オフィーリアの花輪

◆Twitterでの「ノベルちゃん三題」-2019年6月21日のお題「夏至、水葬、長髪」https://twitter.com/fairy_novel/status/1142039543773724673 を使った140字小説を、6000字程度の掌編に改稿したものです。

 夏至の昼も終わる時。この絵の題名は、と指さす彼の肩へ、軽く纏められていた長髪がほつれて流れた。柔らかな髪の毛を梳きつつ、歌いながら沈んだという絵の謂れを語る。水葬みたいでいいなと彼は儚く笑う。 #ノベルちゃん三題 己の不幸が分からぬまま沈む真似はさせまい。髪に触れる指に力がこもる。

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 夏至の昼が終わろうとしていた。
 真っ直ぐ病室に向かう迷いのない足取りとは反比例に、病院独特の匂いは、何度来ても慣れることはない。
 面会に少し日が空いてしまったことへの、いくばくかの罪悪感を持って重たい扉を開ける。
 彼はベッドで上半身だけを起こし、いつもと変わらぬ柔らかな笑みを浮かべて窓を見つめていた。私の存在に気づいて「やあ」と頭を揺らす。すると、軽く纏められていた長髪がさらり、とほつれて流れた。
「雨が降らなくてよかったね。梅雨入りしたんでしょう?」
 小首をかしげ、彼は言った。
 思わず目を細めたのは、突き刺さるような西日のせいだけではない。
 彼は三十路を過ぎたはずだが、どこか幼く頼りない。子どもの頃は女っぽいとからかわれていた中性的な容姿も、成長と共に男性らしい精悍さと――ともすれば柔らかな美しさと愛らしさを兼ね備え、伸ばしたままの長髪は、より彼の特徴を際立たせていた。
 男とも女とも言えぬ――ただし肉体、性自認は男性である――はたまた、俗世にいることすら不思議な純粋さを持ち合わせた、稀有な人。もともとそうだったのか、この病室で過ごすことが多くなってからなのか。長い付き合いの私でもわからなくなってきたくらいには。
「梅雨入りしたよ。そうだ……ジメジメするんだから、髪を切ればいいのに」
「面倒でね」
「面倒、って」
 なんのことなく放たれた言葉は、羽のように軽い。
「今の僕には、身だしなみを整える意味がほとんどないから」
 今度は自虐が加わった。
「こうやって面会に来ているのに?」
 ザラつくようなそれが気に入らなくて、ほんの少しだけ語尾を強めた。
「君に今更、遠慮をする必要があるのかな。小さいころからの付き合いなのに」
 僕はしたくないなあ、と微笑を滲ませる。自分だけに向けられる、縋るような視線が痛い。痛くてずるい。
「締め切りは?」
 いつも通り、仕事の話題を出す。と同時に、そっと彼の動向を伺った。
「大丈夫。プロットを担当さんに送ったばかり。でも、それしかできなかった」
 それしかできなかった、という言葉の弱さはそのまま、彼の精神状態を表す。仕事は進んでいるはずなのに、これは相当弱っている。表情が固くならないように努めながら、絵を持ってきたよと声をかけた。
 さあ、いつも通りに。違和感がないように。例の「対処」を始めよう。
 鞄から小さな写真立てを出す。中には、絵画のポストカードが入れてある。
 本や音楽プレーヤー、ノートパソコン、メモ用紙や付箋のついた雑誌が散らばるサイドボードの、空いているスペースに手早く立てかける。いつだって、この瞬間は心臓が冷える心地だ。
「ありがとう」
 自分を見上げる視線が、いつもの解説をと促していた。
「ミレーの『オフィーリア』」
 ああ、と彼は言って、絵に視線を移す。
 テレビを好まない彼の娯楽は、本や音楽だけだ。絵の鑑賞は、興味はあれど出歩けない彼への提案の一つ。図録を渡すのも考えたが、彼は言った。額縁に飾ってあるのが見たいのだと。
「この女性……オフィーリアは、川に落ちたあと、歌いながら沈んだっていう話がある」
 ハムレット、と彼が言う言葉に頷く。
「僕はぼんやり読んでしまったからしっかり覚えていないけれど。愛に翻弄された女性だと僕は思った。非常に美しい死の表現だと言われてるらしいねえ。うん。絵も綺麗だ」
 小さな絵を眺めながら、彼はうっとりとした様子で語る。
「水葬もいいかもしれない」
 まるで明日着るシャツを選ぶような、気楽な物言い。私の表情はさらに固くなる。
「服が水を吸って、泥まみれの死の底に引きずり下ろしていく。歌いながらなのが特に気に入ってる」
 実際の溺死なんて悲惨そのものだけど、と小さく彼は付け加え、それを最後に黙った。
 能面のような横顔に、また髪がほつれて流れる。
 ああ、兆候が現れた。
 私は彼に手を伸ばす。ほつれていた髪に触れ、なでつける。
「沈むなんて、許さない」
 ベッドのきしむ音と共に距離を詰めて、片方の手は髪の毛をなでたまま、顔を近づける。
 ほんの少し、頭を引き寄せて軽くキスをする。離れてはいけないから、額をくっつける。
「……花輪を飾ろうとして川に落ちるような男だよ、僕は」
 目尻を下げて、困ったように笑う。
「そういう所も愛おしい」
 続く言葉の代わりに、髪の毛を優しく梳く。柔らかく、艶やかな感触は、彼の心根と似ている。
 お願いだから、と願いを込めて。
「僕が沈んだら、君はどうする」
「引き上げてみせる」
 ほら、今だって。
 頭から肩に、なでるように手を下ろす。わずかに力を込めて、彼の体を寄せる。少しだけ萎縮していた体が、柔らかくなった気がする。
 抱きしめて、体温を感じる。ほら、貴方は溺れちゃいないとささやく。
「……こりゃあ、力強い」
 あきらめたような、だがどこか楽しげな笑いと共に、彼は言った。
「自分をオフィーリアだなんて、三十路のオッサンの自覚はある? まったく図々しい人だ。昔から」
「手厳しいなあ、わかってるよ。身だしなみのできないおじさんだよ、僕は」
 私の背中に、彼の手が回された。身を寄せられて、今度は私が強く抱きしめられる。
「君が来ないから、少し寂しかったんだ。もう沈みたいなんて言わないから、いじめないでくださいな」
 腕の中で、彼がささやく。「いじめない」と言えば、フフ、と軽やかに笑った気がした。
 ずっと抱きしめているのもどこか照れくさくなって、どちらともなく離れた時だった。彼が「あ」と小さく声を上げた。私の腕をじっと見ている。視線に気づいた私は、とっさに腕を手でかばう。
「腕に包帯がある。まさか、また」
 心底心配そうな声に、油断するんじゃなかったと後悔する。だが、見られた以上は仕方がない。
「仕事での怪我」
 素っ気なく聞こえるように注意深く言う。「でも」と続ける彼の口を指で軽くふさぐ。
「……大丈夫なの? 痛いでしょう?」
「痛いのは当たり前だよ」
 私がそう苦笑しても、彼は「痛かったろう」と私の頭を撫でた。子どもみたいな仕草だけど、それが妙に彼には似合う。
 私は、心に浮かぶ気持ちを隠しながら――彼の手の温かさに、しばらく身をゆだねた。
 結果がどうあれ、私は今、彼といて幸せなのだ。
「ありがとう、愛してる」
 顔を上げて言葉にすれば、強い言霊になる。
「僕も、君を愛してる」
 小さく頷く彼の髪がさらりと揺れる。こんなに綺麗なのは、貴方が水に沈みそうになるオフィーリアだから? と泣きたくなる気持ちは、胸の奥に沈めた。
 一体、何回これを繰り返せばいいのだろうか。

 病室を出ると、彼の担当医師が私を待っていた。先ほどまでの幸福感はどこへやら、自然と顔がこわばり、仏頂面になる。
「いつも通り、記録に残させていただきました」
 感情の見えない声はいつものことで、そうですか、とこちらも平坦に答えた。

 オフィーリア病。溺死を衝動的にしたがる謎の症状が主だ。それが彼が入院している理由だ。

 水場にさえ近づけさせなければよい。だが、この衝動を無理に押さえつければ、それはやがて他人への攻撃にも変わる。私の傷は、先週彼に付けられたものだ。
 時折あの絵をわざと見せて、水に沈みたい衝動を煽り、それをパートナーである私の「愛情」で緩和する。
 そうすることが、彼を死なせない「対処療法」の一つだった。
「いつまでこれを続ければよいのですか」
 あんな茶番を。言いかけた言葉は飲み込む。
 根本的な衝動を抑える薬はない。衝動に駆られている前後の記憶は曖昧模糊としている。だから彼は、私の傷のことをよく知らないだろう。腕だけではない傷も、もちろん。
 回復傾向が見えたとたんに再発する。彼はそれを繰り返して既に三年経った。入退院を繰り返し、ここ一年は病室にこもりきりだ。
「男性のオフィーリア病者は世界で彼一人。解明されていないこともまだまだある。彼は発症当時、研究同意のサインをしている。それは彼のパートナーであるあなたも、承知のことだと私は認識しているが?」
 何度も説明された。何度も言われた。何度も。
 私と彼の病室でのやりとりも研究材料の一つである。当然、私も婚姻届と同時に同意書を書いた。
「彼は小説家だ。周りの理解もあり、この部屋にこもっていても、生活を続けられるし、貴方というパートナーもいる。あなたへのカウンセリングも怠っていないはずだ。今日もこの後、来て頂ければ」
 我々の治療とバックアップに、なにか問題でも。
 そう言いたげな医師の目を一瞬だけねめつけ、あからさまに逸らす。
「……後ほど、伺います」
 では、と医師は病室に入っていく。
 自分への暴力などもう今更どうでもいい。私は健康体で、きちんと処置をすれば治るのだ。だが彼は。
 発症してからの彼は、ままならない衝動と戦うために、空想の世界へ身を置くことが増えた。結果それは物語となり、作家になった。闘病する眉目秀麗の若手幻想文学作家――世間での評判はまずまずらしい。本当に見てもらいたいのは、彼の魅力的な「物語」だけなのだが。
 書き始めてからは、少しずつだが他害が減っている。だがそれは回復ではない。彼が全力を持って己の中のなにかを、物語として吐き出しているからだ。
 ただ吐き出したものを、世間に出してみないかと勧めたのは私だった。
 ――自分の不幸がわかっていないのは、一体誰なのだろう。
「己の不幸をわからないまま、沈ませはしない」
 そう誓ったはずだったのに。時間だけが過ぎて、沈ませないようにするのが精いっぱいで。
 いつまでも病室という名の額縁の中に閉じ込めておくのか、彼を。
 焦る私の心が、絶望という水を吸って底なし沼に沈んでいきそうだ。作家の彼の足元にも及ばぬことを考えながら、病室の前を去った。

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 彼が私との面会を拒否するようになったのは、それから数日後だった。
 彼から届いたのは「しばらく執筆に専念する」「君のことを愛している」という手紙。
 彼の衝動はどうなっているのだ。誰が彼を受け止めるのか。詰め寄った私に医師はこう言った。
「全ては彼が、書き上げたあとに」
 いつも通り感情の乏しい顔で告げた後、彼の身の安全はもちろん、ケアはこれまで以上にすると平坦に言われた。それで私が安心するのか、とさらに食って掛かろうとしたそのときだった。
「彼を、信じましょう。彼の言葉を受け取ることが、貴方がするべきことだ」

 それからというもの、彼から定期的に便りが届くようになった。
 企画が通った、執筆にてこずっている、なにもできない日もあった、一日気分よく進む日もある――内容はほとんど仕事の進捗と同一だったが、それはすなわち彼が死なずに生きていることを意味していた。
 私の送った便りの返事に、私への気遣い、そして最後に必ず「君のことを愛している」と書かれているそれを、私は抱きしめることしかできない日々が続いた。

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 彼女に何度謝ったって、なんの償いにもならないだろうと僕は思う。
 僕の病気、君の傷。さすがに自分の病気がどんなものか、知らない訳ではない。
 とにかく冷たく暗い水の中に沈みたい。どんな欲望より甘美な誘惑にすり替わるその衝動。それで頭がいっぱいになってしまう。空気のある地上が息苦しくて、なぜ入らせてくれないのかと、理不尽な怒りすら浮かぶ。
 特効薬はない。衝動が治まるのは、怒りを傷として彼女にぶつけてからだ。
 他人を傷つけてまで生きたくないと溺死を選んでも、彼女が文字通り体を引き揚げてしまう。朦朧とする中で見出だしたのは、衝動をそのまま文字にすることだった。
 沈みたいという甘美な欲望の見せる幻影と、収集した病の知識や女性たちの嘆きを基にした登場人物。己の中に住む暴力性と幼児性の暴露。そこに一筋の希望をパンドラの箱よろしく差し込んで描いた物語。
 物語を書くことと、医療的な措置、どちらも行うことで、毎日のようにふらふらと水辺に出歩くことは大幅に減った。
 しかし、だ。
 物語の出力は思いのほか上手くはいかない。内にある感情を言語化し整えるのには、技術を整えることや気力を維持するのが必要だった。だから衝動を完全に昇華するのは不可能で、病院に居るようになっても彼女を必要としてしまった。
 入院し、わざと絵を見せて衝動性をあぶりだし、彼女が僕を言葉と体のぬくもりで治めてくれる「対処療法」で僕は生きながらえた。彼女はそれを悟られぬようにと気を使っていてくれる――結果、それに甘えてしまう自分がいた。
 このままでは、彼女の人生を、時間を、いたずらに浪費してしまう存在にしかならない。
 不幸だと悲劇のヒロインを気取りたい訳ではないからこそ。
 だから僕は、貴方の時間を奪わずに生きていたい。僕にできることはなんだろう。苦しみから生まれ出る名前の付けがたいそれを、形にして綺麗に表したい。
 それが、物語の形になるのなら。
 たぶんそれが、僕が水の誘惑に背を向けられる方法だと確信しているから。
 

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 年月が過ぎ、彼の名で一冊の本が世に出た。
「オフィーリアの花輪」と題されたそれは、オフィーリア病に侵された女性の感じる世界を、美しく、儚く、だがどこか痛みを感じさせるように描いた連作集だった。
 最後に記された一編だけ趣が違う。女性とも男性とも取れる描写で表現された人物が語り手だ。
 その人は水に儚く浮かぶ花たる彼女たちの話を優しくすくい上げようとするが、水の重さや冷たさ、泥に足を取られ上手く花を手に出来ない。
 そのまま水の中に沈みたい衝動を抑えながらも、何度も花をつかもうとする。しかし手に入れた瞬間、力尽きて深く沈んでしまう。水をたくさん飲んでしまったそのとき、輝く手が引き揚げる。地上に戻ってきたその人が水を吐き出すと、それは花に変わった。
 苦労してつかんだ花と、吐き出した花を編み上げて、一つの花輪にしたそれを川に流すところで本は終わりを迎えていた。


 数年ぶりの川のせせらぎを聞きながら、私は彼の本を読み終えた。夏至である今日は、昼が長いから、空はまだ明るい。
 河原にあるベンチに座る私の傍らには、穏やかな微笑を浮かべた彼がいる。
「僕と繋がっていてくれてありがとう」
 彼の顔は歳を取らず、やはりどこか儚いままだ。綺麗に整え、ゆるくまとめた長い髪が、緩やかに風に揺れる。
「髪、切らないの」
「願掛け。髪を伸ばしていたら、君がそうやって叱ってくれるって思って。……切らなくちゃね」
 私は髪を弄びつつ、首を振った。
「ずっと待たせた罰。綺麗な髪の毛なんだからさ、手入れをさせてよ、大先生?」
 罰だなんて本当におふざけで。ただ、会えなかった分だけ、私が彼に甘えてみたかっただけなのに。
 大先生はやめてよ、と照れて笑う彼は、おもむろに立ちあがる。
「手を握っていてくれないかな」
 言われた通りに彼の手を握ると、川に向かって歩き始めた。
「原稿のラストシーンがなかなか書けない夜だった、ある夢を見たんだ」
 手を握る力が強くなる。
「夢の中で水の中に沈む僕を、君が引き揚げてくれた。そこまでは、何度も見る夢だった。だけど違った。夢の中の僕は、げえげえ口からなにかを吐き出すんだ。君が優しく背中をさすってくれるから、辛くても大丈夫だった。最初は飲み込んだ水かと思ったけれど、良く見るとそれは綺麗な――オフィーリアの絵にあるような花だったんだ。花は僕自身であり、沈みたい衝動そのものだった。だから、話の最後に花輪を流した」
 もう大丈夫。震える声の彼は恐る恐るしゃがむと、空いている方の手を川に浸した。

「さよなら、オフィーリア」
 
 浸した彼の手から、さらさらと花びらが流れた幻影が見えた。

 了

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