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かつて僕らは 第一話

・あらすじ
11年前、とあるバンドが解散した。彼らは当時高校生だった。彼らにとって、バンドの解散は彼らの人生を決定づける大きな分岐点となった。時が経ち、大人になった彼らは当時を振り返って何を思うか。夢を叶えること、夢を諦めること、夢を応援すること、夢に向かって走ること。大人になって振り返る、青春群像劇。

・書きたいこと
高校で解散したバンドメンバーの大人の姿を描きたい。それを主軸に書きたい。夢を追うことは美化されがちだけど、夢の終わらせ方もそれ以上に大事だと思っている。高校でのバンド活動と、それを経て様々な道を進む大人になった彼らの物語。


 なんで音楽やってんだっけ。

 たまに頭がひどく冴え渡り何も感じ取れなくなって、一つの疑問だけが浮かび上がることがある。何もない真っ白な無音の空間に放り込まれたような、そんな感覚がする。

 手はベースの弦を探っていて、ステージ上では仲間たちが全身で楽器をかき鳴らしている。ステージを取り囲む群衆は腕を振りながら必死に耳をこちらに傾けている。

 全員が音に熱中するこの空間が、飯島隼人は心地よかった。

 なぜ音楽をやっているのか、そんなことを考えている暇はない。彼らは今日の演奏を楽しみにしてきた。自分はステージ上に立っている。

 何もよりもまず曲を演奏すること、それが自分の使命であり唯一のしなければならないこと、なはずなのに。

 なんで音楽をしているのか、払拭できないその疑問がベースを弾く手を鈍らせる。

 まずい、少しリズムが崩れて他の三人との不調和を起こした。一瞬の歪みにメンバーの目線がこちらに注がれる。

 大丈夫、問題ない。隼人はそのまま演奏を続けた。演奏は途切れることなく続いていった。

 音に集中していくにつれてだんだんと疑問が薄くなっていった。周りの状況もよく見えるようになり、視界に色が取り戻された。

 目の前にいる圧倒的な数の観客は、全員自分たちの方を見ている。

 ずっと室内にこもっていると忘れてしまうが、ライブに出ると自分たちの音楽はこんなにも多くの人に聞かれているのだな、と思う。

 この景色を誰かと一緒に見たかった。

 突然、一つのことが閃光のように脳内で煌めいた。11年前、飯島隼人が高校生だった時、初めて組んだバンド。あぁ、そうだ。これがきっかけだったっけ、と隼人は思った。

 長らく忘れていた、いや、蓋をしていたこの思い出。

 高校卒業を前にして解散してしまったあのバンドの思い出が、じんわりと湧き上がってきた。

 小野寺空、元瀬優香、そして、長門奏。

 そうだ、商店街のアーケードの下、小さな楽器店で、俺は奏に出会って、ベースを始めたんだ。

 視線はステージ上に戻った。記憶の中にいた彼らは、全員このステージにいなかった。

 あれ?

 リズムが再び崩れた。それは一度目のような局所的なずれではなく、地滑りが起きたような根本的なずれだった。

 メンバーは戸惑いを隠せず、全員が飯島隼人に視線を注いだ。

 項垂れながら機械的に手を動かす彼は、心がどこかに飛んでいってしまった人形のようで、その様子を見たメンバーたちは大きな不安を抱いた。

 ステージ上の不穏な空気はすぐに会場全体に伝わった。

 観客の熱が急速に冷めていき、大きな疑惑と心配が会場を満たしていった。音に波打つ観客はすぐに動きをやめて自体の動向をじっと見守った。

 そうだ、俺はあいつらと音楽をやりたかった。なんで、あいつらはここにいないんだ?なんでこいつらと、音楽やってんだ?

 その疑問は拭い去ることができず、隼人の体を蝕んでいった。

 この音は誰のために、誰に向けて発している?あいつとバンドをするはずだった。あいつらとこのステージに立つはずだった、のに。

 ギゴ、と何かが壊れる音がした。

 視界が螺旋を描いて点に収縮していく。全ての音が混ざって闇に飲まれていく。

 全ての音楽が聞き取れない。頭の中で警告音が鳴った。ダン、と体に何か冷たい物体が当たった気がした。

 「隼人、隼人」
 名前を呼ばれながら体を強く揺さぶられている。

 そうか、自分は倒れたのか。
 演奏しなければ、ベースを弾かなければ、手を動かさなければ。

 隼人は手を探ってみようとしたが、全く動かなかった。

 頭の中にあるのは全て、あの日、バンドが解散した時のことだった。

 隼人は意外に思った。あのときの思い出を昇華して乗り越えたつもりだったが、まだ自分の中でこんなにも大きく巣食っていたとは。

 もう、いいかな。
 もう、目を閉じようか。

 周りの人間はどうしていいか分からずにあたふたと周りを動き回って、何もしないという選択をとっている。

 この状態にデジャヴを感じた。かつて俺たちも何もしないという選択をとった、あの時のことを。

 どうにもならない時は、全てを任せよう。そうだ、どうせ、なんとかなる。

 飯島隼人はゆっくりと目を閉じた。



        ********



 「負けたな」
 照りつける太陽が痛い。真っ黒な髪は太陽の光を余すことなく吸収して、発熱していた。

 中学三年生の夏、飯島隼人は最後の試合に負けて、友人たちと帰路についていた。

 「もう少しで勝てたのに」
 地区予選、3回戦、それが隼人たちの到達した場所だった。

 三年間の努力が全てこの結果に集約されていると思うと案外あっさりしているものだな、と思った。

 「けど、正直ここまでいけるとは思わなかった」
 隼人は口に出してから、つい本音が出たことに気がついた。隼人はちらっと視線だけ動かして隣を歩く二人の様子を伺った。

 隣を歩いていたコウタロウ、ユウジは特に怒ることなく「そうだな」と言った。

 三人でぽつりぽつりと今日の試合の感想を言い合った後、改札口を通って電車に乗り込んだ。

 大体のチームメイトは保護者の車で帰っていったが、自分たちは保護者が迎えに来ず、電車に乗って自力で帰る次第だった。

 車内は寒いほどに冷房が効いている。汗を軽くタオルで拭き取ってリュックに突っ込んだ。

 車内には年代も風貌もさまざまな人たちで賑わっている。

 「どっか寄る?」
 長い沈黙の後、目的地の三つ手前ぐらいにきた時、コウタロウが口を開いた。

 「そんな気分じゃない」
 隼人はさっさと家に帰りたかった。帰って何をするということもなく、ただぼーっとしていたかった。

 「それに、部活終わったら勉強しなきゃ。そろそろ受験だし」
 コウタロウはケンジの方を向いて「そんなこと言うなよぉ」とスライムみたいに体をぐにゃぁと曲げた。

 「あぁ勉強したくない」
 コウタロウは電車のドアに寄りかかって後頭部をガラスにくっつけ天井を向いた。

 「でも高校にはいくんでしょ」
 「行くよ」
 「じゃあ勉強しなきゃ」
 「別に、どの高校に行っても一緒だろ」

 ケンジは「そんなことないと思うけど」とぽつりと言った。コウタロウはやけにあっさりとしていた。 

 「あるよ。どの高校行ってもどの大学行っても、結局はそこらの会社に就職すんだから」

 隼人は驚いてコウタロウの方を見た。

 隼人はコウタロウが将来について考えていたことが意外だった。彼はいい意味で今を生きる人間だと思っていた。
 将来のことを話すコウタロウが隼人にとっては新鮮だった。

 コウタロウは隼人の視線に気付き、視線だけ動かして「なんだよ」と言った。
 隼人は慌てて「コウタロウが将来のこと考えてんのが意外で」と言った。

 「考えるも何も」
 コウタロウは後頭部でガラスをぐいっと押して反動で姿勢を戻し、隼人の方を向いた。
 隼人はまっすぐ見つめるコウタロウの視線に少し後退りした。

 「それ以外あんの?」
 その言葉はするすると抵抗なく胸の真ん中に入ってきた。

 体の芯にその言葉が到達した時、霧が晴れて自分が立っていたのが何もない荒野だったような、見ないふりをしていた現実をようやく直視したような感覚だった。

 隼人はその言葉を否定したい欲望に駆られた。
 しかし、その言葉を否定するための論理を彼は持ち合わせていなかったから「わかんねぇ」と言って濁らせるしかなかった。

 「親とか見てて、多分、俺はこうなるんだろうなって思わん?別に親に対して不満があるわけでもないし寧ろ感謝しないといけないと思ってっけど、ここに向かってんのか、って思うっていうか」

 電車がガタンと揺れた。体が強く揺すぶられて足元がよろける。一瞬宙に浮いたような感覚がしてひゅっと心臓が掴まれた気がした。

 慌てて目の前の吊り革を握り、踏ん張った。心臓がドクンドクンと波打っている。この鼓動が焦りなのか不安なのか分からなかった。

 再び沈黙が訪れた。電車のざわめきに三人は溶け込んで、思い思いの方向を見つめてぼーっとしていた。

 「これから部活ないんだね」
 「高校まではお預けだな」
 「コウタロウは高校でも野球やんの?」
 「するよ、ケンジは?」
 「俺、やんない」

 隼人は驚いてケンジの方を見た。今日は彼らによく驚かされる。隣に立つ彼らが急に知らない人であるかのように思えた。

 「へぇ、何やんの」
 「留学したいから、その勉強」
 「まぢ?初耳」
 隼人はコウタロウの反応に頷いて同意した。

 ユウジは留学をするのか。そうか。そうだよな。別に野球を続けなきゃいけないというわけではないし、他のことやってもいいんだし。

 ユウジはそれから流れるように話し始めた。ずっと海外に行ってみたいと思っていて、高校で留学のプログラムに参加すること。そのために留学プログラムのある高校に通いたいこと。

 隼人はその全てが初耳で、それはコウタロウも同じらしく、ケンジが何か話すたびにへぇ、とかほぉとか相槌を打っていた。

 「そっかぁ、俺はまぁ野球続けるけど」
 ユウジが留学。日本を飛び立って海外へ行く。隣にいる彼の背中が一瞬にしてずっと遠くに見えた。

 「隼人は野球続けんの?」
 やるよ、と言いかけて隼人はその言葉を喉の奥にしまい込んだ。やるよ、と言うことに躊躇いと迷いがあった。数分前なら澱みなくやるよ、と言えたのに。

 「どうだろ」
 ユウジはぽん、とコウタロウの肩を叩いた。

 「それより受験でしょ。勉強とか大丈夫なの」
 コウタロウは一瞬にして泣き顔になり、火を通したネギのようにヘナヘナと体を崩した。

 「ユウジとか隼人は余裕だろ。いいよなぁ」
 「そんなことないよ。油断したら落ちるかもしれないし」
 「ほんと分けてくれぇ、その頭ぁ」

 コウタロウは吊り革を握る腕に額をつけて泣き言を言った。ケンジは勉強せぇ、と頭を小突いた。隼人はそんな二人の様子を横目に見て、無心に窓の外を眺めていた。

 玄関のドアを開けると母親がリビングからパタパタと音を立てて迎えにきた。

 「お疲れ様、残念だったね。もう少しで勝てたのに」
 「ん、まぁ、しゃーない。シャワー浴びるわ」
 「風呂は?」 
 「シャワーだけ」

 靴を脱いですぐに左に曲がる。洗面台で荷物を下ろし、リュックを開けてユニフォームを白いカゴに入れる。脱いだパンツや着替えた靴下はそのまま洗濯機に入れて、素っ裸になり浴室に入った。

 土と汗が絡んだ髪は馬の尻尾のようにパサパサしていて、指を手に入れてかき混ぜると何本かの髪がブチブチと抜ける音がした。

 蛇口を捻る。シャワーから勢いよく水が流れる。手で水温を確かめながら、あったまったところで頭にかけ始めた。

 このまま高校へ入って、野球をやって、大学へ行って、就職して、結婚もするだろう。

 容易に想像できた未来像を流すようにシャワーの蛇口を捻り水流を強めた。水がタイルを打つ音が耳の中で反響して頭の中の雑音をかき消した。

 浴室を出てタオルで水滴を拭き取る。水を吸ったタオルを洗濯機に放り投げる。
 母が用意してくれた新しい下着を穿く。

 肌着の袖に腕を通した瞬間、未来が全て決定したような感覚がして、手が止まった。しかし着ないと風邪をひくから、とすぐに頭を通した。

 廊下を進んで突き当たりを右に曲がり、部屋に入る。ベッドに向かって倒れ込んで、枕にうつ伏せになって目を閉じた。

 (「それ以外あんの?」)

 隼人はなんだか落ち着かなくなり、ベッドに置いてあったスマホに手を伸ばし、Twitterを眺めた。

 <音楽界の超新星、17歳の歌姫鮮烈デビュー!!>

 タイムラインを眺めていると、仰々しく書かれたネットニュースが目に飛び込んできた。白い画面の中でその文字が輝いて見えた。

 先月から彼女についての記事がよく目に飛び込んでくる。
 眉間に皺を寄せて電源を切り、ヘッドフォンを目を閉じた。17歳。自分とたった二つしか変わらない。

 あと半年もすれば中学校を卒業して高校生になる。高校を卒業すれば、成人。大人はそう遠いものではなくなって、徐々にその姿を表して近づいている。

 ヘッドフォンから音楽が流れていないことに気がつき、スマホを再起動して音楽アプリを開いた。

 ふと、気になってライブラリに入っているミュージシャンたちのWikipediaを調べた。
 よせばいいのに、と自分でも思ったが、手を動かしたが最後、やめられなかった。

 1988年生まれ、1995年生まれ、1987年生まれ、1991年生まれ、1997年生まれ、1995年生まれ、1998年生まれ、2001年生まれ…
 自分より年下のアーティストは見つからない、そのことに一旦安堵して、適当に曲を選択して音を流した。

 サカナクション、夜の踊り子。

 ステージ上でそれを弾いている自分を想像している。観客は全員自分のことを見ている。大きな感性と拍手で体が揺れる。強い照明が目をくらませる……

 コンコン。
 「入るよー」
 ガチャッ。
 母親がゆっくりとドアを開いた。ヘッドフォンフォ氏から母の声がグモって聞こえた。

 サカナクションの曲に母の声が使われなかった理由がわかった。まるで合わない。むしろ不快だった。

 「ごめんね、ちょっと紙袋が欲しくて」
 母はクローゼットを開けて、隅に置いてある紙袋の束から、一枚、茶色のものを取り出して、「そろそろご飯だから」と伝えてそそくさと部屋を出ていった。

 隼人は再生を止めてヘッドフォンを脱いだ。人曲聞いただけなのに耳に汗をかいた。ヘッドフォンの内側が水滴で濡れていた。

 手持ち無沙汰になるといつもスマホを触ってしまう。電源をつけてsafariを開いた。

 先ほど見ていた1998年生まれのアーティストのWikipediaが表示される。なんの気なしに下にスクロールすると経歴という項目にこんなことが書かれていた。

 <中学二年生の時、父親からギターを買ってもらったことがきっかけで音楽を始め、高校に入り軽音部に入部。高校二年の時に作曲を始める。>

 中学二年生。

 ドクン、と心臓が高鳴る。耳の裏に粘っこい汗が溜まる。シャツをはためかせて空気を循環させる。

 中学二年生。

 言葉が確かな実態と質量を持って体にのしかかってきた。心臓の脈が早まっていく。
 右手に何かを掴んだ感触がして、開くも、そこにあったのは無色透明な空気だった。

 「ご飯よー」
 隼人はベッドから体を起こして部屋を出た。もう少しで戻れない何かに乗る予感がした。安堵と後悔の入り混じった血液が体を巡った。

 彼は放心状態でリビングに向かった。 

 「試合、負けたんだってな」
 仕事から帰ってきた父親はスーツの上着を椅子にかけて言った。

 「うん」
 「まぁ残念だったな。切り替えて勉強頑張れ」
 「うん」
 「ちょっと、スーツは汚いからクローゼットにしまっといて」
 「はいはい」

 父親はめんどくさそうに、しかし素直に立ち上がりスーツをクローゼットになしに言った。

 「隼人はもう志望校決めたの?」
 「ん、まだ」
 「さっさと決めないと、和義くんとかもう決めてるらしいよ」
 「まぁやりたいことができるようなところへ行きなさい」

 やりたいこと。雲のようにどことなく流れる会話の中で、父親のこの言葉だけが引っかかった。

 やりたいこと?

 隼人は何も考えなくていいように、ただひたすらに箸を動かして黙々と食事を続けた。
 胸の蟠りは消えることなく、浮遊する無人船のように波を漂い続けた。
 


 「はい、じゃあ明日から授業が始まるから、きちんと学校にくるように」
 夏休み明け、初日。HRが終わり隼人たちはいそいそと帰り支度をして学校を出た。

 「どこまでいった?」
 「3回戦」
 「おー、まぁまぁいったな」
 「ん、まぁな」
 「俺は一回戦で終わった」
 「そんなもんだろ」

 隼人は同じクラスの、サッカー部のヒガシとバトミントン部のトキワと帰っていた。彼らの家は駅に近く、学校から駅前の商店街を通ったところにあった。

 駅に近づくにつれて段々と人の数が増えて賑やかになっていく。
 たわいもない話をする中で、隼人は言語化できない焦燥感に駆られていた。

 すでに降りることのできないレールの上に乗っかってしまっているような、未来が全て決定してしまっているような、そんな気がした。
 その先にあるものに嫌悪しているわけではないのに、何故かそこにいることが怖くなってしまう。これでいいのか、と考えてしまう。

 手に汗が滲んできた。暑い。雲ひとつない剥き出しの日の光は痛かった。

 駅前の広場に出た。ジャン、ジャカジャンと規則的なギターの音と被さるようにして歌声が聞こえる。
 見ると広場の端で一人の男がギターを持って路上ライブをしていた。

 彼の周りはぽっかりと穴が空いたように人一人いなかった。誰もが見向きもせずそのまま素通りしていく。
 彼の前には円状の見えない壁があるかのように、人々は避けて通っている。

 そんな男に隼人が抱いたのは、羨望だった。隼人はじっと男を見つめていた。客観を全て捨て去って自分の世界に入り込む彼が羨ましかった。
 きっと、あの道は彼しか歩けなくて、自分では到底入り口に立つことすらできない。彼に当たる照明が眩しすぎて、目が眩んだ。
 自分は近づけないからせめて賞賛の眼差しを、と真剣に男に視線を送った。

 「あ、歌っている人いるじゃん」
 ヒガシとトキワもそれに気づいた。

 「な」
 隼人はそのまま「すげぇ…」と言葉を続けようとして、ヒガシとトキワの声に遮られた。

 「誰もいねぇじゃん」
 「うわ、はず」
 「警察とか来たりしないんかな」
 「許可とってんじゃね」
 「お前行ってやれよ」
 「やだよ」

 友人たちのケラケラという笑い声が隼人に向かってまっすぐに聞こえてきた。隼人は、どっちが、と思った。

 隼人には彼がスポットライトを浴びているように見えた。主役は彼で、彼の周りを通り過ぎる通行人の顔はモザイクがかかって見えない。

 今、自分たちの目の前には彼がいて、周りの人間の中にも彼が視界に映っている人がいるのだろう。

 しかし、自分たちは誰にも見られていない。自分たちは観客席からヤジを投げかけている馬なのだ。 
 恥ずかしいのは自分たちの方だ。

 「あ、あの」
 隼人と同じくらいの歳の女の子が一人、パタパタと彼に近づいていった。

 「応援してます!頑張ってください」
 女の子は何を渡すでもなく、目線を合わせられないまま、ただ思いを伝えた。隼人たちはその様子をぼんやりと見ていた。

 「可愛くね、あの子」
 「どこ中だろう」
 「このへんにあったっけ、あんな制服」

 歌っていた彼はびっくりした顔をして、そして一気に表情を崩し「ありがとう」と笑った。

 始まった。
 隼人はそう思った。

 今まさに彼の物語が始まった。彼のミュージシャンとしての輝かしい1ページが始まった。その様子をまざまざと見せつけられた。

 駅前で歌っているところに話しかけてくれた最初のファン。時にはヤジもを投げられることもあったが、苦難を乗り越えて武道館まで進んでいく。彼の進む先には光り輝くステージが待っている……

 女の子はぺこりと頭を下げて、駅の方に消えていった。男は再びギターの弦に手を置いて、ジャカジャカと音を立てて歌い始めた。

 「追っかける?」
 「ばか、捕まるぞ」
 クスクスと笑う彼らを見て、隼人は隣にいるのが恥ずかしくなった。

 「で、どうする?」
 「サイゼでいいだろ」
 「俺は帰るわ」
 隼人は体の向きを変えて信号を渡るそぶりを見せた。

 「まじ?なんかあんの?」
 「帰って勉強する」
 「あ、そう」
 「おん、じゃあ、また」
 「ほいじゃあ」

 信号を渡って駅前の商店街を通る。賑やかな装飾の割には人がいない。長いアーケードをゆらゆらと歩いていく。

 何か考えたいことがあった気がしたが、隼人は忘れてしまった。

 半分ほど進んだところでふと立ち止まった。そこは楽器店だった。

 駅前で歌っていた彼の姿が思い浮かんだ。彼の持っているギターもこの中にあるのだろうか、と思った。

 隼人はぼーっと眺めて、ガラス戸を押して中に入った。クーラーのひんやりした空気が足元を流れてきた。

 広々とした店内に楽器が整然と並べられている。右の隅の棚に楽譜が置かれていて、手前のガラス付近にはピアノ、奥にはギターとベース、ケースの中には金管楽器も置かれていた。

 楽譜を手に取り、眺める。好きなアーティストの曲の譜面を見て、わからないままに閉じて、他のものを手に取る。
 目的もなかったが、その行動を繰り返した。

 楽譜に飽きて、店内の奥に進んだ。壁一面にギターとベースが並べられている。どっちがギターでどっちがベースのなのかわからない。
 全ての楽器が一斉に音を鳴らしたらどれだけの音がでるんだろう、と思った。

 「何かお探しですか?」
 ふらふらと店内を歩く隼人を見て、店員が話しかけてきた。

 「あ、いえ」
 隼人はそこで、ここで何もすることがないことに気がついた。

 「眺めてただけで」
 急に自分が場違いな人間であるのだと自覚させられ、一刻も早くこの場を出たくなった。 

 「はい」
 お辞儀してそのまま扉に向かおうとしたそのとき、背後からギターの音が聞こえてきた。

 その音に足が止まった。室内で奏でられたギターの音は霧散することなくまっすぐに隼人のもとに届いた。

 純粋な音の塊は隼人に奏者の感情までも届けた。音が弾んでいる。スキップしている。音を奏でることが楽しくて仕方がないような、溢れんばかりの喜びが伝わってきた。

 振り返るとそこには制服を着た男子学生がいた。

 多分、中学生だ。

 段々と周りから光が失われていって、彼の周りだけ穴が空いたようにに光が当たった。

 ギターを弾く彼の口元は心なしかほころんでいる。ゆるくパーマがかった髪はギターのリズムを取る体の動きに合わせてたんたんと跳ねている。

 羨ましい。

 俺もそっちへ行きたい

 ここから抜け出したい。

 そんな、楽しそうな顔、すんなよ。

 隼人は胸が苦しくなった。動悸が激しさを増して、脈打つ血管に手がびくんと跳ねた。

 ギターの音が止んだ。彼が頭を持ち上げて目線を上にあげた。隼人と目があった。
 隼人はじっと動かず彼を見ていた。彼は目を大きく開いて、大きな二重を輝かせた。

ゆっくりと唇が開きかけ、閉じる。目を合わせたと思ったら、俯く。彼は何か言いたげな様子だった。

皺の一本の動きまで見逃さまい、と隼人は全神経を集中させて彼を見ていた。

 「な」
 ついに彼から言葉が発せられた。

 「何やってるの?」

 スポットライトの円が大きくなっていく。拡大する光の円が、隼人の元まで近づいていく。

 彼の表情は期待と高揚で溢れていた。自分と同じように音楽をやっている人を見つけて嬉しくてしかたがない、と言ったふうだった。

 隼人は言葉を探していた。彼は楽器を弾けなかった。弾けない、というのは簡単だった。それが事実ならそう言えばよかった。

 けど。

 隼人は多分、ここなんだ、と感じとっていた。

 未来とか過去とかが全て消え去って、今一点に収斂していく。理性や思考が消えていく。

 膨らんでいく強い感情が不安や後ろめたさを消し去って隼人の全細胞を満たした。

 「ギ…...」
 ちらりと彼の持っているギターを見て、その後に壁にかけられているベースに視線を移動させた。

 「ベース」
 自分の声が頭の中に響いた。

 「ベースやってる」
 スポットライトが二人を包み込んだ。天井からの眩い光が彼らを同じ円に入り込ませた。

 隼人の言葉を聞いて、彼の口元は嬉しそうに大きく上に曲がった。柔らかくて無邪気な笑顔だった。

 「な、ならさ」

 彼は視線をあっちこっちに動かした。彼も彼で言葉を探しているように思えた。どこか躊いが垣間見える。彼も今まさに一歩踏み出しているのだと感じられた。

 手のひらに汗が溜まってはみ出た水滴が床に滴った。全ての音が消えて彼の声しか聞こえなくなった。

 彼の言葉を何ひとつ逃してはいけない、と隼人は思った。

 そして、ついに彼が口を開いた。

 「バンド、やらない?」

 始まった、と隼人は思った。
 






・構想


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