オフィーリアの花輪 初稿
上の拙作の初稿です。メイキング記事はこちら
【オフィーリアシンドローム】
夏至の昼が終わろうとしていた。
真っ直ぐ病室に向かう迷いのない足取りとは反比例に、病院独特の匂いは、何度来ても慣れることはない。
面会に少し日が空いてしまったことへの、いくばくかの罪悪感を持って重たい扉を開ける。
彼はベッドで上半身だけを起こし、いつもと変わらぬ柔らかな笑みを浮かべて窓を見つめていた。私の存在に気づいて「やあ」と頭を揺らせば、軽く纏められていた長髪がさらり、とほつれて流れる。
「雨がふらなくてよかったね。梅雨入りしたんでしょう？」
思わず目を細めたのは、突き刺さるような西日のせいだけではない。
三十路を過ぎた筈の彼は、どこか幼く頼りない。子どもの頃は女っぽいとからかわれていた中性的な容姿も、成長と共に男性らしい精悍さと――ともすれば柔らかな美しさと愛らしさを兼ね備え、伸ばしたままの長髪がそれをさらに強調させていた。
男とも女とも――はたまた、俗世にいることすら不思議な純粋さを持ち合わせた、稀有な人だ。もともとそうだったのか、この病室で過ごすことが多くなってからそうなったのか。長い付き合いの私でもわからなくなってきたくらいには。
「したよ。そうだ……ジメジメするんだから、髪を切ればいいのに」
「面倒でね」
「面倒、って」
なんのことなく放たれた言葉は、羽のように軽い。
「今の僕には、身だしなみを整える意味がほとんどないから」
今度は自虐が加わった。
「こうやって面会に来ているのに？」
ザラつくようなそれが気に入らなくて、ほんの少しだけ語尾を強めた。
「君に今更、遠慮をする必要があるのかな」
僕はしたくないなあ、と微笑を滲ませる。自分だけに向けられる、縋るような視線が痛い。痛くてずるい。
無言を返事の代わりにして、鞄から小さな写真立てを出す。中には、絵画のポストカードが入れてある。
本や音楽プレーヤー、ノートパソコンにメモ用紙や付箋のついた雑誌が散らばるサイドボードの、空いているスペースに立てかける。
「締め切りは？」
「大丈夫。プロットを担当さんに送ったばかり。でも、それしかできなかった」
それしかできなかった、という言葉の弱さはそのまま、彼の精神状態を表す。これは相当弱っている。表情が硬くならないように努めながら、絵を持ってきたよと声をかけた。
「ありがとう」
自分を見上げる視線が、いつもの解説をと促していた。
「ミレーの『オフィーリア』」
ああ、と彼は言って、絵に視線を移した。
テレビを好まない彼の娯楽は、本や音楽だけだ。絵の鑑賞は、興味はあれど出歩けない彼への提案の一つだ。図録を渡すのも考えたが、彼は言った。額縁に飾ってあるのが見たいのだと。
「詳しくは調べてないけど、この女性……オフィーリアは、川に落ちたあと、歌いながら沈んだっていう話がある」
ハムレット、と彼が言う言葉に頷く。
「ぼんやり読んでしまったからしっかり覚えていないけれど。愛に翻弄された女性だと僕は思った。非常に美しい死の表現だと言われてるらしいねえ。うん。絵も綺麗だ」
小さな絵を眺めながら、彼はうっとりとした様子で語る。
「水葬もいいかもしれない」
あまりにも。あまりにも自然な流れで出たものだから「えっ」ととっさに言葉になるのがワンテンポ遅れて、妙な空白が出来た。
「服が水を吸って、泥まみれの死の底に引きずり下ろしていく。歌いながらなのが特に気に入ってる」
実際の溺死なんて悲惨そのものだけど、と小さく彼は付け加え、それを最後に黙った。
能面のような横顔に、また髪がほつれて流れる。
ああ、兆候が現れた。
私は彼に手を伸ばす。ほつれていた髪に触れ、なでつける。
「沈むなんて、許さない」
ベッドのきしむ音と共に距離を詰めて、片方の手は髪の毛をなでたまま、顔を近づける。 ほんの少し、頭を引き寄せて軽くキスをする。離れがたいから、額をくっつける。
「……花輪を飾ろうとして川に落ちるような男だよ、僕は」
目尻を下げて、困ったように笑う。
「そういう所も愛おしい」
続く言葉の代わりに、髪の毛を優しく梳く。柔らかく、艶やかな感触は、彼の心根と似ている。
お願いだから、と願いを込めて。
「僕が沈んだら、君はどうする」
「引き上げてみせる」
ほら、今だって。
頭から肩に、なでるように手を下ろす。わずかに力を込めて、彼の体を寄せる。少しだけ萎縮していた体が、柔らかくなった気がする。
抱きしめて、体温を感じる。ほら、貴方はおぼれちゃいないとささやく。
「……こりゃあ、力強い」
あきらめたような、だがどこか楽しげな笑いと共に、彼は言った。
「自分をオフィーリアだなんて、三十路のオッサンの自覚はある？ まったく図々しい人だ」
「手厳しいなあ、わかってるよ。身だしなみのできないおじさんだよ、僕は」
私の背中に、彼の手が回された。身を寄せられて、今度は私が強く抱きしめられる。
「君が来ないから、少し寂しかったんだ。もう沈みたいなんて言わないから、いじめないでくださいな」
腕の中で、彼がささやく。「いじめない」と言えば、フフ、と軽やかに笑った気がした。
ずっと抱きしめているのもどこか照れくさくなって、どちらともなく離れた時だった。彼が「あれ」と小さく声を上げた。私の腕をじっと見ている。視線に気づいた私は、とっさに腕を手でかばう。
「腕に包帯があるよ。怪我でもしたの？ 大丈夫？」
心底心配そうな声に、油断するんじゃなかったと後悔する。だが、見られた以上は仕方がない。
「仕事で怪我をしただけ」
素っ気なく聞こえるように注意深く言う。
「そう……でも、気を付けてね。怪我すると痛いよ」
「痛いのは当たり前だよ」
苦笑しても、彼は「痛かったろう」と私の頭を撫でた。子どもみたいな仕草だけど、それが妙に彼には似合う。
私は、心に浮かぶ気持ちを隠しながら――彼の手の温かさに、しばらく身をゆだねた。
結果がどうあれ、私は今、彼といて幸せなのだ。
幸せ、なのか？
病室を出ると、彼の担当医師が私を待っていた。先ほどまでの幸福感はどこへやら、きっと私の顔は仏頂面になっているだろう。
「いつも通り、記録に残させていただきました」
感情の見えない声はいつものことで、そうですか、とこちらも平坦に答えた。
オフィーリア症候群。溺死を衝動的にしたがる謎の病。それが彼の病名だ。
水場にさえ近づけさせなければよい。だが、この衝動を無理に押さえつければ、それはやがて他人への攻撃にも変わる。私の傷は、先週彼に付けられたものだ。
時折あの絵をわざと見せて、水に沈みたい衝動を煽り、それをパートナーである私の「愛情」で緩和する。
そうすることが、彼を死なせないための対処療法の一つだった。
「いつまでこれを続ければよいのですか」
あんな茶番を。言いかけた言葉は飲み込む。
根本的な衝動を抑える薬はない。衝動に駆られている前後の記憶は曖昧模糊としている。だから彼は、私の傷のことをよく知らないだろう。腕だけではない、外からは見えないが体の至る所に付けられた傷も、もちろん。
回復傾向が見えたとたんに再発する。彼はそれを繰り返して既に三年経った。入退院を繰り返し、ここ一年は病室にこもりきりだ。
「男性のオフィーリア症候群発症者は世界で彼一人。解明されていないこともまだまだある。彼は発症当時、研究同意のサインをしている。それは彼のパートナーであるあなたも、承知のことだと私は認識しているが？」
何度も説明された。何度も言われた。何度も。
私と彼の病室でのやりとりも研究材料の一つである。当然、私も婚姻届と同時に同意書を書いた。
「彼は小説家だ。周りの理解もあり、この部屋にこもっていても、生活を続けられるし、貴方というパートナーもいる。あなたのカウンセリングも、この後あるはずだが」
我々のなにか問題でも、と言いたげな医師の目を一瞬だけねめつけ、あからさまに逸らす。
「……後ほど、伺います」
では、と医師は病室に入っていく。
自分への暴力などもう今更どうでもいい。私は健康体で、きちんと処置をすれば治るのだ。だが彼は。
発症してからの彼は、ままならない衝動と戦うために、空想の世界へ身を置くことが増えた。結果それは物語となり、作家になった。闘病する眉目秀麗の若手幻想文学作家――世間での評判はまずまずらしい。本人は気にしてはいないが。
――自分の不幸がわかっていないのは、一体誰なのだろう。
「己の不幸をわからないまま、沈ませはしない」
そう誓ったはずだったのに。時間だけが過ぎて、沈ませないようにするのが精いっぱいで。
いつまでも病室という名の額縁の中に閉じ込めておくのか、彼を。
焦る私の心が、絶望という水を吸って底なし沼に沈んでいきそうだ。作家の彼の足元にも及ばぬことを考えながら、病室の前を去った。
終わり（3574文字）
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