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意識ではなく、身体性を求める。

今日は6時前、目覚ましが鳴る前に起きることが出来た。昨晩は、珍しくお酒を飲んだせいか、2度ほどトイレに起きた。お酒と言っても、梅酒をうすーく伸ばしたやつだ。めっきりお酒は飲めなくなってしまった。ただでさえ弱かったのが、30代に入ってから、飲み会にも行かなくなって、家でも飲まなくなったので、どんどん耐性がなくなったいった。健康には良い。体に合わないものはなくてよいのだ。ただ、飲みたいとは思うのだ。奥さんが飲むビールを一口だけもらう。それで十分だ。

この数日、少しイライラしやすくなってしまっている。これが溜まっていくと、爆発してしまう。これに気がつくことができているだけ、随分マシになってきていると思う。いわゆるガス抜きが必要だ。イライラしているときは、奥さんに「イライラしている」と言葉にしていう。そんなことは見ればわかるのだろうが、わざわざ口にすることに意味がある。

1つは、自覚するということだ。自分で客観性を持つことができる。症状として自覚することで、自分への関わり方を変えることができ始める。線をちゃんと引く、ということだ。境界線がないままだと、曖昧になり、うやむやになる。そして、いつの間にか不満爆発になるのだ。

2つ目は、自分以外の誰かに、自分に関わってもらうことができるからだ。関わってもらうという事実が生まれる。イライラしているから助けてほしい、とまで言えればもっと良い。自分ひとりでは自分のことをコントロールできなくなってきているから、一緒になんとかしてもらえないだろうか、という懇願だ。イライラしている状態は、アウト・オブ・コントロールな状態なわけで、もはや自分が自分の操縦席に座っていない状態である。バーサーク状態というか。操縦席に座っているのは、もはや自分ではないのだ。

意識を取り戻す、という言い方は、この場合不適切だ。なぜなら、意識に乗っ取られた状態が、イライラ状態だからだ。意識を追いかけ、原因や責任を追いかけ、そうしている状態のことを指す。身体性を一切欠いている。

身体性があれば、心地よさやリラックス、温度感を追い求める。それに従えばよいのだ。心の声を聞く、なんてことはコチラ側のことだ。

意識なんてものを信用してはいけない。重要なのはいつも身体性だ。

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