでしょう。吹っ切るように正信を見ると「覚えんでよい!」と断じて、節々が痛むと顔をしかめながら、ゆっくり立ちます。

 そして、家康は「この戦は徳川が汚名を着る戦となる」と、この戦がもたらすことが何かを正確に見越しています。そもそも、豊臣の挑発に乗らざるを得なかった時点で、この戦が政治的に徳川にとって一定の敗北であると、家康は認めているのですね。だからこそ、戦を起こすこの判断の責任は家康自身が取らねばなりません。「上に立つものの役目は、いかに理不尽なことがあっても、結果において責めを追うこと」(第44回)との言葉は、家康の弁です。有言実行、老いたからと無垢な秀忠に押しつけて良いものではないのです。


 ですから、彼は「信長や秀吉と同じ地獄を背負い、あの世へいく。それが最後の役目じゃ」と宣います。この宣言は、次代を継ぐ秀忠を汚さないという親心だけではありません。前回、「戦無き世」を実現できないと絶望し、それは秀忠に託せばよいと救われたとき、ようやく乱世を終わらせる覇道と「戦無き世」を作る王道を両立させる方法に思い当たったのです。前者は自分が、後者は秀忠たち次代を生きる者が任せればよいのです。
 まして、自分の命は多くの家臣や領民の命と願いによって生きながらえた血にまみれたものです。愛する瀬名は後世、悪女と伝えられる道を選びました。数正は裏切り者と言われ続けます。それでも、彼を生きながらえさせることが、「戦無き世」の実現だと願いを託しました。自分だけが汚れないままでいる必要はない。
 彦右衛門が伏見城籠城で言ったように、ついに家康の番が回ってきたのです。家康は次代に「戦無き世」が築かれることを信じて、覇道を極める決意をしたのです。

 でも、「泣き虫弱虫洟垂れ」の白兎には、それはとてもつらいことです。ですから、どうしてもその言葉は勇気がいりますし、発した「同じ地獄を背負い、あの世へいく」の言葉には悲壮感が漂います。因みに平八郎の肖像画が、家康を後押ししたに違いありませんよね。


 そんな家康をじっと見つめる正信は「やれやれ」という表情をするとゆっくり立ちながら「それがしもお供いたしますかの」と、彼を孤独にはしないと彼にしては結構、カッコいいことを言い出します。ただ、照れ屋な彼は「こっちは元々汚れきっておりますんで」という冗談めかした皮肉を忘れません。
 家康もまたそんな正信に素直に感謝するでもなく「嫌な連れじゃな」と面と向かって言い返します。「でしょうな」と返す正信の返答は、答えもタイミングも阿吽の呼吸。通ずる者たちだけに通いあう何かで二人は思わず、笑いあいます。


 そして、家康は自室にて「南無阿弥陀仏」と念仏を書きつけると、一人、その覇道に進む罪深さについて想いを巡らせます。信長は、秀吉は、それを成すになにを思ったのかということでしょうか。家康の思いは、見ている者に委ねられます。

 因みに家康は、この後、茶臼山の陣中でも「南無阿弥陀仏」を延々と写経しています。これらの書付、「日課念仏」は大樹寺など様々なとことで見られますが、有名なのは浄楽寺のものでしょうか。こちらは、71歳の頃、天海から減罪のために写経を勧めたとされます。
 しかし、「どうする家康」の家康は、自らのために書くようには思われません。自分が奪った命、自分を守って散っていった命、この乱世で消えていった数多の命の供養のためではないでしょうか。そして。茶臼山の陣中でのそれは、家康の号令で今まさに散っていく多くの命のためでしょう。



(3)豊臣家の空虚な勢い

 家康が悲壮な決意をするのとは対照的に、大阪城では、集まった浪人たちが徳川への不満を言い合い、やがて起きる戦に湧いています。関ヶ原の事後処理の改易などであぶれた彼らは、徳川への恨みを晴らす機会を狙っています。そうした中で、それとは別にどこからか「何としても武功をあげねば!」と仕官を望む声が一つ混じっていますね。復讐、仕官、理由はそれぞれですが、大阪城に集まったのは、戦がなければ生きてはいけない面々だということです。彼らには徳川の天下が築こうとする「戦無き世」に居場所がありません。そして、彼らに見えているのは、自分たちの栄達だけです。


 そんな荒々しく士気をあげる彼らの元へ修理の「我らの殿秀頼さま、お袋さま、並びに千姫」との紹介のもと、三人が表れます。秀頼は、その役割通り「豊臣を、忠義を尽くしてきた皆々、苦しく、ひもじく、恥辱に耐える日を送ってきたことであろう。ようここに集ってくれた。心より礼を言う」と雌伏の時間を過ごした彼らを慰撫します。


 修理が紹介する諸将は、大谷吉治、後藤又兵衛、明石全登、真田信繁といったいずれも武勇に長けた面々です。「卑劣なる古狸を退治いたしまする」と豪語する又兵衛、静かに武田の兵法を駆使して戦うと誓う信繁などの言葉に、己が武勇を誇る者たちは大いに盛り上がります。

 ただ大阪城に集まった面々は、いかにも士気が高いのですが、実は、ここには大名は一人もいません。食いつめ浪人たちと違い、大名たちが豊臣家に馳せ参じる理由がないのです。秀吉の恩義も過去のもの。今は徳川に従うほうに利があるからです。
 徳川家が10年以上天下を治めたという事実は、確実に豊臣家の求心力を削いでいるのです。秀頼は、集まった者たちに「頼りにしておる」と通り一辺倒の言葉をかけていますが、彼らに「頼るしかない」のが実情です。


 しかし、外の世界、大名たちの今の事情を知らぬ茶々は、目の前の意気揚々な面々を豊臣の勢いそのものと錯覚しています。そして、茶々は、一同を眺め渡しながらは「世を欺いて、天下を掠め取った盗人が言いがかりをつけ、豊臣を潰しにきた。かような非道、許されて良いものか!」と朗々と用意した演説をぶち始めます。
 芝居がかった彼女は、そこで前へ進み出ると「そなたらは皆、我が息子である。豊臣の子らよ。天下を一統したのは誰ぞ」と諸将の心に一つにしようと呼びかけます。一同の「太閤秀吉さま!」の声に「正しき天下の主は誰ぞ!」と畳み掛け、「秀頼さま!」と言わせ、天下は秀頼のものであることを明示させます。


 満足気な顔をした茶々は、裾を翻すと「今このとき!徳川家康を討ち滅ぼし、天下を我らの手に取り戻そうぞ!」と拳を振って気炎を吐き、見栄を切ります。自信に溢れたその表情には、これから起きる戦の高揚感に包まれていますが、それは豊臣の勝利を確信しているからでしょう。
 彼女の自信と気品が相まって、アジテーションとしては、なかなか上手いのですが、討ち滅ぼすのが徳川家ではなく徳川家康になっているなど、節々に家康本人への個人的な恨みが見え隠れしていますねのが、興味深いですね。茶々は天下を取り戻すとは言いますが、その根底にあるのは、私怨なのです。そして、集まった諸将もまた自らの出世や徳川家への私怨です。こんな彼らの欲望を受け入れる器にならねばならないのが、秀頼の不幸の一つです。


 その秀頼の不幸がはっきりと分かるのが、茶々のアジテーションの後に茶々に促されて、秀頼が語る所信表明演説です。謂わば、本作で初めて、秀頼が自らの天下の将来像を語るのですが、それは「亡き太閤殿下の夢は唐にも攻め入り、海の果てまでも手に入れることであった。余はその夢を受け継ぐ」という、日ノ本をめちゃくちゃにした秀吉の無謀な夢の再来でした。そこには、秀頼自身の思い描くビジョンはどこにもなく、死んだ秀吉の最大の愚行…その残滓があるだけです


 あの万能の秀頼が何故、こうなってしまうのか。それには様々な理由が考えられます。一つは、彼が受け継いだものが、豊臣の財産と秀吉という亡霊の権威であるということでしょう。財産はともかく権威というものは、時間が過ぎればその効力は失われます。

 二つには、この戦を起こした茶々の本心が私怨にあるということです。彼女は前回、「家康を倒して手に入れてこそ真の天下であろう」と言っていますが、彼女の目標は家康を倒すことにしかありません。となれば、茶々には先のビジョンなどなく、叶えられなかった秀吉の夢という借り物に頼る他ありません。

 そして、最後に、この場に集まった諸将たちが武功によって身を立てる武断派の者たちだということです。秀吉がそもそも唐入りに憑りつかれた最初のきっかけは、天下一統で与える土地がなくなったらどうやって武士を食わせていけばよいかという疑問に突き当たったからです。大阪城に集まった者たちは戦がなければ生きていけない人間です。彼らが唐入りに夢を抱くのは必然でしょう。


 つまり、この場にいる多くの者の願いを叶えることが役割である秀頼は、秀吉の見果てぬ夢を語る以外にないのです。しかし、秀頼は本当にその夢が叶えられると思っているのでしょうか。聡明な彼が、自分の語る将来のビジョンが不可能なものだと気づいているのではないでしょうか。もしも、そうだとすれば、哀しいことに秀頼は、既にこの戦の結末が見えているかもしれません。諸将を鼓舞する「共に夢を見ようぞ!」との言葉が虚しい響きを帯びているように見えるのは、気のせいでしょうか。


 さて、家康を倒すと息巻く決起集会に苦しく、泣きそうな千姫に、茶々はその心中を慮ることなく「お千や、そなたも豊臣の家宰として」と兵たちを鼓舞するよう強要します。ここでの、涙が出そうになるのを、こらえて、滲んだ涙を隠すように決意の表情を浮かべるという千姫を演じる原菜乃華さんの一連の演技が、千姫の葛藤を的確に表現しています。なんとか秀頼の嫁足らんとした千姫は力強く「豊臣のために励んでおくれ」と声を絞り出します。その千姫を、秀頼だけが痛々しそうに見守るのが印象的です。この戦の空気に彼女だけは巻き込みたくないというのが、秀頼唯一の願いなのかもしれませんね。



3.覇道と何かを秀忠に伝える家康

 関ヶ原の戦いから14年、遂に難攻不落の城塞都市、大阪城を相手にした戦が始まります。命を救われた片桐且元からの内部情報を元に攻略を進め、備前島にカルバリン砲を置くなど準備に抜かりはありません。「この命、徳川の御ため尽くしまする」という且元の挨拶を受けた後、正純から「此度、戦が初めての若い兵が多ございますので渡辺守綱殿に若いやつらを仕込んでもらっております」との話を聞きます。

 正純の紹介を受けた守綱は、威厳を見せるように「近頃の若いのはどうしようもないわ。戦を知らんくせに血気盛んで言うことを聞かん。おまけに礼儀をしらん」といかにも「今どきの若者は…」という老害爺特有の発言をするのですが、家康はあっさり「お前に言われては世話ないわ」とツッコミを入れると、三河一向一揆の頃、家康の頭をぶっ叩いた話を新兵に披露し、笑いを取ります。守綱に叱責を受け緊張しているだろう新兵の緊張を解きほぐそうとする家康なりの気遣いが、彼らしいですね。


 慌てた守綱は「それでも殿は許してくださった。おやさし…」と言いかけますが「一度足りとも許した覚えはない!」と全否定され、「はえ?」となった彼は、「ぶっ叩いてくだせえ」と平伏します。家康の冗談を真に受けるうつけぶりに正信が扇子で「アホか!」と言わんばかりにはたくのが笑えますね。パシーンという音がいい感じです(笑)

 その様子に家康はひとしきり笑うと「守綱、そなたのような兵がわしの宝であった!」と力強く声をかけると「その全てを若い兵に伝えてやれ!」と万感の思いを伝えます。
 そう、家康が若い頃からの三河武士団も多くが亡くなり、今、彼の元にいるのは本多正信と渡辺守綱の2名だけ。そしてその2名に共通するのは、三河一向一揆で家康に反乱を起こした面々だということです。かつての敵だった二人が家康の最晩年を看取るというこの奇縁こそが、家康の言う通り彼の宝が人の和であったことを象徴しています。

 序盤にあったように、豊臣家は茶々の意見に添わない片桐且元を排除するに飽き足らず殺そうとまでしました。片桐且元(と常真)だけが外のパイプであり、彼らの意見こそが戦に逸る自分たちの盲を開く可能性があったにもかかわらず、それを自ら手放したのです。
 しかし、家康は結果論的な物も含めて、常に自分とは違う意見に耳を傾け、あるいは耳を傾けざるを得なくなり、それによって生き延びてきました。信長の存在しかり、信玄の存在しかし、三河一向一揆での家臣団しかし、秀吉のもとへ出奔した数正しかし、瀬名の企みしかり…こうした自分とは違う意見の数々を自分の血肉としたことが、家康の強さの一つであったと言えるでしょう。

 ここにきて、三河一向一揆の裏切り者二人を回収して、家康の強みを再確認させるとは巧い演出でしたね。



 さて、陣容について語る秀忠から「指図は全て…このわしが出す、そなたはそれにしたがえよいな」と全権を採り上げると「この戦の責めは全てわしが負う」とその決意を述べます。真意がつかめない秀忠は不満げですが、家康の迫力に渋々従います。勿論、家康もまたある程度追いこんだら、有利な条件で和睦を結び、降伏する算段です。

 こうして始まった局地戦は、数に勝る徳川方は徐々に豊臣方を圧迫し、彼らを籠城するしかない状況に追い込んでいきます。そうした不利に陥っても、家康が呼びかける和睦に応じないのは、大阪城の堅牢さに自信があるからです。


 ただ、大阪城の堅牢さを語る秀頼に「仰せのとおり」と応じた大野修理の「備前島に大筒を並べておるが、あんなこけ脅しに頼るようでは徳川も落ちたものよ」という揶揄は頂けませんね。家康を卑劣感と信じる彼は、敵の大筒の性能までその人柄で計っています。兵器の性能は家康の性格とは何の関係もありません。家康を過小評価したいという心情が、敵の戦力を正しく見るという状況分析を怪しくしています。

 それは、修理の言葉を補強するような「敵は大軍といえども、長らく泰平の世を貪ってきた飼い慣らされた犬。翻って我らの兵は、このときのために鍛練を積んできた手柄に飢えた虎よ。負けるわけがない」という茶々の言葉も敵を過小評価し、味方を過大評価するものでしかなく冷静さを欠いています。戦を知らない茶々へ秀頼の見通しが甘いのは仕方がないにしても、曲がりなりにも戦場を体験している修理の状況分析の拙さは問題外でしょう。
 豊臣には戦略における冷静な知恵者がいません。この人材不足を招いたのは、苦言を呈する者を排除し、イエスマンばかりを周りにおいたこれまでの人事にあると思われます。それを主導したのは、大野修理ですから、彼の小者ぶりは際立ちます。



 そんな中、一人気炎を吐き続け、孤軍奮闘、徳川方である前田勢を撃退しているのが、7年前に大河ドラマのタイトルにもなった真田丸を指揮する真田信繁です。彼の策にまんまと乗せられた前田勢数千の犠牲を始めとして、その被害は甚大で、大阪城に近づくことすらできません。その鮮やかな戦いぶりの中、信繁は「乱世を泳ぐは面白きことよ」と父、昌幸の口癖を呟きます。彼の中に父の教えが刻み込まれていると同時に、本作の信繁は乱世を望み、戦を好む人間であることが強調されています。
 彼もまた豊臣方に集った他の将たちと同じく、戦の中でしか生きられないのでしょう。大河ドラマ「真田丸」では穏やかな生活を送っていた九度山の蟄居も、本作では苛烈な戦闘訓練を行っていたと描かれたのは象徴的です。

 そして、この奮闘から見える徳川勢が「面白いように死んでおりまする」という状況に、またも修理は「家康は再三、和議を申し入れてきておりますが、応じることはありません」と家康の和睦提案は、彼が豊臣を恐れているからという甘い見通しを述べると、「我らは戦い続ける。家康に死が訪れるその日まで」とおだを上げて、その場の諸将を鼓舞しています。
 信繁の真田丸での勇躍は、たしかに徳川勢を食い止めていますが、それは敵を攻めて滅ぼしているというわけではありません。あくまで局地的な勝利に過ぎず、彼が食い止めている間に有効な打開策を打つ必要があります。しかし、真田丸の勝利に酔う豊臣方は、これが大阪の陣の戦全体を支配していると錯覚し、ただ盛り上がり、おだを上げるのみです。



 豊臣が和議を応じないまま、いたずらに戦死者が増えていきます。家康が咳き込みながらも続けている写経の枚数が凄まじいことになっているのは、この戦の犠牲者が増え、そのことに心を痛める家康の心の負担もピークに達していることが窺えます。

 そして、家康は「正信…あれを使うことにする」と決断し、正信は無言ですが、その表情にはついに使ってしまうかという諦めが見えます。「あれ」がカルバリン砲と察した秀忠は「あれは脅しのため並べておるのでは?」と家康の正気を疑います。そして、千姫を案じるのが本音である彼は思わず「本丸までは届かんでしょう…」と懇願するように呟きます。


 しかし、家康の返事は「秀頼を狙う」と、本丸まで届く兵器の効果を最大限に生かすと決断します。「されど、そうなれば…」千姫が死ぬという秀忠の言葉を「戦が長引けば、より多くの者が死ぬ。これがわずかな犠牲で終わらせる術じゃ」と断言します。その非情な判断に、阿茶は静かに目を伏せ、その正しさを認めますが、秀忠は思わず詰め寄ります。無論、そんな秀忠の脆さをお見通し家康は「主君たる者、身内を守るために多くの者を死なせてはいかん!」と、かつて秀忠を叱責したのと同じ理由で諭します。


 こうしてカルバリン砲による大阪城の破壊と虐殺が始まります。豊臣方の射程外からくる巨砲による長距離攻撃には、大阪城の兵がどんなに勇猛であろうと、真田丸で信繁がどれほど活躍しようろなす術はありません。その直撃で、砲撃による建物の倒壊で、次々と城内の人間の命が一方的に奪われていきます。

 こけおどしと甘く見た自分の不甲斐なさを棚に上げ、「卑劣な奴らめ」と歯ぎしりする修理を尻目に「女たちを天守に逃がせ」と指示を出す秀頼は、冷静さと女性たちを巻き込まないようにしようという配慮がありますね。無論、母と妻を守ろうとしているのです。

 しかし、彼らが切り捨てた片桐且元には、秀頼のこうした指示も「天守へ向かって逃げるでしょう」とお見通し、茶々や千姫のいる天守へ弾は打ち込まれていきます。


 こうした顛末を見ていくと、それまで無名であった真田信繁の名を世に知らしめた武功として名高い真田丸の戦いが、いたずらに豊臣方の自負を増長させただけでしかなかったというのは興味深いですね。その結果、事態打開のため、家康にカルバリン砲による本丸砲撃を決意させただけですから、結局は武勇どころか、豊臣の敗北を加速させたことになってしまいました。

 信繁の活躍が茶々たち首脳部の増長と連動して、豊臣の危機を招いくという描き方は、従来の真田寄りの物語にありがちな、真田の勇躍を腰砕けになった茶々たちが足を引っ張るという展開を否定していますね。武勇のみの武将を評価しない「どうする家康」らしい描き方かもしれません。

 戦術家としては優秀な信繁の活躍だけでは大局的な戦の勝利は見込めません。信繁は戦略や政治を見る大局的視点が欠けていたとも言えますが、これは小牧長久手の勝利に固執したときの家康に少しだけ似ていますね。
 もしも、真田昌幸が生きていて、大阪城に入城したら、真田丸を築くよりも前に、大阪城内での主導権を握る政治をしたように思われます。そうなった場合、大阪方はより手ごわかったかもしれませんね。



 千姫の無事を案じる秀忠は、その圧倒的な砲撃によって多くの人々を死なせ、全てを瓦解させていくその様に「父上、やめてくだされ」と呆然とします。それでも止めない家康に遂には「父上、やめろ、こんなの戦ではない!父上!」と激昂してつかみかかります。

 しかし、家康は破壊されていく様を凝視したまま、秀忠に「これが戦じゃ」と告げ、続けて「この世でもっとも愚かで醜い…」とまで言ったところで秀忠を突き飛ばします。そして、自虐とも怒りとも哀しみとも区別がつかない表情で顔を歪めると「人の所業じゃ…」と絞り出します。

 この家康と秀忠とのやり取りを見て、かつて設楽原の戦い(長篠の戦い)にて数千丁の鉄砲による武田軍の虐殺を見たときの、家康と信康のやり取りを思い出された視聴者も結構いるのではないでしょうか。あのとき「これが…戦でございますか?」「これは…なぶり殺しじゃ」と呆然とする初陣そこそこの信康の問いに、家康は何ひとつ答えられず、あまりの凄惨さに涙を一筋流すことしかできませんでした。彼もまた呆然とするしかなかったのです。
 しかし、ここで家康が信康に答えられなかったことで、信康は戦の恐怖を抱え込み、誰にも明かせぬまま精神崩壊寸前まで追い込まれてしまいました。このことは、信康が家康たちを守るために自決した後も、ずっと後悔として残っていたはずです。


 槍や弓から数千丁の鉄砲を使った戦術へ、そしてより火力の高い大筒による砲撃へ、その進化が示す戦の本質は、いかに効率よく多くの人間を殺せるかということです。そして、その殺人は、相手を殺し、周りの恨みを買うだけはなく、自分の心を傷つけ苛むものです。設楽原の戦い以降も多くの戦を経験し、生き残るためにありとあらゆる手を使い、ときには手を汚してきた今の家康は、その戦の在り様を誰よりも理解しています。言い換えるなら、戦を理解しているから生き延びたのであり、また今、覇道を体現できるのです。


 思えば、武をもって治める覇道が恨みや哀しみを生むだけの愚かなものであることを信長も知っていた節があります。設楽原で見せた新しい戦を必要不可欠と語りながらも、天下一統後の世を治めることのが遥かに難しいと語った信長は、その矛盾に気づいていたのではないでしょうか。

 設楽原で武田軍が虐殺される様を嘲笑する秀吉を嗜め、ただただその凄惨さを見届けたのは、自らが抱えた罪深さと向き合うためだったのではないか…今、カルバリン砲で虐殺を続ける家康は、信長の抱いた心境とシンクロしているかもしれませんね。まさしく、家康は「同じ地獄を背負って」いると言えるでしょう。


 そして、家康は、心ならずも戦がこの展開になったことを機に、自身の覇道を歩む姿を見せ、戦の愚かさを十二分に刻み、自分の真似をしないよう諭しているのでしょう。信康にはしてやれなかった主君たる親としての義務を、数十年を経て果たしているのです。

 無論、秀忠にはそんな家康の心痛も苦悩もわかりはしないでしょう。家康の心を気遣う阿茶は痛ましそうな表情をすると目を伏せ、正信は親子をじっと見守ります。周りの者たちが口を出せない、身を切った帝王学の教育だからです。



 さて、カルバリン砲によって、戦の本質を知ることになったのは秀忠だけではありません。例えば、戦を知らず、その勝利の華々しさだけを夢想して酔っていただけの茶々です。彼女は、初めて、明確に戦による差し迫る死を実感することになった彼女は恐慌状態で「落ち着け、まやかしのおどかしにすぎぬ」と侍女らに叫びますが、ただの現実です。立ち直ろうと「落ち着け」と自分に言い聞かせ、再び皆に逃げよと声をかけたその瞬間、怯えきって動けない千姫が視界に入ります。

 そのとき、天井が崩落してきます。咄嗟に茶々は千姫を庇い、重傷を負うことになります。パワハラめいた言動の多い茶々が、母の顔になり、身を呈したことに驚いた方もいるかもしれません。しかし、千姫は豊臣家に幼き日に嫁ぎましたから、茶々は妹の江にかわって文字通り母替りになって教育していたはずです。千姫にとっては厳しい言葉も、あくまで豊臣の嫁として彼女を立てているからなのですね。まして、同じ織田の血を引く者、その芯の強さをどこかで信じているのです。

 千姫が状況的につらい立場にありながらも、大阪城から逃げ出さないのは、秀頼を慕う気持ちと、茶々を気遣う気持ちがあるからでしょう。だからこそ、徳川と豊臣の板ばさみになるのです。

 そして、負傷して目を覚まさぬ義母に呼びかけながら、多くの侍女が天守で死んでいるという惨事に千姫は狼狽えます。千姫もまた戦の凄惨さを見せつけられるのです。そして、それを引き起こしたのは、敬愛していたお爺さま、家康です。彼女に大きな心境の変化が訪れそうですね。



おわりに

 大坂の陣、その描写で際立つのは、豊臣方の戦に対する認識の甘さです。彼らは、その凄惨さに目を向けることなく、戦の持つ華々しさや勝ったときの栄光だけを夢想し、安易に徳川に挑発しました。そして、その安易さに群がる、戦でしか生きていけない古い価値観の猛者たち、豊臣方に漂うのは死の匂いです。それだけに、そうした彼らの思いを受け止めるのが自分の役割であり、そのように育てられてきた秀頼の諦め、それを気遣う千姫の若い二人の思いが切ないですね。



 豊臣方が夢見がちなだけに、その挑発を受けて戦をするしかなくなった徳川方の現実を受け止める思いはより重たく映ります次代に「戦無き世」を秀忠に託すことに希望を見出した老境の家康は、自分の役割を次代のために戦を完全に終わらせることと思い定めます。そして、戦を早急に終わらせる最も最適な方法、覇道を選び取ります。そして、その覇道を自分の死と共に彼岸へもっていくことで封印し、後を任せようとするのです。

 こうして、家康は第46回にして、全ての戦を終わらせるため、遂に本気で覇道を極めきる覚悟を決めます。思えば、「どうする家康」とは、心底、戦が嫌いな一人の青年が、「戦無き世」を夢見て、努力し、結果、その志を次代に託すために、最も嫌いな覇道の道を極める決意をするまでの物語だったのかもしれませんね。


 しかし、もしかすると若き秀頼も似たことを考えているかもしれません。二人はどちらも天下人の素質を持ち、人々の願いをその身に受けています。家康は死んでいった多くの者から「戦無き世」の実現を託されています。対する秀頼は、どこまでも戦を望む人々の思いを受けています。もし、秀頼が「戦無き世」を実現したいと願うとしたら、この戦を望む人々の思いごと自身が滅びるしかないと思うのではないでしょうか?

 老境の家康の覚悟、若き哀しきプリンスの諦観、それが「戦無き世」の実現の必須事項としたら…なんとももの悲しいですね。

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