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魂は区別できるか

突然だがここで、ある個人(A氏とする)の魂について考えてみたい。

A氏の身体の細胞は、それぞれの部位が一定の期間ごとに生まれ変わる。
入れ替わる周期は組織によって異なり、
最も短いのは腸管内部の表面の上皮細胞で、これは数日で入れ替わる。
皮膚が4週間、血液が4ヵ月、
一番長いのは骨の細胞で約4年で全てが入れ替わる。

ただし、細胞の中でも再生が極端に遅いものもある。
これは心筋細胞と神経細胞である。
心筋細胞は標準的な寿命を迎えるまでに
半分ほどしか入れ替わっていないのだそうだ。

神経細胞は、かつては一生涯再生しないと考えられてきたが、
近年では僅かだが再生するということが分かってきたそうである。
その他、(A氏が女性の場合)卵母細胞・卵細胞は
生涯にわたって変わることはない。

このように、A氏は骨の細胞が入れ替わる4年前のA氏からは、
神経細胞や卵母細胞・卵細胞以外のほとんどの細胞は、別物になっている。

では、A氏の魂は、彼(彼女)の身体のどこに紐づいているのだろうか。
入れ替わらない細胞に紐づくのだろうか。

他の視点からも考えてみたい。

A氏が、不幸にも事故にあい、左腕を切断してしまった。
切り離された腕は、かつてA氏の一部だったものであるが、
当然ながら生命活動を継続することはできない。
切断された身体の一部は、火葬場で焼かれるそうだ。
つまり、A氏の腕は燃やされ灰になり塵になり
一酸化炭素や二酸化炭素に分解される。

これら塵や気体には魂はないだろう。
(「いや、ある」という意見もありそうだが、ここでは、ひとまず無いものとして考察する)

では、切り離される前の腕にはA氏の魂が満ちていただろうか。
おそらく多くの人はそうだと考えるだろう。
では、切り離された瞬間に、その腕から魂は抜けてしまうのだろうか。

幸いにも一命をとりとめたA氏が、
失った腕を補うため、義手を装着して生活しているとする。
技術の発展により優れた義手が開発され、
装着接合部の神経の電気信号によって、
自分の意志で元の生身の手と全く同じように
自由に動かせることができるとする。

この義手はあくまでモーターを積んだ機械であるが、
A氏はまるで本物の手のように感じて生活をすることができるだろう。

これらには、元の手のような魂は入っているのだろうか。
腕の切断が極端な例だと思う方は、
自身が切った爪には魂はあるのだろうかを考えてみてはどうだろうか。

今度は、A氏の人生の時間を遡ってみたい。
A氏固有の魂があると仮定すると、
彼(彼女)が誕生する以前に母親の胎内にいるときには、
すでにA氏の魂は彼(彼女)自身にあると容易に想像できる。
それでは、A氏の魂の始まりはどの時点だろうか。
父の精子と母の卵子が受精した瞬間か。
受精卵が着床した瞬間か。
初めに受精卵の細胞が分裂した瞬間だろうか。

例えば、受精した瞬間を起点とした場合、
その直前の精子と卵子には誰の魂があるのだろうか。
受精に至らなかったその他多くの精子と、
受精に至った魂は同じだろうか。
それとも、異なるのだろうか。

A氏の父の身体から放出された精子の魂は、A氏の父の魂と同一だろうか。
それともその全てが違う魂なのだろうか。
A氏の母と母の卵子の魂は同一だろうか。異なるのだろうか。
もし、同じだとするならば、
A氏に兄弟姉妹がいた場合、彼ら(彼女ら)同士の魂は、
同じ魂を持つ精子と卵子から作られたことになるが、そうではあるまい。

ここまで、つらつらとA氏の魂の所在について考察してきたが、
はたして、A氏固有の魂はどこにあるのか、
読者には答えを見出せただろうか。

この問題と同じ疑問について語られたものとして、
ギリシャ神話の中にある「テセウスの船」という有名な話がある。

ギリシャの英雄テセウスは船を所有していた。その船は、長年の劣化により部品が傷んできたため、壊れた部品を徐々に新しいものに交換された。そして、最終的には船の全ての部品が新しいものに置き換えられた。
このとき、その船は初めの「テセウスの船」と同じものと言えるだろうか。
さらに、もしも置き換えられた古い部品から一艘の船を組み立てたとき、果たしてどちらが「テセウスの船」だろうか。

鴨長明は方丈記の冒頭でこのように記した。

ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。淀よどみに浮かぶ泡沫うたかたは、かつ消えかつ結びて久しく留とどまりたるためしなし

方丈記;鴨長明

つまり、すべての事物に永遠なるものはなく、
すべての事物は移り変わり流転してゆくという無常観を表現している。

テセウスの船も、河の流れも、A氏の体細胞も、
常に絶えず変容し遂には全てが物質として置き換わってしまう。

しかし、いずれの場合にも私たちはそれらを固有のものとして認識し、
こと人間や、先の自然霊に至っては、
固有の魂が宿されたものとして感じている。

自我と魂の違いについて、すでに述べた通り、
魂は物体と切り離された存在としてあるのだろう。
したがって、固有の魂には物質としての同一性の有無は
全く関係ないことは初めから自明であった。

そして、今回の記事では延々と、
同一であり続けるものは存在しないことを確認してきた。

それでは、魂を固有のものたらしめる区別、器、壁はどこにあるのか。
その始まりと終わりはどこにあるのだろうか。

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