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分ける ということ

 私たち人間は、個でありながら、社会の一員として生きている。生まれた時から常に自己と他者の境界を持ち、また距離を測りながら成長していく。社会の中においては、味方か敵かを瞬時に見分けようとする性質を持っている。ただし、「見分けられる」わけではない。あくまで「見分けようとする」性質だ。したがって、その判断はいつも必ずしも正しくはない。

 産まれて間もないヒトにとって、目に映る全てが初めてのものだ。自身の手足すら自分の身体であると統一性を持って認識出来ていない。例えば、赤ん坊が指しゃぶりをすることで口の位置に動かした手と、口が舐めている手(指)が同一であることを認識する訓練をしている。こうやって少しずつ、自己を認識していく。

 自己の認識は、すなわち自分以外の他者を認識することとなる。初めての他者は(多くの場合)親だ。親は子の世話をする。つまり子にとって味方となる行動を取る。この繰り返しの経験から、危害を加えない親を味方として認識する。初対面の相手には警戒する。そして、相手の振る舞いや表情から、敵か味方かを判断する。
 私達は何故、敵味方に分けようとするのか。それは、弱いヒトが生き延びるために社会を作るという習性を身に着けたからだ。味方、仲間が個人を守る社会を形成することによって、ヒトという種は存続し拡大してきた。一個体では、か弱いヒトも、集団になると自分よりも強大な種に対抗することができる。仲間となる集団を作るための判断は、共通の利害を持つかどうかだ。利害に不一致があるならば、あるいは、「利」よりも「害」が大きそうと判断されれば、仲間とはなり得ない。

 敵味方を判別しようとするのは本能ではあるが、その判別の基準は個人差が大きい。この基準は何をもって形成されるのだろうか。おそらくそれは、社会からの影響が大きいだろう。そして私たちが産まれてから初めて接する社会は家庭であり、初めての他者は親である。つまり、親からの影響によって、敵味方を判別する基準の大部分が形作られるのではないだろうか。例えば、乳幼児期から直接的な暴力を含む虐待を親から受けて育った子は、それでも、その時点での「味方」はその親だと認識せざるを得ないので、「味方」が行うべき振る舞いとして、虐待をしない親の元に育った子とは異なった「味方」の判断基準を学ぶだろう。その基準は、彼/彼女が成長し、親以外の「他人」を敵か味方か判断する時に用いられることとなるが、当然それは多数派の判断とは異なる結果を選ぶ可能性が高い。この判断基準は、はじめの社会である家族から離れてからも、他の社会や他人からも学びながら修正され、個々人それぞれの敵味方の判断基準が緩やかに確立されていく。

 全く無関係の者同士は、敵味方を分ける必要がない。地球の裏側の、私や私のコミュニティに全く関わりがない他人のことは、利害を考える必要がないので敵味方を分ける判断をすることがない。しかしひとたび、場所や時間・モノなどを共有し得るヒト同士となった場合、私たちは即座に敵味方に判別しようとする働きが起こる。敵でも味方でもなく「完全にフラット」に相手を見ることは、限りなく難しい。何故なら、敵/味方のラベルを貼って区別するのは、それが、ヒトの生存本能に紐づく行動原理だからだ。



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