我が家の記憶

週明けの現実からひと時ばかりの現実逃避のために、いつも日曜日の夜は外出するのですが、日頃の不摂生による疲れが溜まっているのか、本日に限ってはそんな気も起こらず、ビックバンドのリハ後はずっと家にいました。そして「今日こそは休肝日にするぞ、今日ならできる!」と堅い誓いを立てました。


実家に住むにもかかわらず、平日は遅く帰宅し、休日は深夜まで鉄砲玉な愚息は、たまの機会に両親・祖母と夕食を取り、慎ましやかな団欒をするのも孝行の一つと思ったのですが、母親・祖母は昼飯を遅く食べたので夕食を取らず、父親は弟と飲みに行ってしまったので、その目論見は叶わぬ運びとなりました。

仕方がないので一人で冷蔵庫を漁っていると泥酔状態の上機嫌な父親が帰宅し、母親からの冷たい目線を背に、千鳥足という名の優雅なステップで足取り軽く自室へ雪崩れ込み、数秒後にはArbert Aylerの咆哮ばり思わせるイビキを撒き散らしながら、夢の世界へ旅立ちました。

私は幼少期から成人する頃まで、父親と会話をした記憶は皆無と言っていいほどでした。平日は帰宅するのが遅く(しかも泥酔)、休日の素面な間は言葉少なく自室に篭って本を読みふけり、夕食の時にしか部屋を出ない、なんだか不気味な存在でした。また頻繁に終電を逃したのち、「僕はどこにいるでしょうか〜!?」という深夜とは思えない陽気で鬱陶しい電話を近鉄東花園駅から自宅にかけ、母親は生駒の山中より幼い私と弟を車に放り込み、深夜の阪奈道路を大阪へ足繁く通った物でした。このご時世であれば、Twitterでの炎上必須案件の代表作の様なエピソードです。

「オカン!こんなロクでもないヤツと早く別れたほうがええで!」幼い私は何度か母親に田中正造を彷彿とする直訴をしましたが、母親は意に介す事なく、両親は今日に至るまで仲が良く、頻繁に二人で旅行に出かける始末。

思い返すに、父親の良い所に家族の悪口を言わず、やりたい行動に反対を一切しない事が挙げられます。母親も職を持ち猪の様に打ち込むあまり家にいない事が多く、また性格的に専業主婦には向かない人ですが、父親は「自分の好きな事したらええねん!出来ない事はせんでええねん!なんでもええねん!」といつも口癖の様に言い続けていました。(酔っ払いながら)

幼少のまだ真面目だった私は、なんと惚けた事を言うのだと憤っていましたが、まだ1980年代後半という女性は家に入るべき、といった現代では化石の様な価値観がはびこる世間において、この父親の性格が母親の気持ちを幾ばくかは軽くしてくれたと、母親が語った事があります。(酔っ払いながら)

今日私ができる孝行とは、家族を想う事、そして我々家族の泥臭くも愛おしい思い出に浸る事だと思いました。その為には冒頭の堅い誓いを断腸の想いで破る事も致し方ない事なのです。


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