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ペルソナ5R フィクションというシェルター

三学期シナリオは追加シナリオながら、元の無印シナリオを大変見事に補完した素晴らしいエピソードである。

そして同時に、プレイし終えてしばらくした後、マイパレスでラストバトル曲のタイトルが「Throw Away Your Mask(仮面を投げ捨てろ)」だと知った時に「アレ?」となったのである。

当然のことながらP5関連作品諸々のネタバレ前提でお話するので注意。

【PQ2の映画館】

このPQ2はP5無印とP5Rの間に発売された作品で、ラスボスの目的もちょうどヤルダバオトと丸喜の中間的な感じになっている。

脱出できない映画館に閉じ込められた少女「ひかり」を助けるため、元の自分たちの現実へと戻り使命を果たすため、ペルソナ使いたちは迷宮を駆け巡り「映画」という形で投影されたひかりのトラウマを癒し、ついに彼女は映画館を飛び出すことができた。

その時、映画館の支配人にして今までひかりを母親のように慈しみ見守ってきたナギは彼女の門出を心から祝福した。

だがそのナギこそが本作のラスボスであり、人々の意識を映画館の中に閉じ込めて辛い現実に直面させないようにすることを目的とする、ヤルダバオトやイザナミノオオカミやクロノスとはまた違った、人々の集合的無意識が作り上げた「神」と呼べる存在だったのである。

【フィクションは辛い現実からの緊急避難場所となる】

PQ2の映画とは、つまるところコレである。
しかし同時にこの映画は映画館に囚われた者のトラウマも投影されており、むしろ逆に直面して対決し克服することこそがもっとも望まれている形でもある。
このあたりは、ヤルダバオトにも丸喜にもない厳しさという名の優しさが若干ある。
まぁ大多数の人々は自分の殻に閉じこもって出てこれなくなり「自分から出たくない人まで出そうとするのは独善」とナギは反論していたのだが。

※※※

またさらに前作のペルソナQも挙げるが

こちらもまた、辛く理不尽な現実を直視できない少女の(そして戯れの)ために「文化祭」という幻の迷宮が作り上げられていた。

ここに囚われた玲は確かにあまりにも長く囚われすぎていたが、しかしこの「文化祭」とそれをもたらした者の慈愛が無ければ救われなかっただろう。
同時に、この迷宮から抜け出すよう手を差し伸べたペルソナ使いたちの「辛い現実であろうと直面して対峙する」スタンスが無ければ、やはり救われなかったであろう。

※※※

P5Rでアダムカドモンとの最終決戦に勝利した後、

僕は確かに、元の現実から逃げた
けどそれの、何が悪いんだ!
辛いなら、苦しいなら逃げたっていいじゃないか…!

と叫んだ丸喜に対して、芳澤は「先生には感謝しています」と言い、モルガナですら彼を全面否定はしない。
実際芳澤は丸喜先生の施した療法がなければ、たった一年であのような酷なトラウマを克服などできなかっただろう。
ジョーカーの助けがあってこそ芳澤は立ち上がることができたので全てが丸喜先生の功績ではないが、逆に言えば心の怪盗団のやり方では芳澤のような少女は助けられなかった。

ようするに、丸喜先生の掲げる「幸福な現実」は恒常的にしてはいけないものだが、一時的な心の緊急シェルターとしては理想的なモノなのである。
シェルターを用意してくれたラスボスと、そこから飛び出すよう手を差し伸べる主人公たちという構図は、PQ二作とP5Rに共通しており「どちらのやり方が正しいかではなく、どちらも必要なモノ」と定義していい。

そして思うに「幸福な現実」とはメタ的に見れば何を隠そうこの「ペルソナシリーズ」そのものが丸喜先生の掲げる「幸福な現実」なのではないか。

【ジュブナイルRPGの金字塔】

ペルソナシリーズをこう評しても、さほど反論はないと思われる。
とくにP3以降の大幅な方針転換後は、青春を駆け抜ける少年少女たちの爽やかさと苦さが相い混じった波乱万丈物語となっている。

とくにP4では「八十稲羽から出たくない」と思ったプレイヤーがたくさんいたという。
頼りになる愉快な仲間たちや、コミュニティを築いた地元の人々。
そこから離れて有るべき場所へと帰らなければならないというのは、確かに苦痛が伴う。

だが、ペルソナシリーズは毎回EDで「これまでの日常は終わって、新しい日常が始まる」と容赦なくプレイヤーと主人公を突き放す。
どんなに居心地が良い場所であろうと、このフィクションを終えて現実に還れと言わんばかりである。

【居心地の良い日常が永遠に続けばいいのに】

P5シナリオはループ説がある。

最後の自由行動で街の人々に挨拶周りできるのはペルソナシリーズ恒例だが、P5では「セーブデータの管理」は「主人公が書いている日記帳」という形になっており、この日記帳を居候先の保護者である佐倉惣次郎に返却するか否かの選択肢があるためである。

二週目を開始すると再び主人公は囚われの身となり、佐倉惣次郎から日記を手渡されることになる。
二週目データ引継ぎでアレコレ充実しているのでこの日記に上書きするのは、確かにループ的なモノを感じさせる。

ただ、私的にこの説はただ上手いことそういうシチュエーションになっただけであり、別にループしているわけでもなんでもないと思っている。
なんとなればせっかく解放させた主人公を、プレイヤーの「二週目を遊びたい」という欲望のために再び囚われの身に投じさせる後ろめたさがそう思わせて流布させているのではないかと。

【操り人形であることに反逆する明智】

自分は獅童の操り人形であったと、怪盗団との敗北後に明智は思い知らされることになる。

望まれない私生児だった明智は承認欲求が強い少年に育ってしまった。
その結果、私利私欲のためだけに力を使ってきたつもりで、結果的には父親や大衆にとって都合の良い道化師で操り人形でしかなかったのだと、追い詰められた時に知ってしまう。

頭が切れることは間違いないのでおそらく、無意識下ではとっくの昔に気づいていたのだろう。
だからこそ大人や世間の評価に惑わされず腐らずに反逆の翼を広げて自由にはばたく怪盗団、とくにジョーカーを嫌い執着する。

※※※

そんな彼が丸喜先生の作った『幸福な現実』を拒否した理由は「誰かに踊らされるのはもうごめんだ」という自由意志を掲げたからである。

だが、ペルソナシリーズがジュブナイルRPGの金字塔であり、そこから抜け出すことを拒否するほどに魅惑的な青春の世界があり、それがアトラススタッフの作った虚構であり、プレイヤー側もループに囚われているのではと思うほどの沼だというのなら、この明智吾郎の「僕は操り人形でいるのはもうたくさんだ」という反逆意思はプレイヤーに操られる主人公の代弁とすら言えるのではないか。

【サブカルという理想郷】

えいえんはあるよ、ここにあるよ。

ONEでの「永遠の世界」はエロゲーギャルゲー、ひいてはサブカルコンテンツ全てを意味するものではないのかというメタ的な説は根強い。

ONEがリメイクされるとはいえあまりにも古すぎるネタなので通じない人も多いだろうが、いわゆる「なろう系」の「チート転生」もある意味では辛くて理不尽な現実世界からの避難場所として認知されていると言っても良いのではなかろうか。

そこまであからさまでなくとも、季節ごとに新アニメ放送が始まれば「脳みそ空っぽにして見ることのできる癒し系の萌えアニメ」が一本くらいは混じっていないと不安になるオタクも少なくないだろう。

誰も傷つけず、傷つかずに済む世界。
自分がないがしろにされない世界。

それを「甘ったれ」「現実逃避」と糾弾するのはたやすいが、それこそONEが発売された前世紀と比較すればサブカルコンテンツはどんどん一般層にも浸透しており、やはり社会的需要が満たされている証左であろう。

※※※

重ねて言うが、丸喜先生の『現実』は怪盗団も全面否定していない。
ペルソナシリーズをプレイすることで、一時的に波乱万丈のジュブナイル世界で「主人公」という仮面を被って勇気や希望を貰い、現実世界でそれを両の足に込めて立ち上がり歩んでほしい。
P5Rの三学期シナリオとは、ようするにそういう意味を込められているのではないのだろうか。

「Throw Away Your Mask」は歌全体を聴けば「もうペルソナで心を鎧わなくていい。この優しい世界では君が君らしくいられる」と歌われているのだが、タイトルだけで見れば「もうここでお前がプレイしているペルソナを投げ捨てろ」という意味に取れる。
というか初見でそう思った。

大体ペルソナシリーズはP3のラストバトル曲で既に

Spit it out the son / game's over

Burn My Dread Last Battle

と、プレイヤーに「このゲームはもうおしまい」と最後通告してくるようなシリーズなので今に始まった話ではない。

【偶像と一角獣】

三学期でのお願い怪盗CHに寄せられた終盤の依頼がこれである。
ざっとした内容は「ドル沼にハマった父親を元に戻してほしい」というずっこける代物。

ただ、この依頼は「フィクションを一時的な緊急避難場所にする」が三学期の裏テーマだという私評の眼で見ると、別の意味が浮上してくる。

※※※

この依頼のターゲットになるおじさんは家庭に居場所がないため、地下アイドルにドハマりして貢ぎ込んだダメ親父である。
あまりにも心血注いでいるためか、当のアイドルご本人に心配までされる始末である。

アイドルに限らず、ホストにホステスや、萌え系美少女からなんやらに至るまで、ファンや主人公=プレイヤーに優しいのはそうすることで見返りにお金が彼ら彼女らの懐に入るからである。
別にこれは悪いことでもなんでもない。れっきとした商売であり、そういう暗黙の契約の下にある代物なのだということを互いに理解していれば、正当な取引だからである。

ただ「お父さんが心配」と怪盗団に助けを求められる程度には、このダメ親父にはちゃんと現実世界で取り戻せる居場所があった。
その居場所を実際に掴むためには、今まで目を逸らしてきた都合の悪い事実や面倒くさい手間を引き受ける必要があるのだろうが、幻想に逃避するばかりではなくどこかで現実に折り合いをつけなければいけない。

※※※

この依頼で改心したダメ親父のシャドウは推しアイドルの「リリにゃんに恥ずかしくないよう生きる」と言って現実の自分に戻る。

怪盗団メンバーには「ファンはやめないのかよ……」「まぁ度を過ぎなければ推しに罪はないからな……」と呆れられたがやっぱり全面否定まではしない(とくにオタクの双葉はかなり同意寄り意見)。

※※※

ようするに、三学期シナリオは「偶像や幻想に入れ込むのは悪くない」と受け入れており「でもそこを逃亡先にして留まってはいけない」と、尻を蹴っ飛ばしている。

考えれば、ゲームというコンテンツは「自分以外の理想の誰かになる」という体験を提供しやすいモノなのだ。
それを逃避先に選ぶのは先述したが昨今の異世界転生系作品を鑑みれば、反論の意見は少ないかと思われる。

でもだからこそ、ペルソナスタッフはプレイヤーを「ゲームを逃避先にするな」と突き放す。
また、実際的な話にしても、適切な距離で長く付き合ってくれるファンと入れ込みすぎて暴走するファンなら、前者の方が結局利益になるのである。
なんとなれば「個人を絞り尽くしてポイ捨てする」搾取方式の利益の上げ方は反感を買い、最後には成敗されてしまうものなのだというのがそもそもP5の基本シナリオなのだから、入れ込みすぎるファンを諫めるメッセージは当然の帰結とも言える。

【まとめとして】

ゲームでありながら、ゲームを否定するゲームというのは結構ある。
そもそもP5無印のラスボスは「げに愚かしき怠惰な大衆」であり、そういう連中に媚を売ってお金を出して貰わなければいけない商売というのがサブカルコンテンツの創作側、提供側のジレンマでありストレスの溜まる所であろうというのは、受け手側の私ですら察するに余る部分がある。

でもだからこそ、需要と供給が成り立っているのなら、提供側も受け手側も健全な態度で取引するのが一番なのだ。
悪辣な商売はやがて槍玉に挙げられ、健全な取引をしていた同業者すらも巻き込み市場全てを焼き払う事態になりかねない。
これはファンだけでなく、ゲーム制作会社であるアトラスにすらも自戒が含まれているメッセージであり、ある意味ではフェアなファンとの「取引」なのだ。

とどのつまり、私がアトラスに言いたいことは「世界樹シリーズ再興しねーかな……ちゃんと買うから」ということである。
いやペルソナも好きだけど一番好きなのは世界樹……。

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