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【随筆】歯医者の思い出

 私が中学生の頃、虫歯を治すため、歯科に行くことになった。その頃、父も歯科に通っていて、腕が良いとの噂があった、同じ所に行くことにした。
 しかし、その歯科は、予約制ではなく、来た人順。いつも混んでいたのは、わかっていた。

 父は、歯科に行くが、あまり時間もかからずに帰って来た。あんなに待合室に人がいるのに。


なんと!

 父は裏口から、歯科に通っていた。そして、私にもそうしていい、という事だった。

 歯科医と父は、趣味の話でいつのまにか仲良くなり、歯科宅の玄関から入るようになっていたのだ。

 それには、私が躊躇した。私は歯科医と仲良しでは無い。そして、待っている人たちに申し訳ない。中学生でも分かることだ。

 しかし、「いいんだから。大丈夫だから」という父の言葉に、いやいやながら、そうする事になった。  

 ピンポンを押すと、先生の奥さんだろうか、奥から出て来て、脇の囲炉裏のある部屋に案内され、そこが裏口患者の待合室のようだった。

「次からはそのまま、入って来ていいからね」

「はい」と答えたものの

 私は悪い事をしている…

 暗い気持ちだった。

 だけど、その思いはあっさり消えた。小学生の男の子が入って来たのだ。共犯者だ。

「あ、うちだけじゃないのか」

 やがて先生が診察室からやって来た。

「いらっしゃい。もう少し待っててね」

 先生は煙草休憩をしに来たようだ。

「これ見て」

と渡された紙は切り絵で作ったトンボだった。ものすごく細かい。

「先生が作ったんだよね」

 小学生の男の子が答えて、

「すごいなぁ」

と続けた言葉に先生は笑っていた。

『気さくな人なのかなぁ』

 気持ちが緩んで来た。

 部屋の中を見るとこけしがたくさんあった。
父もこけし収集を始めた頃だ。

 しばらくして、看護師さんが、私を呼びに来た。

 そーっと診察室に入ると、診察台は、3台。私は右端の台に促され座ると、すぐ先生がやって来て治療が始まった。

「痛いのは、此処かな」

 虫歯の箇所を触られ、『ビクッ』となった。

「このくらいなら、何度か通えば良くなるから」

「今日は、消毒だけね。次は、削るからね」

 いちいち治療内容を説明してくれるのは子どもでもありがたい。

 会計は、裏口待合室に、事務の女の人が紙と小銭の入った箱を持って来て、そこで精算した。

 そして、何度か通い、私は解放された。『解放』という言葉が、その時の私の気持ちを表わす言葉だったと思う。


 月日がながれ、私が高校生の頃、気づいたら、歯医者が無くなっていた。母に聞いたら、

「夜逃げしたらしい」

 驚いた、ホントに驚いた。
あんなに歯科の待合室は、人でいっぱいで倒産なんてするはず無い、と思った。

「お父さん、仲が良かったのに知らなかったの?」

 母は、ずいぶん前から父は個人的に行き来はしなくなってた、みたいに答えて

「そうなんだ」

としか言えなかった。

 大人の世界も色々あるんだなぁ。
その頃は、そう思っただけだった。

 あとから分かった事は、先生は骨董品収集や、絵画好きなど多趣味だった事により多趣味が生業を壊してしまったという事だったらしい。

 確か、お子さんはいなかったと思うから、奥さんと何処かに暮らしているんだろうか。

 私の住む街並みも変わって、歯科のあった場所は、アパートが建っている。

 思い出の場所は、どんどん無くなっていく。


 ふと思い出した中学生に頃の話でした。

 読んでいただき、感謝です。

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