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都市生活者の系譜 ―佐野元春私論(3) イノセント

ある光

佐野元春の音楽活動の中で、「無垢」や「真実」は繰り返し言及される極めて重要な概念である。これらについてもう少し考えてみよう。
アルバム「SOMEDAY」に『Rock & Roll Night』という曲が収録されている。8分以上にわたる叙事詩的な大作であり、佐野元春の代表曲のひとつだが、この曲で佐野は、「真実を探す旅」のことをいつになく直接的に歌っている。
「彼女」が「幼い頃どこかで見たことのある川」で迎える「まるで昔のよう」な「夜明け」、今は散り散りになった「友達」が「子供のように」「みつめて」いる「同じ幻」、そして「瓦礫の中のGolden ring」。大サビで「今夜こそたどり着きたい」と歌われる「場所」も含め、この曲はそんな「どこかにあるはずの真実」や「かつてはだれもが手にしていた子供のような無垢」のイメージで満たされている。
それでは佐野元春はそうした「真実」や「無垢」を手にすることができたのだろうか。大サビの直前、佐野はこう問いかける。「フッと気づけば みんなこの街にのみこまれたプリテンダー どんな答をみつけるのか どんな答が待ってるのか」と。
結論から言うなら、佐野は、そして僕たちはそのような真実を手にすることはできなかった。それはすぐそこにあるように見えながら、僕たちは結局それをつかむことができなかった。なぜなら、先にも述べた通り、僕たちは本質的に不完全で有限な存在に過ぎないからだ。「真実」や「無垢」は時折さまざまなものの形を借りて僕たちの前に一瞬だけその姿を見せるかもしれない。僕たちはその残像のようなものを目にし、その記憶を頼りに生きて行こうとするだろう。そのありかを探し、確かなものを手にしたいと願うだろう。だがそれは所詮虚しい営為でしかあり得ない。本質的に不完全で有限な僕たちが確かな「真実」や「無垢」を手にできるということ、それはそもそも語義矛盾であり、もしそれが可能であると考えるのだとすれば、それは傲慢な思い上がりや錯覚に他ならないのだ。
佐野はこの曲に長い長いアウトロを加えている。大サビが劇的に終わった後、リムショットをガイドにしながらいつまでも流れ続けて行く静かなピアノの悲しげなメロディ。それは「真実」や「無垢」の残像を確かに焼きつけながら、確かにそこに「ある光」を見ながら、しかしやはりそれをつかむことのできなかった僕たちの宿命に対する子守歌であり鎮魂歌に他ならない。佐野はそこで-少しばかり大げさに言うなら-人間存在の有限性、不完全性を認識せざるを得なかったし、そのような苦い感情を抱いたまま眠りにつく他なかったのだ。佐野はアルバム「SOMEDAY」をこの痛々しい『Rock & Roll Night』のアウトロで終わらせることができず、急遽『サンチャイルドは僕の友達』をレコーディングしてアルバムのラストに置いたという。
佐野が多くの曲で「真実」や「無垢」を希求しているにもかかわらず、「真実はオレたちのものだ」と歌ったことが一度もないのは象徴的だ。例えば『スターダスト・キッズ』では「本当の真実がつかめるまでcarry on」と歌っているし、『SOMEDAY』では「まごころがつかめるそのときまで」と歌う。『SOMEDAY』という曲については後であらためて書くことになるが、佐野は「真実」や「無垢」を円満に手にしたと宣言したことは一度もないし、だからこそ佐野はこれまで歌い続けてきたのだ。
だが、そのような人間存在の有限性、不完全性を前提とするとき、それでは「真実」や「無垢」を求めて歌い続けることの意味はどこにあるのかという疑問が生じる。それらが所詮僕たちの手にできないものであるならば、そのようなものを希求すること自体が無意味なのではないかと。
それは「僕たちは何のために生きているのか」と問うのと似ている。それに僕はこう答えたい。仮に僕たちがその有限性、不完全性のゆえに「真実」や「無垢」を円満に手にすることができないのだとしても、僕たちはそうしたものの存在に思いをはせ、何かの機会に一瞬だけ姿を現すそれらの残像や記憶だけを頼りに生きて行く他はないのだ、と。もし、だれかの言うように「生」そのものが所詮虚しい営為に過ぎないのだとしたら、だからこそ僕たちは、今ここにある冬の日だまりの暖かさに、月の光の透明さに、ささやかな幸せを見出さない訳には行かない、そこにあるべき「何かいいこと」を信じない訳には行かない。佐野はもちろんそのことに自覚的だ。自覚的でありながら、それでも「真実」や「無垢」の残像に目を凝らしてそのありかを見定めようとする佐野の視線にこそ僕たちは信頼してきたのだ。

自分自身を引き受けること

そのような「真実」観、「無垢」観を佐野元春の音楽の根底にあるものとして、あるいは佐野とリスナーの間の「約束」の核心にあるものとして承認するなら、次にその「真実」や「無垢」というものへの「希求」を引き受けるべき「自分」のあり方について考えない訳には行かない。なぜなら僕たちが「生」の意味を問うとき、そこには自らの「生」を主体的に引き受けるべき「自我」の存在が前提されているからであり、同じように「真実」や「無垢」を希求するとき、そこにはそれらと対峙するべき成熟し、独立した「個」の領域が要求されているからである。
ではそこにおいて要求される「個」とはどんなものだろうか。それは僕が第1回で論じた「都市生活」の本質と深く関わっている。オートマチックに提供される共同体的な人間関係の「ぬくもり」をよりどころとせず、自分が何者であるかということに対して常に自覚的に対峙し、そこに自分を起点とする価値体系を自ら構築すること、そしてそこに必然的に生じる本質的な孤独や自由の背後に潜む悪意やリスクをも引き受けること、そのようにして自己決定と自己責任という表裏一体のシステム、即ち「自由」を主体的に受容すること、それが都市生活の中で求められる「個」というものの本質的な契機である。
言い換えればそれは、「宿命的に引き受けざるを得ない孤独の本質を、生ぬるい共同体の中で慰め合うことによって克服できるという根拠のない幻想」を拒絶する強さを「自分」の中に持つことだ。日常生活で「一人では何もできない者どうしが寄り集まって」と揶揄されることは多いが、実際僕たちの多く、いや、ほとんどみんなは「一人では何もできない者」である。問題なのは「一人では何もできない」ことではなく、その無力感を集団の中に解消しその力を借りてあたかも自分が何者かであるかのように錯覚することで安心しようとするか、それとも「一人では何もできない自分」をあくまで自分自身で引き受け、自分自身の力で支えて行こうとするかということなのではないだろうか。

次作「VISITORS」以降、佐野元春の表現は「真実」や「無垢」そのものをテーマにするよりは、それを受容するべき「個」のあり方に興味の中心を移して行くことになる。そこには、「真実」や「無垢」をめぐるテーマの多くが結局は「個」のあり方に関わるものではないのか、何かの原因や理由を「他のだれか」や「何か」に求めるよりは、そこに向かい合う「自分」の内側に探すべきなのではないかという認識があるように思われる。こうした認識を基礎にして佐野は表現の方法論を深めて行く訳だが、それは同時に明快な答の存在しない問いを自らに対して発し続けるという極めて困難な旅でもあった。

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