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【おしゃれにまつわるエッセイ2】ネットショップ徘徊


 どうしても長年なおらぬ癖がある。癖とはなおらぬから癖なのであってなおそうと思って遠ざけようと我慢すればするほどストレスになって爆発してしまうのでもう開き直るしかない、あきらめよう。年に二、三度は自己嫌悪するこのループ。ネットショップ徘徊。巡るよりも徘徊というほうがしっくりくるのは病的なまでの執着、画面への張り付き具合なのだ。こわ。気づいたら半日経っていたなんてことはザラである。
 最初は、バッグがほしいなぁ、パソコンも入るおおきめの、でも薄めで幅をとらないやつ、からのー、あ、これにあう靴とかほしいな、ベルトとか小物全部同じ色にして、とコーデを頭のなかで想像し、服はしばらく買わぬけど秋になったらやはり白いワンピース一着ほしいな、着回しきくやつ、シンプルにかっこよく、ね! おとなはシンプルでこそだよ! といってるそばからなぜか柄ものの派手なワンピースに目がいき、このシルエットめっちゃかわいいそして柄、夏はまだまだこれからなのだしさらっとワンピ、レーヨン好きなんだよなぁ、わかっているかシンプルにだよ派手なのはいっぱい持ってるからねと言いわけしつつチャイハネへのときめきどうしてくれよう、ポチったのはやはりグリーンとイエローが混じりあったタイダイの、エスニックなワンピなのであった、あれおかしい。お目当てのバッグはいずこ。
 ていうようなことを毎月繰り返しているような遠いような近いような記憶。昔はもっと間隔が狭かった。今はおちつきはらってこうやって文章を書く時間、とても心地よく過ごせているのだが、徘徊中はやはりなんらかのストレスを抱えており解消したく、なにも考えたくねー不安がりたくねー現実みたくねー、とネガティブを押しこめるための行為だったような気がしている。ポチったときの快感、安堵。再び不安。お金がないの呪い。とまらぬ欲望。超後払いへの期待。徘徊。わたし病気か? うん、病気なのだと思う。ふと我にかえるたび虚無。気づけただけでもよしとしようじゃないかと思える寛大さを持っていたい。
 これはよくないことなのだと思うより、こころのケアなのだと思えば罪悪感に苛まれることも幾らかなくなるかもしれないと思っている。確かに衝動にまかせてそのときどきは絶対にほしいと思っていたものを、あとになってなぜ、と後悔し、充分わたしは傷ついた。満たしたはずなのに癒されず、必要だと思っていたものが手に入った途端、不要になる。持って数ヶ月かそこら。でも確かに、あのときのわたしには必要だったものだ。こころを満たすために必要だったものなのだ。

「よく考えて買って」
「ちゃんとお金の計算をして」
「将来のために今は我慢して、稼げるようになったら買いなさい」
 
 母によくいわれていた言葉が今でもわたしを縛っている。それは真実だろうか。使わないことが、我慢することが正しいのだろうか。この病的なまでの衝動を、ほんとうに「悪」といっていいのだろうか。徘徊が止まらなかったころも、おちついた今も考えている。お金の使い道を。なぜ今がおちついているのかも考える。わたしには「ある」と気づけたからだ。お金は「ある」と気づけたからだ。服が「ある」と気づけたからだ。寝る場所がある、食べものがある、本がある、会いたいひとに会いにいくためのお金がある、と。お金は巡るのだ。ないない、と焦っていたあのころより「ある」に意識を向けられるようになった。わたしのこころは真に満たされている。
 親のいうことの正しさと、縛られる恐怖と、離れるべき勇気。自分には必要なもの、他の誰かにとっては必要でないもの、必要ではないけれど絶対に必要なもの。手放すべきものとそうじゃないもの。残すべきは。目にみえる「悪」はほんとうに「悪」か。徘徊は「悪」か。一時的にでも救われるならば、一概に「悪」とはいえないのではないか。わたしにとってはきっと風通しをよくするための行為だった。
 結局のところ、わたしはバランスと理由を考えた。どうしたって止まらぬ徘徊は「悪」ではなく、こころを守るための必要な行為で、買うときはよく考え自制し、ウィッシュリストに保留。どうしても買いたいときは身近なひとへのプレゼントをえらぶ。買う、という行為をしたいだけなのだから自分のちょっとほしいには意識を向けず、生理前は厳重注意。「みる」だけなら罪悪感を抱く必要なし。この行為は許されるべきもの。そう、許されるべきもの。意識を書きかえて。これはわるいことじゃない。そうやって自分を許していく。これからも堂々と徘徊してやろうじゃないの同士諸君。


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