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善悪とは何か

私たちは生きていく中で、善悪を目にし、
善を敬い、悪は排除すべきものとして教えられる。
私たち自身は、個々でそれぞれに善悪の価値観を抱いている。

この「善悪」というものは、はたして普遍的なのだろうか。

人の善悪、神の善悪、宇宙の真理としての善悪
これらは、共通なのだろうか。

一般的に私たちの社会では、
道端のゴミを拾う、
他人が嫌がることを行う、
人を助けることは
「善」とされ、

物を盗む、
嘘をつく、
人を騙す、
人を殺すことは
「悪」とされる。

例えば、ある人(A氏)がB氏を近くにあったナイフで刺し殺した。
この時、A氏は「悪」いことをしたと誰もが思うだろう。
しかし、実際はB氏がA氏に殺意を持って襲い、
A氏は自分の身を守るために
B氏にとっさに刃を向けた結果だとしたら、
それでもA氏は「悪」だろうか。

あるいは例えば、
A氏は殺人鬼であるB氏に追われて、C氏に匿ってくれるようお願いした。
C氏はA氏の要望にしたがって彼を匿い、
追ってきた殺人鬼B氏に「A氏はいない」と嘘をついたとしたら、
C氏がとった嘘をつくという行為は「悪」だろうか。

もし、「善」行動のため、
殺人鬼B氏に真実を伝えてB氏がA氏を殺害したとしたら、
C氏の行動は「善」となるか「悪」となるか。


また、別のケースを考えてみる。
あるところで、幸せに暮らしていた少年の家に
強盗が押し入り、彼の両親を殺害した。
犯人は捕まり死刑となった。
両親の死を目の当たりにした少年は、その悲劇の経験をきっかけに
人を助けることに目覚め、大人になって、腕の良い医師となった。

彼はその手技により、他の医師では手に負えない患者を
数多く救う名医となったとする。
強盗は「悪」であり、少年に起きた出来事は「悪い」出来事だと言えよう。彼の両親が受けたことも同じく「悪い」結果と捉えられるだろう。

その出来事によって、少年だった彼が医師となり、
強盗によって失われた命よりも遥かに多い数の命を
永らえさせたことは「善」と言える。

しかし、この「善」は、
強盗による「悪い」出来事が起こらなかったら、
少年は医師になる決意をせず、彼が多くの命を助けることはなかった。
つまり、「善」は現れないこととなる。
では、この「善」をもたらした強盗が、善行と言えないのは何故だろうか。

私たち人間の活動は、
地球や自然環境にとって「悪」行動とされることが多々ある。
産業革命以降の化石燃料使用に伴う空気汚染や、
地球温暖化の原因とされるCO2排出量の増加、
森林の伐採、プラスチック等石油由来製品の製造、
水質汚染、自然の破壊など。

これらは人間の生活を便利にするため、
あるいは余暇を埋めるために必要/不要なモノを作るための代償と言える。

現在では、社会の便利さは保ちつつも、
持続可能な活動をしなければという動きが世界的に広まっており、
やはり自然破壊は「悪」いものとされるが、
では、「自然」とは一体何を指すのか。
「自然」にとって何が「善」なのだろうか。

確かに、人間の活動つまり近年の人口増加と
CO2排出量には相関があるのは間違いない。
これによって、(人間が暮らす環境において)異常気象が
世界的に増えているということはあるのだろう。

では、この直近数百年の人間の活動による地球温暖化の影響と、
大昔の恐竜が滅んだ原因とされる巨大隕石の衝突は、
どちらが地球にとって影響が大きいだろうか。

巨大な隕石が地球に衝突することで、
数キロメートルともされる高さの津波が起き、
巻き上げられた塵が何百年もの間、地球を覆って太陽光を遮り、
岩石の成分が蒸発して硫黄が混じった強い酸性の雨を降らせ、
生物にとって過酷な環境をもたらす。

これは、現代の私たち人間の活動による地球上の環境変化とは
比べようもないほどの規模ではないか。

しかし、おそらく多くの人は、これは「自然」現象の結果だと言うだろう。

では、この環境をもたらした隕石は「悪」なのだろうか。
それとも「善」だろうか。

隕石衝突を受けたときの地球と、
人間によって「自然」破壊が進む地球は、
どちらかが理想的な状態に近いと言えるだろうか。

極端ではあるがこの例で分かるように、
自然環境の破壊が「悪」とされるのは、
その結果が私たち人間と、人間が関与しうる自然が、
私たちの時間的・空間的な尺度において急激な変化をもたらして、
その結果、私たち自身の生活や生命を脅かすからである。

私たちはごくナチュラルに、
自然と自然でないもの(=人間の活動や生産物)を区別して、
「自然」を守り、出来るだけ変えないことを「善」としている。
しかし本来、地球の視点から見たとき、
私たち人間も「自然」の一部ではないのか。

地球の視点、あるいは太陽系の視点まで引き上げると、
人間と蟻の違いはない。
蟻が巣を作るために、「自然」の土を掘って環境を変えることと、
人間が山を削り、ビルを建て、石油を燃やし、核反応を利用することと、
巨大隕石が衝突することは、
いずれも宇宙の視点から見ると相違ないはずだ。

そして、これらには「善」も「悪」もない。

では、善悪とははたして何なのか。

私たちの善悪の判断は、宗教と深く結びついている。
特に一神教ではしばしば、
神の思し召しにかなうかどうかが善悪の大きな基準となる。
神の意志に逆らうものは、地獄に落ちる悪とされる(ことが多い)。

しかし、善悪を定める戒律や聖書などでの神の意志は、
当然それぞれの宗教によって完全に共通するものではない。
豚肉を食べてはならない、飲酒してはならないなど、
その社会の文化に紐づくものもある。

すなわち、「善」とは一般に、道徳的に正しい事、
多くの人が是認するようなもの、
社会的な規範に是とされる行為や存在 などとされる。
そして、「善」を行い「徳を積む」ことが大事とされる(ことが多い)。

徳を積むことで、自身の心が磨かれて美しくなり、
その周りにも「善」い心の光を照らし、
魂の浄化・レベルアップにもつながるとされることもある。
(筆者は魂の区別はできないとの考えから、これには否定的であるが...)
https://note.com/tem_jin196/n/n3674227fc6bb


善を行うべきという教えと宗教が結びついた場合には、
単なる道徳的行動を超えて、
その重要度や信念が強化されるという効果がある。

飲酒は適量であれば血行を良くし、気分を晴らす効果があるものの、
判断力や理性の低下によるトラブルの温床ともなりうる。
これを制御し接種を制限するため、
単に「飲酒は控えましょう・止めましょう」とアナウンスするよりも、
そのコミュニティが強く信奉する神からの言葉として
「飲酒するべからず」
と提示することの方が効果がある。

なぜなら神は絶対であるから、
その是非の理由を考える必要がなくなるからだ。

また、善行を積む目的として、まるで天国に行けるチケットのように、
あるいは地獄に行かないための戒めとして示されることで、
コミュニティ内の多くの人に対して、
その社会の規範を正しいものへと向けさせることができる。

善悪の基準は、そのコミュニティの社会規範に根付くものであるため、
あるコミュニティの善悪が
他のコミュニティでは相違が生じることは当然あり得る。

また、当然ながら私たち人間の善悪は、
他の動植物においては当てはまらない。

つまり私たちが語る「善悪」とは、
あくまでも、人間の社会における道徳的な行動や存在を示したものであり、
ある時は宗教の戒律や神の意志・神的なものと結びついて、
社会に属する者が理由を考えることなく
「守るべきもの」として浸透している考えや
行動規範のことと言えるだろう。

宇宙からの俯瞰で見たとき
そこには「善い」も「悪い」もあり得ない
宇宙の真理として、「善悪」は普遍のものではないはずだ。

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