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高校日本史 織田信長と豊臣秀吉

織田信長のイメージは時代とともに移り変わってきた。江戸時代の不人気から幕末には勤皇家、戦後は新しい時代を開いた革命者として評価される。近年は中世最後の武将という視点が現れ、虚像の検証が行われている。

織田信長が家督を継承した頃、畿内は三好長慶が将軍足利義輝を擁して三好政権を樹立していた。信長は弱体化した三好氏の領国への進出を急ぎ、天下布武をめざした。かつて信長はパイオニアとみなされていたが、中世最後の武将という見解が提唱され、信長の評価の再検討が進んでいる。

羽柴秀吉は賤ケ岳の戦い・小牧長久手の戦いの後、国制を利用して織田家の家臣から脱却する。天下統一に成功すると、豊臣秀吉は武士・百姓の分離と本百姓育成策をとり、近世日本の基礎を固めた。続いて、秀吉は海外進出を図り、「大唐を経て、寧波を拠点とした天竺支配」が目指す。

織田信長は足利義昭を擁して上洛、将軍が畿内を治める天下布武を実現した。義昭と信長は将軍と軍事として任務を分担したが、やがて二人は対立するようになる。最近の歴史学は、義昭と信長の関係をどのようにとらえているのか、立命館大学授業担当講師の秦野裕介先生が解説する。

織田信長と朝廷の関係をめぐる評価は戦前と戦後で一変した。戦前は勤王家、戦後は中世を打破する革命家、信長像は揺れ動いてきた。信長と正親町天皇には、譲位・改元・改暦・勅命講和・蘭奢待と多くのエピソードがある。最近の歴史学がとらえた信長像を秦野裕介先生が解説する。

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