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都市生活者の系譜 ―佐野元春私論(2) 逆境のヒロイズム

ロックンロールとインテリジェンスの婚姻

前回は佐野元春が日本のポピュラー・ミュージックに何を持ちこんだかということを見た。ここではそれがどのようにリスナーに受け入れられ、どのような約束として結実して行ったかということを考えてみたい。

佐野が日本のポピュラー・ミュージックに持ちこんだもの、それはリスナーの側からいえば、ロックンロールとインテリジェンスの婚姻に他ならなかった。それまで日本では、ロックンロールという言葉には常に革ジャン、バイク、リーゼントといったマッチョで暴力的なイメージがつきまとっていた。
佐野はそうしたステロタイプなロックンロール観が主流であった当時のシーンの中で、手垢にまみれた言葉をひとつひとつ拾い上げてはそのほこりを払い、その内実を丹念に洗い直して彼のビートに乗せた。幅広い音楽的なバック・グラウンドの中から、コンテンポラリーなスピード感、情感にフィットするものを探し、リアルな都市生活者のブルースとしてコラージュした。そうした作業の中で佐野とリスナーはロックンロールが決してただのやかましい音楽ではなく、まさに都市生活のために必要なビートを備えた生きた知恵であることを確認していった。それはロックンロールの再発見とでもいうべき営為であった。
その結果、ロックンロールはもはや単なる音楽のフォーマットを表す言葉であることをやめた。佐野によってロックンロールは、その背後にある社会的、文化的な広がりをも示すある種のアティチュードの名前となったのであり、多義性、重層性を備えた広がりのある「概念」と呼び得るものになって行った。それはロックンロールとインテリジェンスの婚姻であった。
そうして成立した新しいロックンロール概念は、自分を取り巻く世界に確かな異和感を抱きながらも、ストレートにドロップ・アウトするほど落ちこぼれてはいない普通の高校生や大学生、つまりそれまでマッチョなロックンロール概念によって疎外されていた層に受け入れられることになった。それは、都市という新しい環境で個として自立しようとする自覚的でインテリジェントな新しい子供たちにとってこそ必要とされる音楽だったのだ。

逆境のヒロイズム

だが、佐野の音楽は決して最初から広く受け入れられたのではなかった。それはスタイルにおいてそれまでのニュー・ミュージックと大きくかけ離れていたし、レコード会社や所属事務所も佐野の音楽の特質をよく理解し、ターゲットになるリスナーを的確に把握して戦略的なプロモーションを繰り広げたとはとても言い難かった。ファースト・アルバムも決して高い評価を受けた訳ではなかった。そんな恵まれない情況の中で、佐野は姿の見えない潜在的なファンに向かってひとりシャウトしなければならなかったのだ。
だが、セカンド・シングル『ガラスのジェネレーション』をきっかけにして情況は少しずつ変わり始める。活動の基盤になるバンドのメンバーを固め、ハートランドと名づけた佐野は、そのバンドとともに新宿のルイードで毎月一回のライブを始めたが、そのライブにはこの曲を聞きつけたリスナーが回を追う毎に数を増してつめかけるようになり、佐野に熱狂的な声援を送った。ここで得た評判をてこに、佐野は全国のライブ・ハウス、学園祭、イベント、そしてついには公式のホール・ツアーと、瞬く間に動員を獲得し、知名度を上げて行く。そのきっかけとなった『ガラスのジェネレーション』に、彼のリスナーはいったい何を見たのだろうか。
結論からいえばそれは無垢のありかを探す長い道のりの始まりだったのであり、本当の真実を希求する魂の遍歴の端緒であった。しかしそれはもちろん今だからこそ言えることであり、当時佐野を支持し始めていた若いリスナーたちがそのことを正確に理解していた訳ではない。むしろ彼らは無垢の現前を、真実の存在を楽観的に信じていたのだし、佐野がはじめ、そのように無前提に無謬な若さの守護者として単純に理解されていた側面のあったことは否定できない事実であると思う。
いや、こんな物言いは無責任に過ぎるかもしれない。なぜなら、無前提に若さの無謬を信じていたあまりにナイーブなティーンエイジャーとはこの僕自身に他ならないからだ。佐野が「つまらない大人にはなりたくない」と言い放ったとき、当時の佐野自身の内にどのような覚悟があったのか僕たちには知る由もないが、そのフレーズが僕たちを打ったのは、学校や教師、親、社会、政治、そうしたシステムの総体としての「世界」に対して僕たちが抱いていた異和感にそれがぴったり同期したからだ。
そこにおいて「無垢」とは自動的に僕たちが手にしているものであり、「真実」は今はシステムの手によって巧妙に隠蔽され奪い取られているが、本来は僕たちの側にあって、いずれは正当な手段を通じて回復されるべきものであった。だから佐野の「つまらない大人にはなりたくない」「奪われたものは取り返さなければ」というスローガンは僕たちに魅力的に響いたのだ。
それは僕たちの逆境のヒロイズムに、まるであつらえたみたいにぴったりとフィットした。『ダウンタウン・ボーイ』で佐野は「すべてをスタートラインにもどしてギヤを入れ直してる君」のことを、「たったひとつだけ残された最後のチャンスに賭けている」「くわえタバコのブルーボーイ」のことを歌っている。僕たちは、僕たちを追いつめているものの実体を彼岸にある「世界」の側に見出し、それと対置する形で自らの潔癖さを保とうとしていたのだったが、こうして佐野が提示したイメージはそのような僕たちの自意識や自己愛を激しく揺さぶったのだ。

ロックンロールの奇跡

もちろんそれは、自らの無謬を無批判に前提することで成り立つ稚拙な二元論的世界観であった。僕たちは逆境に耐えるヒロイズムに自分を投影しているだけのナイーブなティーンエイジャーに過ぎなかったし、そこでは何かを守るという行為の美しさの方が守るべき対象そのものよりしばしば重要でありさえした。守られるべきもの、「無垢」の内実が厳しく批判的に検討されることは稀であり、「真実」は取り返されるべきものでありながらその実体は曖昧で、「真実」を回復するための闘いそのものがある種のロマンティックな「真実」にすり変わっていることに僕たちは無自覚だった。あまりに多くのものが楽観的に、ナイーブに自動化されていたし、なんの根拠もなく信用されていたのだった。
だが、だからといってそのような「甘ったれた逆境のヒロイズム」は頭から否定されるべきではないと思う。なぜならそれはロック表現の最も重要なテーマのひとつであり、そのためにこそロックが存在しているのだとすらいってもいいほどの大切なモメントだからだ。なぜならそのような甘ったれを胸に佐野元春を聴いていた17歳の僕を僕は肯定したいからだし、そのような何年かを通り過ぎたからこそ僕は今、佐野元春について何かを書きたいと考えているのだろうからだ。
大人たちの話す理屈は巧妙でシステムは堅固だ。それらは僕たちがちょっとやそっと飛んだり跳ねたりした程度ではびくともしない。稚拙なやり方では太刀打ちできない。でも、16歳や17歳の僕たちにはそのように言い聞かされても抑えることのできない、理由のうまく説明できない苛立ちや怒りが確かに存在するし、僕たちはそれを何とか処理するべき具体的な必要がある。
そんなとき、僕たちはビートを手にするしかない。ロックンロールはそんな必要を満たすために生まれた。そしてそれは時として、理屈を経由せずにシステムを痛烈にビートしてきた。僕たちはそのような瞬間を何度も目にしてきたし、それがたとえ朝になれば跡形もなく消えてしまうひとときの幻でも、あるいは所詮何の社会的な責任も負わない駄々っ子の戯言でも、いや、だからこそ、そこに一瞬の奇跡が宿るさまを僕たちは熱狂的に迎え、希求してきたのではなかったか。
そのように考えるとき、僕は17歳の僕の甘ったれた逆境のヒロイズムを笑い飛ばすことができない。そこに僕が見た真実は、いかにそれが身勝手で一方的なものであったにせよ、その時の僕にとって幸福な真実そのものだったのであり、そのようにして自分が何かを信じていたという事実を肯定することなしには、今の僕が僕である理由すら僕はどこにも見出せないのだから。

佐野はそのようにして僕たちのロマンチシズムをキックした。それが佐野と僕たちとの最初の約束だった。だが、そのように潔癖で幸福な十代はいずれ終わりを告げる。僕たちはやがて自分と自分を取り囲む世界とが網の目のように複雑に結びついていることを知るだろう。自分が考えたほど「善いもの」と「悪いもの」は画然と区別できないということを知るだろう。多くの不完全な人間たちがそれぞれ必死に行きようとしている中で不完全な自分を見るとき、自分一人を無謬だと仮定して、その安全な場所から他人の不完全さを指弾することの虚しさ、無意味さを僕たちは悟るはずだ。そして、若い僕たちを夜の闇の中に追いつめていたのは、学校や教師や社会ではなく、自分自身が成長してそのような曖昧さの中に回収されてしまうことへの畏れだったということに気づいて行くのだ。
僕たちが佐野と交わした約束は、そのようなリアルな現実の中で試されて行くことになる。そして、佐野のロックンロールは、むしろそのような試練の中でこそ輝きを放つことになるのだが、それは次章以降で語って行くことになるだろう。

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