バトンが落ちる不安

今日はマーチングバンド、バトントワリングの全国大会(ジャパンカップ)を見てきた(娘がマーバンをやっている関係)。

娘の出番の前のバトンの部門(小6)を見ていたけど、道具と体の関係を考えるキッカケになった。

バトンの演者は体を使いバトンを回しながら演技をしていく。腕や肘、あるいは肩や首など、様々な部位を使ってバトンを生き物のように操る。それを見ていると身体と道具の一体化を感じる。

バトントワリングの見どころの一つは、演者がバトンを高く投げ、バトンが空中にある間は振り付けを行い、落ちてくるバトンをしっかりとキャッチする場面であろう。

回転しながら落下するバトンを受け取るのには鍛錬が必要で、繰り返し練習してきた成果が現れる。見事にバトンをキャッチすると、場内からは拍手がおこる。しかし、バトンをキャッチできないこともしばしばある。

このバトンを落とすシーンをみると、私はなんというか不安になる。それまで体の一部だったものが、ポロッと落ちてしまう感じがするのだ。

痛みは別として、歩いているときに、突然、腕が体からとれてしまい、その腕を見たらきっと同じ気持ちになるだろう。

道具を操るというのは、その道具を体の一部にするということで、操られた道具は使い手の身体を拡張させる役割を果たす。それと同時に道具によって体は拘束され、自由に動くことが難しくもある。

ところが、不思議なことに、不自由であるはずの動きが、自然に見えることがある。バトンを操る動きは日常で目にすることはないはずだが、演者の動きはとても自然で、バトンと一体化しているように見えるのだ。

バトンの落下は、その中で起こる不自然さであり、不安である。もともとあるものがそこになくなること、自由が失われることは、どうも不安を引き起こすもののようだ。

高く投げ上げられたバトンを見ながら、ふとこんなことを思った。

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