演技それ自体のサスペンス性~クエンティン・タランティーノ監督作を見直して~

クエンティン・タランティーノのドキュメンタリーが上映されている。

これを見る前に少なくとも監督作は全て見直しておこうと思い、この機会に見直した。
なお、『トゥルーロマンス』などタランティーノが脚本のみ担当している作品や『フロムダスクティルドーン』などの出演作は見返していない

元々タランティーノは好きな監督だったが、数日間で一気に10作見直したことで新しい発見があったため以下簡単にまとめておきたい。

芝居と活劇

まず、タランティーノは芝居と活劇を撮っている作家であるということが大前提として言える。
ここで言う芝居とは、映画における俳優の演技の場面、つまり会話劇のことだ。
逆に活劇とは、映画における俳優のアクションの場面のことを言っている。

タランティーノは俳優が演技する場面と俳優がアクションする場面を映画として撮っている。
それを改めて認識した。

何を当たり前な、映画とはそういうものだろうと思われるかもしれない。実際、映画、特にいわゆるアメリカ映画は芝居と活劇を映画として撮り続けてきた言えるかもしれない。
このとても当たり前になっていること、芝居と活劇を撮ることが映画であるという考え方、思想、これを素直に実践しているのがタランティーノという作家であると、発見し直した。

そのことの具体例として、現時点での最新作『ワンスアポンアタイムインハリウッド』を最初に考えたい

俳優とスタントマン

『ワンスアポンアタイムインハリウッド』はまさに芝居と活劇の映画になっている。
芝居を担うのが俳優だとすれば、活劇を担うのはスタントマンである。
芝居と活劇の映画、俳優とスタントマンの映画、それが本作である。

レオナルド・ディカプリオ演じるリック・ダルトンは西部劇のスター俳優である。ブラット・ピット演じるクリフ・ブースはリックのスタントマンである。

この映画はその二人の物語が描かれる。
俳優リック・ダルトンはハリウッドでの俳優活動に限界を感じており、プレッシャーの中で撮影現場で演技をする。
彼は、この映画を通して俳優として「演技する」場面ばかりで登場する。
一方のクリフ・ブースは動き回る。リックが俳優として仕事をしている間クリフは、屋根に上り、車を運転し、ブルース・リーと殴り合い、ヒッピーが占拠した廃墟に乗り込み、襲撃にやってきたヒッピーを返り討ちにする。縦横無尽に動き回り、戦う。活劇の場面で大活躍する。
そして映画の最後で火炎放射器で殺人犯をやっつけるという美味しいところだけ俳優リックに渡し、スタントマン・クリフは病院に運ばれていく。(リックはポランスキーの家に招かれる)

このように『ワンスアポンアタイムインハリウッド』は俳優とスタントマンを描いた映画であり、俳優とスタントマンが芝居と活劇を分担して映画を展開していくというアメリカ映画への自己言及的な構造になっている。

映画に映っている人間とは、すなわち俳優かスタントマンかのどちらかである。

このアイデアをタランティーノが具体的に実践しようとしたのは『ワンスアポンアタイムインハリウッド』が最初ではない。
『キル・ビルvol1』(2003年)『キル・ビルvol2』(2004年)ー『デスプルーフin グラインドハウス』(2007年)で作品をまたいで実現されている。
「キル・ビル」の主演ユマ・サーマンのスタントを務めたゾーイ・ベルを主演の一人にしたのが「デス・プルーフ」だった。
「デス・プルーフ」はカート・ラッセル演じるスタントマン・マイクというスタントマンの猟奇殺人鬼を、本人役でスタントウーマンとして登場したゾーイ・ベルらが痛快にやっつける映画である。
この作品は歴代タランティーノ作品の中でも随一のとんでもないアクションシーンを見せる映画だが、映画の活劇はスタントマン同士の戦いによって実現されていることを宣言しようとするかのようだ。

芝居か活劇か(映画の物語とは何か)

タランティーノ作品が、あるいは映画が、芝居と活劇の両輪であるとして、ではなぜ芝居と活劇が必要なのか。それを考えるために、まず映画の物語とは何かを考えてみたい。

タランティーノ映画の内容は、犯罪、復讐劇、戦争、西部劇などである。
それはどちらかと言えば活劇の題材と言えるだろう。
誰が金を手にするか、復讐を果たせるか、悪人をやっつけられるか、タランティーノ映画の物語も一応そういった活劇的な筋を持っているものが多い。

しかし、タランティーノ映画を見ていると、映画のほとんどの時間は芝居の時間、つまり俳優が話している時間であることに気づく。

例えば初期のタランティーノ映画の特徴として、”無駄話”があるとよく言われていた。

登場人物が物語に関係のないことばかりをぺちゃくちゃと喋り続ける。その間物語の本筋である活劇は全く進展しない。
そして唐突に暴力が噴出し、活劇が一気に進展する。
これがタランティーノ映画の基本的なリズムであるように感じられる。

『レザボアドッグス』は、強盗グループの犯罪者がぺちゃくちゃと喋っている場面で始まる。その後OPを挟んで唐突に銃で撃たれた一人が車で運ばれている場面に繋がる。
『パルプフィクション』では男女二人組の強盗がコーヒーショップでぺちゃくちゃと喋っている場面で始まる。ダラダラと会話していた二人は急にポンと銃を出したと思うと立ち上がって強盗を開始する。
このように、ダラダラと会話する→唐突に暴力が噴出するというリズムがタランティーノ映画のベースに流れている。

暴力が噴出する必然性は分かる。
それが犯罪劇である以上(あるいは復讐劇や西部劇である以上)、暴力が噴出すことではじめて活劇が、つまり映画の物語が動き出すからである。
では、それを遅延させるこの”無駄話”は一体なんなのか、なんのためにあるのか。
これを考えてみたい。

演技していること自体

最新作の『ワンスアポンアタイムインハリウッド』に戻ろう。
この映画を見るとタランティーノが「芝居をしていることそれ自体」を見せようとしていることが分かる。
レオナルド・ディカプリオ演じるリック・ダルトンは「俳優」の役である。劇中でリック・ダルトンは自身が出演している映画の撮影現場で「演技」を行う。
そしてその「演技」は成功したり失敗したりする。
リックは台詞を忘れてしまって自分に怒り出してしまうこともあれば、渾身の演技を見せて俳優仲間やスタッフから賞賛されることもある。

観客は、リックが劇中劇の登場人物の演技をしていることを意識しながら演技を見守る。その時、劇中劇の登場人物の物語のことは一切意識しない。ただ、「リックの演技がどうなるのか」だけを見ている。
そしてそのようにリックの演技を見守る中で俳優リック・ダルトンの人生の物語に思いを馳せるという構造になっている。

つまり、『ワンスアポンアタイムインハリウッド』は俳優が演技することそれ自体を見ようとする映画になっているのだ。
ディカプリオは<リック・ダルトンが演技していること>を演技し、観客はそれを見るのである。

そして、この[俳優が<役が演技していること>を演じる]という構造は実はタランティーノ映画に頻出している。

例えば『レザボアドッグス』では〔ティム・ロスが<強盗グループの一員に入るために犯罪者の演技をする潜入捜査官>を演じる〕
上司の警官に台本を元に演技指導されるシーンなどもあり、デビュー作からかなり自覚的に[俳優が<役が演技していること>を演じる]という構造を使っている。

そして『イングロリアス・バスターズ』以降は映画の核にその構造を据えている。
ユダヤ人や連合国のスパイが身分を隠して別の人間の演技をしてナチスと対峙する『イングロリアス・バスターズ』、黒人の賞金稼ぎが奴隷商人の演技をして白人の差別主義者と対峙する『ジャンゴ』、複数の登場人物が正体を隠して(別の人間の演技をして)互いに対峙し合う『ヘイトフルエイト』、そして俳優が演技をしていることそれ自体を見せる『ワンスアポンアタイムインハリウッド』

このようにタランティーノ映画を見れば、タランティーノ映画に登場する無駄話は無駄というより、むしろそれ自体が目的であるかのようにも考えられる。
つまり、物語とは無関係に俳優が台詞を話していることそれ自体を楽しむこと、俳優の演技それ自体を見ること、タランティーノ映画の根幹に流れているのはこのような思想だと言える。

では、演技それ自体を見ることの面白さとは何なのだろうか。
タランティーノの映画を観ているとそれは、
・演技のサスペンス性(ダイアローグ)
・演技が物語ること(モノローグ、パフォーマンス)
・演技を、その嘘を信じること

であると感じる。
順に考えていきたい。

演技それ自体のサスペンス性(ダイアローグ)

ヒッチコックの理論を借りれば、サスペンスとは、
・まず爆弾が机の下にあることを観客に見せる
・登場人物がそれに気づかず無関係な会話をダラダラと続ける
→観客は登場人物がこのままではもうすぐ死んでしまうと焦燥感を覚えて緊張する
ということになる。

タランティーノの場合はいわゆるメキシカンスタンドオフを多用しながらこのヒッチコック流のサスペンス構造を踏襲している。
何人もの登場人物が互いに拳銃を突き付け合う。自分が撃てば誰かに撃たれるという状況を全員が共有し、暴力が発生すれば全滅するという共通認識の下、登場人物達はひとまずその状況を延長するためにダラダラと会話を続ける。

『レザボアドッグス』も『パルプフィクション』もそういう映画である。
犯罪者達が互いに銃を突き付け合い、いつ誰かが発砲するか分からない緊張感の中でそれを延長させるために会話が続く。
『パルプフィクション』の最後の場面でサミュエル・L・ジャクソンはティム・ロスに拳銃を向けながら延々と演説を続ける。彼の話は何のことかいまいちよく分からない。しかし、その差し迫った状況において彼が語り続けることそれ自体に暴力の発生を延長させるという点で重大な効果があり、語る内容よりも語ることそのものが意味を帯びている。
最終的にサミュエル・L・ジャクソンは拳銃を下ろすが、このような暴力の予感とその延長としての会話の緊張、それがタランティーノ流サスペンスの基本形である。

『イングロリアス・バスターズ』はそれが戦争というテーマと接続し、さらに洗練された形で実現される。
戦時下のフランスを舞台に、ナチスと連合国軍のスパイが互いに拳銃を向け合った状態で会話する。それはメキシカンスタンドオフにおいて、暴力を会話で延長させ続けることのサスペンスである。

さらに『イングロリアス・バスターズ』は「暴力の噴出を延長させる会話劇」というサスペンスをベースに「俳優が演技をしていることそれ自体を見る」というタランティーノ映画の特徴が組み合わさる。

「ユダヤ人を匿っていない」演技をする「ユダヤ人を匿う農民」
「ユダヤ人ではない」演技をする「ユダヤ人」
「ドイツ軍将校」の演技をする「イギリス人兵士」
「ドイツ人女優」の演技をする「連合国のスパイ」
「イタリア人映画関係者」の演技をする「連合国の特殊部隊」
等である。
そのような演技者達がクリストフ・ヴァルツ演じるランダ大佐をはじめとするゲシュタポと対峙して会話することで、「演技をしていること自体」がバレる/バレないの宙吊り感覚、サスペンスが実現されている。

タランティーノは、映画の俳優は「演技している」ということ自体を暴力の噴出、つまり活劇の発生と紐づけた。

これは、映画とは芝居と活劇であるというタランティーノ映画に流れる基本的な理念を元に編み出された発明だ。
芝居が芝居であることと暴かれるとき、活劇が発生する仕掛けになっていうのである。

もうヒッチコックが言うような小道具としての時限爆弾は必要ない。
演技それ自体が、活劇の発生を予告する時限爆弾だからだ。

クリストフ・ヴォルツが、ユダヤ人であることを隠す映画館長のメラニー・ロランとスイーツを食べながら会話する場面。
もう暴力装置を直接的に見せる必要はない。
意気揚々とランダ大佐をそのまま演じるクリストフ・ヴォルツ対「ユダヤ人でない演技をするユダヤ人」の演技をするメラニー・ロランの会話は、「演技がうまくいくかどうかを見守る」という映画を見る体験そのもののサスペンスである。

同じく『イングロリアス・バスターズ』におけるインディアンポーカーの場面。演技それ自体のサスペンスに耐えられなくなったマイケル・ファスベンダーは頭に貼ったインディアンポーカーのカードを自ら剥がしてしまう。自分の役を下りる、つまり演技をすることをやめてしまったイギリス人兵士はその正体をゲシュタポに暴かれる。
芝居は終わり、活劇の始まり。暴力が噴出する。

『ジャンゴ』ではこの演技それ自体のサスペンス性がさらに押し進められる。
ジェイミー・フォックス演じる元黒人奴隷の賞金稼ぎジャンゴは、妻が奴隷として囚われている南部のお屋敷に忍び込むため、奴隷商人の演技をする。
映画の後半はジャンゴ(及びそのパートナーのシュルツ)が、奴隷商人の演技をし続けられるか、それがディカプリオ演じる農園主カルヴィンらにバレるかバレないかのサスペンスがひたすら持続する。
(シュルツは「ジャンゴは演技の才能がある」と語る)

ジャンゴは、黒人差別に対する怒りの炎を内心に燃やしながら、あえて自らも差別的なふるまいをして、奴隷商人の演技をする。
ジャンゴの演技それ自体の危うさを見る映画、それが映画『ジャンゴ』である。

このように『イングロリアス・バスターズ』や『ジャンゴ』を見ると、演技それ自体にはサスペンス性があることが分かる。

演技している者は俳優、役のどちらか一方であるわけではない。
演技とは<俳優ー役>の関係性の中で宙吊りになることだ。
<俳優ー役>の間にかけられた不安定な綱の上でバランスを取ること、それが演技なのかもしれない。
だとすると、演技を見るとはその宙吊りを見守ることであり、それ自体にサスペンス性があるのである。

演技が物語ること(モノローグ)


『ジャンゴ』でそれが押し進められる
奴隷商人を演じきれるかどうかの活劇
ディカプリオの芝居=嘘=ハッタリ
見抜く人
テキストへの帰着

語りの芝居(モノローグ)、テキスト『ヘイトフルエイト』

映画それ自体

『イングロリアス・バスターズ』の煙に浮かび上がる映画

ここでもう一つタランティーノ映画に表れる演技それ自体の美しさを紹介しておこう。

それは『キルビルvol2』の最後の場面、ユマ・サーマン演じるザ・ブライドがかつてのボスであり恋人であり復讐の対象であるビルの元へ乗り込んでいく場面である。
ビルを殺そうとやってきたザ・ブライドは自分の娘BBと出会う。娘が生きていたことを知らされていなかったブライドは驚きと喜びと愛情を目に浮かべながらBBにおもちゃのピストルで撃たれる。
そして、倒れて死ぬ演技をする。

タランティーノ映画を全て見直して感じたのは、この場面の美しさである。
キルビルにおけるブライドは死の演技する者である。
ビルに撃ち殺されたはずが死んでおらず病院で蘇り、ビルの弟バドに撃たれて墓の下に埋められてもそこから蘇る。
ブライドのキャラクターとしての強さの根幹は死んでなお蘇ること、ブライドの死は演技としての死であることにある。
そして、このことは映画で描かれる死とは嘘の死、演技の死であることと接続する。
ブライドらが演じる血みどろの殺し合いは、映画の嘘、ただの演技である。
ビルの拳銃とBBのおもちゃのピストルは、実際のところどちらも偽物の銃であり、ユマ・サーマンが映画で見せる死は全て演技としての死である。

タランティーノは、このように俳優が演技をしていることを観客に意識させる作家なのである。
そしてそれでいてなお、演技それ自体、嘘それ自体に感動しようとする姿勢にタランティーノの特異性がある。

『ヘイトフル・エイト』のサミュエル・L・ジャクソン演じるマーキス・ウォーレン少佐はリンカーンの手紙を持っている。
それは映画の終盤でマーキスが創作した偽物であると語られる。
しかし、マーキスは映画の序盤、女盗賊デイジー・ドメルグにその手紙に唾を吐かれたことに激怒してデイジーを殴り飛ばしている。
手紙が偽物、真っ赤な嘘だとしたらなぜあれほど本気で激怒できるのだろうか。
この映画の最後はこのリンカーンの手紙が偽物であることを見抜いたクリス・マニックスが「いい創作だ」と手紙を褒めることで終わる。

嘘であると分かった上で嘘に感動しようとすること
それがタランティーノ映画なのである。


タランティーノの思想を引き継げるとすれば

演技は上手くてはいけない。下手でもいけない。
演技がうまくいくかどうか分からない不安定さこそ、最重要である。

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