見出し画像

都市生活者の系譜 ―佐野元春私論(6) 通奏低音

魚座の宿命

佐野元春がニューヨークで制作し持ち帰ったアルバム「VISITORS」は今日でもその重要性を失わない特異な作品だ。このアルバムで佐野は83年当時ニューヨークでストリートから立ち上がりつつあったヒップ・ホップ、ラップをいち早く取り入れ、国際都市であるニューヨークで加速し鋭敏になっていた彼自身の意識から奔流のようにあふれ出した言葉を新しいビートに乗せてたたきつけて見せた。それはロックとヒップ・ホップをつなぐ先駆的な試みであり、抽象的で文学的な言葉をビートに乗せることで日常との有機的な連関を回復するアプローチであり、そして何より重要なことだがそれはロックとして、ポップ・ソングとして、あるいはダンス・ホール・ミュージックとして成立していたのであった。
しかし、この作品は決して佐野のそれまでの活動の延長として論理必然的に帰結されるものではなかった。もちろんそこにおけるアーティストとしてのアティチュード、サバイバルの意志、自らの表現やファンに対する誠実で真摯な姿勢、追求されるべき価値といった本質の部分では佐野は頑固なまでに一貫した態度を持っていたし、このアルバムがなければその後の佐野の作品もなかったと言っていいほど重要な作品であったことは間違いのない事実である。しかし作品のフォーマット自体は佐野が一年間ニューヨークに暮らしたことによってそのバイブレーションに大きく影響されたものであったし、その後の作品との関係から見ても、このアルバムは流れから途絶した唯一無二のもの、ワン・アンド・オンリーのものであったと言ってよい。この点について、佐野はこのように説明している。

「ニューヨーク病にうなされてたんだ。僕は魚座で、魚はその水が清らかであれば清らかになるし、濁った水であれば濁った身体になる、それと同じように、ニューヨークの空気に触れた佐野元春だなと思う、あのアルバムは」(前出「AS 10YEARS GO BY」)

その作品はいくら先駆的で画期的なものであっても、東京をホーム・グラウンドとする佐野の活動の中にそのまま取りこむにはいささか無理があったし、また、それが渡米前の佐野の音楽を支持してきたそれまでのリスナーに受け入れられるかどうかも未知数であった。佐野はこのアルバムで得た成果を、自らのキャリアの中に無理のない形で消化し、それまで自身が足場としてきたものの延長線上に着地させなければならなかった。
佐野は渡米前のツアーで信頼関係を築いていたバンドとともにロードに出る道を選んだ。それはニューヨークの無国籍な緊張感の中で制作された新しいアルバムを、より直接的で切実な日本での同時代性の文脈の中に自らの手で翻訳し位置づける作業であり、同時に佐野がニューヨークで手に入れたものをファンの前で直接披露することによって、彼らとの間に交わした約束を更新する作業でもあった。

VISITORS TOUR

このツアーで佐野は、それまでのレパートリーの多くを大胆にリアレンジした。ライブの冒頭で演奏される『WELCOME TO THE HEARTLAND '84』はヘビーなファンクにアレンジされた。『アンジェリーナ』も同様にスローなファンクに編曲し直された。デビュー曲であり初期の代表作でもあるこの曲をこのように歌わずにはいられなかったこと、それはニューヨークで佐野の中に起こった変化を思わせたし、そしてまたそれを僕たちに伝えようとして苦闘している佐野の姿を象徴してもいた。
渡米前の佐野はこの曲で「ニューヨークから流れてきた淋し気なエンジェル」のことを歌っていたが、それはあくまで局外者の目から見た楽観的なイメージとしてのニューヨークでしかなかった。ところが実際にニューヨークに住み、その街の抱える痛みやスピード、ダイナミズムに触れた佐野には、もはやこの曲をそのように楽観的に歌うことはできなくなっていた。かつてサーキット・シティを駆け抜けていたティーンエイジャーは、今ニューヨークの街の痛みに立ち止まり、その街に通奏低音のように響く重苦しいヘビー・ファンクに乗せて、絞り出すようにシャウトするしかなかったのだ。
佐野は、そのようにして過去の曲の一つ一つを洗い直した。『夜のスウィンガー』はモータウンふうのダンス・ビートにリアレンジされたし、『ナイト・ライフ』はよりファンキーに、ハネたリズムで演奏された。一方でアルバム「VISITORS」からのナンバーは原曲に近いアレンジで披露された。それはアルバム「VISITORS」と渡米前の作品とを合わせて一段高い次元で止揚するためのステップだった。そうして一体となった新しい佐野元春のロックンロールを、佐野は会場につめかけたリスナーに示そうとしたのであった。
後に『Shadows Of The Street』で歌われることになるロン・スレイターの遺髪をお下げのようにつけ、モニター・スピーカーに片足をかけてギターをかき鳴らす佐野、その姿には鬼気迫るものがあった。佐野はニューヨークでつかんだものを何とか日本のリスナーと分け合いたかったのだし、それをひとときの熱としてではなく自らの新しい表現の重要な一部として、血の通ったものとしてあるいは地に足のついたものとして消化し、自分を取り囲む日本の音楽状況や社会状況といった「時代」そのものの中にきちんと位置づけなければならないということを強く感じていたはずだ。佐野はニューヨークで得たもの、感じたものを日本の状況と接続し、接地させるべく全国をツアーし続けた。

若き血潮

そうしたトライアルを続ける中で、佐野が帰国後初めて発表した新しい曲がシングル『Young Bloods』である。85年1月、ツアーのさなかにシングルとしてリリースされたこの曲は、アルバム「VISITORS」のヘヴィなファンク、ヒップ・ホップから一転し、ソウルフルではあるがブラス・セクションとストリングスが流麗に絡み合うスマートなビート・ナンバーであり、ニューヨークで得たシリアスでヘヴィな現実認識が渡米前の楽観的でフレンドリーなビートと融合した佳曲である。この曲にはスタイル・カウンシルの『Shout To The Top』に似ているとの批判もあり、佐野元春の新しいロックンロールはまだ始まったばかりに過ぎなかった訳だが、ともかく佐野がこうしたフォーマットを「『VISITORS』以後」のスタートに据えたということは重要な事実であった。
この曲で佐野元春は「偽りに沈むこの世界で/君だけを堅く抱きしめていたい」と歌う。それはまさにニューヨークで獲得した世界認識を核にしながら、そこから帰還し、今、再びこの日本という国で彼を支持する多くのファンとのコミットメントの中にこれからの新しい立脚点を探して行きたいという意志の表明に他ならなかった。ニューヨークの熱をクールダウンし、地に足をつけて「『VISITORS』以後」をスタートしようとするこのシングルのジャケットには、アーティスト名義として「佐野元春 with The Heartland」と誇らしげにクレジットされていた。

ツアーは、5千人から1万人収容のアリーナをまわった「スペシャル」を含め、84年10月から翌年5月まで8カ月にわたった。この長いロードで佐野は、バンドとともに新しい佐野元春サウンドを作り上げようと苦闘し、会場を埋めたファンと直接コミュニケーションを交わそうと試みた。佐野はかつて交わした約束がまだそこにあることを確認し、その上に立つ新しい約束を取り交わそうと歌い続けた。
こうした営みの中で佐野は、はじめ手の中でバラバラだったいくつかの断片が、次第にひとつの形を現し始めるのを見たはずだ。渡米前の三枚のアルバム、約束、ロックンロールの系譜、佐野クローン、ニューヨーク、ファンク、ヒップ・ホップ、帰国後の混乱、ツアー、バンド、ファン。それらがパズルのように一枚の絵の中にぴたりとはまって行く瞬間。その最初の結晶がシングル『Young Bloods』であったとするなら、それはさらにツアーの中で試され、鍛えられ、最終的にツアーの成功という形で結実したのに違いない。アリーナ級の「スペシャル」ツアーを成功させた佐野元春は、「次」へと踏み出す足がかりをそこに得たのだった。

この年、佐野はもう一枚の作品をリリースしている。12インチ・シングルのフォーマットでリリースされたクリスマス・ソング『Chiristmas Time in Blue』がそれだ。この曲は佐野の数少ないクリスマス・ソングとして重要であり、また同時に楽曲としての完成度も極めて高いチャーミングな名曲だが、曲のメイン・パートを終わらせた後、佐野はこの曲に長い長いリフレインを付け加えている。「愛している人も 愛されている人も」で始まるこのリフレインは、延々と世界中のあらゆる人に対してクリスマスを祝福し、バラの輪を作ろう、今夜はきっとうまく行く、と結ばれるのだが、それはニューヨークから帰国し、コミュニケーション・ギャップの中でハード・タイムスを過ごした佐野が、バンドとのツアーの中で徐々に自分の中に自分のイメージを取り戻したその1年を総括するための祝福だったに違いない。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?