見出し画像

育ちが悪い人にも教養はある。

むかし、どうして勉強しなくてはいけないのか?と考えたことがある。
大体の子供は通る道だろう。

当時からパソコンは一通り使えたから、インターネットでも検索してみるなどしていた。
すると、たくさんの答えの中に「いつか役に立つ教養を身に着けるため」というものがあった。

「教養」とは便利な言葉だ。
おそらく「教養」という言葉を使っている本人ですら、「教養とは何ぞや」をうまく言語化することはできないだろう。

なのに、大人たちは「教養は大事」という。
「なんだかよく分からんけど、いつか役に立つよ」
これはとてもずるいと思う。

そもそも、どうして「勉強ができない人(子供含む)は教養がない」と思い込んでいるのか。
そして、なぜ「自分たちには教養がある」ような顔ができるのか。

教養なんてものは「頭のいい大人」が独占しているものではない。
すべての人々が持っていて、すべての人々が持っていないものであると僕は思う。

遅くなったが、僕の考える教養の定義は「ある集団の中でうまくやっていくために必要な常識的知識と空気を読むスキル」である。
「学校では教えてくれないこともある」……全くその通り。学校では教えられない「教養」だってたくさんある。

例えば、「頭がいい」ビジネスパーソン達の集団でうまくやるためには、それなりの知識(例えば政治や経済、古典のたしなみ)が必要だろう。
一方で、Youtuberと仲良くしたいなら、おススメの編集ソフトなどの動画制作に関する知識や、トレンドに関する知識が求められる。

これは共時的にも通時的にも変わる。
つまり、「同じ時代の別の集団」で求められる教養が異なるのと同じように、「違う時代の同じような集団」でも求められる教養は変わってくる。

たとえば、清少納言のエピソードに「中宮定子から『香炉峰の雪はいかならむ(どんなもんだろう)』と聞かれた際に、御簾を高く掲げた」というものがある。
定子は清少納言の教養深さ、機転の利かせ方に大層喜んだという。

これは、元ネタとして白居易の漢詩の一節があるのだが、これを知っていたからこそ機転を利かせることができたのだろう。

清少納言や中宮定子といえば、当時でもトップクラスにハイソな方々だ。
とはいえ、今のハイソな方々がみんな白居易の漢詩を網羅しているとは思えない。
それが教養となるかと言われれば、いまの社会ではあまり通用しないだろう。

一方で「香炉峰の雪はいかならむ」と問われた清少納言が御簾を高く上げたというエピソードは知っていて然るべきだとなっているかもしれない。
これは『枕草子』の有名な一説だから、と。

このように、教養として扱われる物事は、時代や集団が変化すると一気に変わる。
「これが教養!これ以外は教養じゃありません!」というものは、この世に存在しない。

学校の勉強も、確かに教養の一つだが、教養はこれしかないというわけではない。
学校では教えてくれないようなことでも、面白いことなんて無限にある。

例えば、足立区にも足立区なりの教養が存在する。
僕の生まれ育った足立区では、様々な治安の悪い用語や遊びがまかり通っていた。

特に印象強いのが「マオニ」という遊びだ。
足立区以外の人に通じたことがないが、足立区育ちの子供たちはおそらくたいてい通じると思う。

「マオニ」とは「マンション鬼ごっこ」の略称である。
その名の通り、マンションを舞台として鬼ごっこをするという迷惑極まりない遊びだ。

この鬼ごっこのユニークな、そして恐ろしいところは鬼が増えるという点にある。
逃げ回る子供たちを追いかけてくるのは、仲間内で決めた鬼だけではない。

時間が経つにつれて、管理人さんやマンションの住人なども参戦してくるのだ。
その様子はさながら鬼ごっこ界のスマブラ。

一応言っておくが、僕はマオニをしたことはない(誘われたことはある)。
大人に怒られてまで鬼ごっこをするのが嫌だったからだ。

とはいえ、「マオニ」という遊びの存在を知っていたからこそ、ある程度仲間として受け入れられていた部分はある。
もしもここで「マオニって何?そんなのやだよ!」なんて言っていたら、仲間外れにされていたかもしれない(小学生特有の理不尽もあいまって)。

少なくとも僕の周りでは、小学生にとって「マオニ」は基礎教養だった。
ルールを知っていること、マンションへの侵入方法、マンション住人にばれたらどこに再集合するのか……これらを知っていた小学生だからこそ共有できた価値観があった。

教養の利点は、この「ある集団の中での価値観の共有」にあるのだと僕は考えている。
その点において、足立区の「マオニ」は、足立区の小学生にとっての教養と言えるのではないだろうか。

繰り返すが、「教養」というのは勉強だけで身につくことではない。
東大の教養学部に行けば無敵の教養が身に着くというわけでもないし、逆にフィリピンのスラム街で暮らす際に役立つ教養もあるだろう。

学校の先生などの「まっとうな大人」のいうことだけを聞いていると、「教養とはお勉強の練度である」と思ってしまいがち。
でも、本当の教養を身に着けたいなら、学校で役に立つかどうかは関わらず、色々な集団に踏み込んで、様々な文化を吸収することが必要だろう。

まさに清濁を併せて吞む。
自分の属する集団から勇気をもって一歩はみ出してみることこそが、真の教養人への第一歩なのかもしれない。

よろしければサポートお願いします!