個体差とイレギュラーがもたらすもの ①
福沢諭吉が書いた
「学問のすゝめ」の冒頭において、
「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」とある。
辞書の用法では、この部分は
「人間とは生まれながらには平等である」とされる。
しかし、「学問のすゝめ」冒頭の文に続く文章では
辞書の用法とは真逆のことを伝えている。
以下に引用する。
この後に続く文章で、福沢諭吉は
「富や地位はその人の働き次第で決まる」
「賢さは持って生まれたものではなく、自分が学んだかどうかで決まる」
と説き、
「本人の努力次第で賢い人になれる」
と続けている。
つまり、努力して学ぶことで地位が向上できるとし、
学ぶことの重要さを説いた。
この点に関しては、筆者としては同意しかねるが、教育の重要性と独立自尊 (自他の尊厳を守り、自分の判断や責任で行動を起こすこと)を訴えたこの文章は、当時の日本において一定の功績をもたらした。
ここで福沢諭吉の言葉を拝借したのは、
なにも、学習の重要性を述べるためではない。
神の名のもとに、人間は平等とされるが、福沢諭吉が言及した通り、
実際には平等ではない。
身長の高い/低い
筋力がつきやすい/つきにくい
運動神経が良い/悪い
計算が得意/不得意
語学が堪能/苦手
芸術のセンスがある/ない
といった身体的な差異や、
ポジティブ思考/ネガティブ思考の特性
ひらめきが多い/少ない
努力ができる/できない
IQが高い/低い
などの脳の気質に関わる差異、
さらに、
男/女
長子/中間子/末子
生まれた国や地域や時代
その他の環境を含めてあらゆるものが
平等ではないことは自明であろう。
全てが平等ではない中で、社会ではそれが優劣として現れる。
勉強ができる人/苦手な人
スポーツができる人/苦手な人
金儲けができる人/できない人
賞賛される人/されない人
といった具合だ。
ただし、この個体差や環境の違いは決して無くなることはない。
近年は、個体差の”多様性”を認めようという動きが
世界的に活発になっている。
しかしながら、人間は常に不平等であり続ける。
これは避けられない悲劇の現実なのだ。
だから、私たちの社会では、場面場面でという言い方をすれば、
主役と脇役、エキストラ、観客がいて、
そこに適合する性質を持つ人がいる。
また、集団の種類によって、その集団内での必要な特性が異なるだろう。
集団の構成員の性質を表すものとして、
「働きアリの法則」が知られている。
働きアリの法則 - Wikipedia
働きアリの集団を観察すると、
かなり働き者のアリが2割、平凡なアリが6割、
ほとんど働いていない怠け者のアリが2割程度いることが知られている。
2-6-2の法則とも言われる集団の構成員に見られる経験則には、
また不思議な現象が見られる。
先ほどの働きアリたちの中から、2割の怠け者のアリだけを集めて
新たな集団を作ると、その集団は、やはり2ー6ー2の法則にしたがって
グループに分かれる。
これは、上位層の2割、または中間層の6割を切り取っても同様になる。
研究によると、パフォーマンスが低いアリたちの存在は、
集団全体の存続に大きな役割を果たしているという。
仮に、全てのアリが同じようによく働くようになると、
短期的には仕事の能率が上がるが、
結果として全てのアリが同時に疲れて休むため、
長期的には仕事が滞って、集団全体の存続ができなくなることが、
コンピュータシミュレーションで確認されている。
人間も、このアリの習性と同じように、
なぜか集団になると、このようなバランスになってしまう。
それぞれの集団内で上位・中間・下位に属するかは、
その集団の性質と、所属員の性質によって決まるのだろう。
アリの場合は、彼らが遺伝的に組み込まれたプログラムで動き、
生きているから、彼らの下位層が上位層を妬んだり、
羨ましく思って自身を卑屈に感じるようなことは、きっとないだろう。
しかし、人間は言語と思考が発達した社会性の動物であるため、
集団内に位置する立場毎に個々でそれぞれが考える。
上位は下位を見下し、下位は上位と隣人を妬み、
多数派の中間層は無関心になりがちである。
そして、この階層を発生させているのは、
社会を持つ動物としての仕組みと性質であるにも関わらず、
私たち人間は、ここに他の意味を見出そうと試みてしまう。
何故、自分は下位層に属しているのか、
平等(であるはず)の人間に、明らかな階層があるのは何故なのか。
これらの疑問に対する回答を欲するのが人間の性(さが)であるのだ。
そして、神の意思や前世のカルマといった
不平等であることに、理由や意味を与えてくれる
便利なものを発明するようになった。
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