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第10話 欠ける月 10/13(『恒久の月』書籍化記念)

目次

 何故李に会えぬのだ。朕が叶えられぬ望みなどないはずなのに。
 李よ。何故会えぬ。今日こそは何としても会うのだ。

 李、そなたほど野の花のような荒々しい美しさを持つ女は見たことがない。
 衛も舞芸は美しく、後宮のお高く止まった女どもとは違う子供のような純粋さがあった。だがあれはどこか後宮の匂いがした。もともと姉上の婢で長安で生まれ育ったからだろう。どこか奇麗にまとまって訓練された美しさがあった。
 変わった貴妃もこの後宮には多くいた。西方から集めた貴妃には野趣あふれる者や珍しい姿形の者も多くいた。けれどもやはり中華のものとは相容れぬのだ。

 そこで李だ。李の華のような艶やかさと美しさ。そして北方生まれの玉のように白く吸い付くような肌と鈴のような美しい声。それに野の花のように逞しくもありつつも都会の洗練さを兼ね備えている趣き。同じようなものは延年くらいだ。だが延年と李では少し違う。
 延年は延年で何か妙に透き通った美しさがあり、従順なのに何か朕にも明かさぬ謎めいた部分がある。李は謎めいていつつも何か妙に暖かかった。女というものはこういうものなのだろうか。

 後宮は冷たい。八千からの女がいても見ているのは朕の子種だけだ。ここはそういう場所でそれが貴妃の仕事だ。だから貴妃は自らを美しく飾り、それ以外の部分は隠す。意見なぞ言わぬ。どこかで聞かれれば悪いように使われてしまうからな。けれども李は隠さなかった。朕が許せば朕と異なる意見を述べ、時には戯れた。
 それから李は同士だった。朕が信じる神仙の話を喜んで聞き、そして朕が聞いたことがないような、旅先だからこそ知り得る各地の神仙の話を語ってくれたのだ。他の貴妃に話してもこうはいかぬ。表面はにこやかに繕いながらもその目からは興味がないことは明らかだった。李のように朕の話を聞いて頷いたりはせぬ。
 もう5日も李に会うてない。
 延年は病が酷いと聞いていたが、ならば余計見舞いにいかねばならぬ。だから強引に室に入った。

 ところが李は体を包帯で巻いた上で袖と首の長い服ですっかり体を覆い隠し、顔も枕で強く隠していた。これではあの白く輝く肌すら見る事も叶わぬ。あの白魚のような美しい指先すらも包帯で覆われている。
「李や、朕にその顔を見せておくれ」
「何卒ご勘弁下さい、後生です、どうか、何卒」
「ならぬ、顔を見せよ」
「恐れながら申し上げます」
 傍に控える延年が奏上する。
「李夫人は未だ病に蝕まれております。帝に病が感染るやもしれませぬ。お控え下さいませ」
「ならぬ。これほど元気ではないか」
「妹だからこそわかるのです。妹は帝に病を感染さぬよう全身を布で巻き、その息が帝を害さぬよう隠しております」
「主様。ふがいなく、申し訳ございません」
 朕のためだと言う。そこまで言われてしまうと、何も言えぬ。朕は引き下がるしかなかった。
 朕が引き下がるとは本来あってはならぬことだ。けれどもこの李がそこまで言うのであればそのようにしよう。まるで両腕がもがれたような気分だ。

「わかった。早く回復せよ」
 だが会えぬとなるとますます李のことが気にかかる。このようなことは初めてだ。後宮の女どもに来訪を拒否されたことなど一度もない。ありえぬ。
 良薬仙薬を李に送るよう申し付けた。一日も早く良くなるように。
 李よ。
 足下に延年が侍っている。李によくにた男。延年を見るたびに李への想いが募る。

◇◇◇

 帝が強引に室に入ってきたその夕のことだ。陽は見る間に影を落とし、世界を闇に染めていく。そうしてようやく、私は包帯を解くことができる。
「兄上、私は死にます」
「すまないな」
 兄は優しく私の頭を撫でた。
 すまないな。
 その一言だけで、全てが伝わっていることがわかった。
 毎夜兄は明け方近くに私の室を訪れる。そのころには夜番の下働き以外はみな眠りについている。夜半に男が室に忍ぶといっても兄は実の兄で宦官だ。私が病という理由もあり、何も言われることはなかった。
「兄上、その前に私はしばらく顔を見せないまま帝に会おうと思います。顔を見せぬままであれば美しい私がずっと帝の心に残るでしょう。私の死とともに」
「そうだね、それであれば体も見せぬほうがよい。よい布を用意しよう」
「ありがとうございます」
「それから美しい絵を沢山かかせようね。その美しさがずっと心に残るように」
 変わらず微笑む兄の顔は、淡い手燭の光の下でも美しい。
「私は美しかったのでしょうか。兄上より」
「妹よ、そなたは誰よりも美しい。そうでなければならない。一緒に家族を幸せにしよう」
「そうですね。劉髆のことだけがが心配です。まだ幼いのに」
「お前が死んだ後に帝に劉髆を諸侯に封じて頂けるよう進言しよう。帝は最近ますます不安定であらせられる。長安から離れたほうがよいと進言致せば、ご納得頂けるように思う」
「私の死が劉髆の役に立つのですね」
 妹はゆるりと微笑んだ。
 まずはお前の子だ。妹よ。
 俺はお前の子を李家の呪縛から解き放つ。お前の死を契機にして。
 喜べ妹よ。
 劉髆が、お前の子がきちんとした身分を得て生きていくことができるように。体を売ることもなく末永く過ごしていけるように。
 そう言うと妹はさらに微笑んだ。
「劉髆も広利兄さんも幸せでありますように。兄上も」
「代わりに帝とどのような話をしたのか教えておくれ。特に神仙のことを。続きは俺が引き継ぐ。劉髆は俺が必ず守る。約束する」

 それから帝は私の室に何度か訪れ、その度に兄は帝を止めた。
 私はすっかり元気になった。けれども肌はちっともよくはならず、ますますただれて妙な汁を吹き出すようになった。頻繁に包帯をかえて清潔に保ち続けなければ膿の匂いが室を漂う。
「兄上、そろそろお別れです」
「そうだね、いい阿片を手に入れた。苦しまずに逝けるだろう」
「ありがとうございます。帝と広利兄さんに手紙を書きました」
「俺が必ず届ける。約束する。妹よ。俺は君も幸せにしたかった」
 兄上は私が眠りにつくまでずっと側にいて、手袋越しに包帯で包まれた手を握ってくれた。
 兄上、不甲斐なくて申し訳ありません。
 私は先に参ります。
 どうかこの先、兄上に不幸が訪れませんよう。
 そして兄上が念願を果たして李家の呪縛を説いてくださりますことを。
 さようなら、大好きな兄上。

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