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愛と不平等

「愛してる」と言えない男

ある種の外国文化のなかで育った女とつき合ったりすると、「私のこと愛してる?」と事あるごとに尋ねられる。自分の元かみさんなどもそうであって、これに確信をもって即答しないと、笑いごとでは済まされない。だが、自分などはなかなかこれができなかった。それが彼女を怒らせ、またそれ以上に悲しませもしたにちがいない。

「愛してる」と素直に言えないのは照れもあるのだが、嘘をつくのが嫌いな(というか正答でないもの言うことを恥とする?)日本人の真面目さもある。今は日本もだいぶん変わったから事情が違うかもしれないが、日本人のあいだであれば、自分の若い頃はまだ「私のこと好き?」程度で済んだ。そして「もちろん好きだよ」と答えても、そう良心は痛まなかった。だが、「愛してる」という言葉には「好き」より重みがある。たとえ大事な人に向かってであっても、そう簡単に口にしてしまってよいものか、という迷いが生じるんである。

というのも、愛という言葉には献身とか自己犠牲という含意がある。ただ好きであるだけではない。愛する者のために自らを進んで捧げるという意味がある。これが「愛してる」の重みである。だから「うん、愛してるよ」と答えることは、自分が愛という名に値するような十分な献身とか自己犠牲をすでに捧げてると断言することになる。これが僭越に感じられるわけである。

むろん、告白するときやプロポーズするときに「愛してる」という証文を連発された女の方としては、それこそ嘘つきである。だが、当初の情熱やら欲望が冷めてしまったときにまだ残っているこの気持ちは、果して愛であるのかどうか、不明なところがある。つき合いはじめたときのものとは明らかにちがう。こっちの方が愛だとすれば、どっちみち嘘をついたことになる。ただ順序が逆なのである。

自分なんかは西洋政治思想を勉強したせいで、余計に愛について考えさせられた。だから、愛について何が言われてきたかの知識だけは他人よりあると思う。だけども、知れば知るほど愛というものがわからなくなる。神の愛から親子の愛、純愛から性愛、ひとつのものやひとりの人だけを愛する偏愛から、人類愛や動物愛みたいに広く万遍なく愛する博愛みたいなものまで、ぜんぶこれ愛である。その共通項は何であるのか。

今日もっとも一般的な意味では、愛とは何かを強く好む気持ちである。「好き」の最上級である。だから、「私はチョコレートを愛してる」とか「ボクシングを愛してる」と言うこともできる。だが、それだと愛すると好きの違いは程度の差にしかすぎない。なぜわざわざ違う言葉を用意する必要があったのか。

しかも、そうだとすれば、夫婦や恋人同士でも、当初の高揚感が失われるにつれて愛の量もまた減少する、という結論になりかねない。「やばいくらい好き」だったものが、「まあまあ好き」から「ふつうに好き」になっていく。それもぜんぶ「愛してる」に含めてしまえ、という乱暴な議論もありうるが、そうなればもうその言葉独自の意味は失われる。やはり無私、献身、自己犠牲などという内容を切り捨てては、愛は考えられないのではないかと思う。

純粋な愛と内面性

ところで、たぶん子どもなんかにとっては、自分を愛する人を見分ける基準は明瞭である。無理強いせずとも自分の欲するものを与えてくれる者が、自分を愛している。その際に、子どもは相手の意図や動機などを詮索はすまい。つまり、その人自身の利益にもなるからそうしてるのか、本当に自分のためだけにやってくれるのかは、子どもにとってはどうでもよい。

しかし、少し成長すれば、この区別は無視しえない。この人が自分に飯をおごってくれるのは、自分を喜ばせることだけを考えてるのか、それとも何か別の見返りを期待しているのか。これが大問題である。なぜなら、これによって、その人が自分に抱いている感情が愛であるのか、何か別のものであるのかが判断される。

というのも、無私の献身とか自己犠牲というのが愛のひとつの特徴である。自分の利益も考慮しているということになると、その愛は嘘でなくとも不純になる。だから相手の意図や動機を無視しえない。相手の内面を解釈しなければならない。

だが、突き詰めて考えると、この区別も曖昧になってくる。親の子に対する愛、恋人の恋人に対する愛、王さまの臣民に対する愛などといったものは、なんの見返りも期待しない純粋に利他的な気持ちであるのか。親や王様は子や臣民に期待するところがあるし、恋人にはやはり何かを期待せずにはいられないのじゃないか。

なかには純粋に無私の愛に見えるようなものも、確かにある。自分にはなんの得にもならないようなことを他人のためにやってあげるような人がいるし、そんな気持に一度もなったことがない人もたぶん少ない。

しかし、年とってから面倒見てもらいたいとか、ご飯で釣ってベッドに連れ込みたいとか、ご機嫌とって文句言わずに家事をやってもらいたいとか、そういう直接的な見返りとはかぎらない見返りだってある。人から感謝されたいとか、世間の賞賛を浴びたい、もしくはただそうすると自分が気持ちがいい、などといった理由で慈善を行なうことだってある。本人がそれを意識してるとはかぎらない。

真の愛がいかなる見返りを求めない愛であるならば、それを見極めるのは至難の業である。それというのも、内面性には闇がある。他人はおろか自分でも見通しがきかない。他人の内面を底まで知り尽すなどということが、そう容易にできるものじゃない。

内面性以前の愛?

子どもがそんなことに頓着しないのは、子どもは外面とか内面とかを区別しないからである。というのは、まだ内面性ということを学習していない。だから眼に見える行為をもって愛の有無を判断する。もう一つある。子どもは自分が欲しているのに自分にとって悪いものがある、ということをまだ理解しない。自分の欲望や要求の当不当を判断する能力がない。

ということは、子どもが愛というものを区別するようになるのは、この二つを学習してからである。つまり、自分の欲望には正当なものと不当なものがあるということ、もう一つは、ヒトには内面というものがあって、外面はそれを裏切ることもあること。これである。

この二つは互いに関係している。自分の欲望が不当であると考えれば、その欲望を隠そうとする。隠してその目的を達しようとする。自分自身にさえ嘘をつく。であるから、裏表ができる。外に出るものと内に秘めたものに乖離が生じる。そしてこの体験を他人にも当てはめてみたときにはじめて、どうもこいつの言うことは怪しいという疑惑が生まれる。この複雑な区別ができるようにならなければ、純粋に無私な愛などというものは考えられない。

これは個体の話であるが、種としても同様かと思う。人類もまた原初においては子どもであった。動物と同じように、自分に都合のいいものを愛し、都合の悪いものを憎む。それで充分であったと思われる。

これだと非常に単純明快でよろしい。見返りを求めない愛というのがあまりに敷居が高いとすれば、次に考えられるのは等価交換としての愛である。愛する人が求めるのは愛されることであって、それ以上でもそれ以下でもない。互いに同じだけの量の愛を与えあっていれば、それは純粋な愛であるといえそうである。

だが、愛を交換関係の類比で語るさいには困難が伴う。いくら内面性を認めたとはいっても、ひとが内面にもっている愛の量は比較考量できない。やはり外に現われた指標によって愛の深さを図らざるをえない。愛はなんらかの形で外化されなければならないのである。

露骨には問われることは少ないが、私のためにあなたは何をしてくださるの、というのが昔から愛を測定する際の基準である。そうやって求婚者に競争させたうえで、勝者を選ぶ。かぐや姫なんかは求婚者を追い払う方便としてこれを利用したが、多くの民話では困難な試練を乗り越えた者がお姫様を獲得する。「こんなに頑張れたのは、あなたのためだからです」が外面的な成功を内面的な愛の強さに翻訳する鍵だ。

でも、そうなると、「愛」というのは「力」というものと関係してくる。力とは「できる」ということであり、与えられるようになるためには、まず所有しなければならない。愛するに値する人とは、自分の欲するものを与えてくれる力をたくさんもつ者であり、それは多くを所有している者である。ということは、愛されるためには力がいる。力のないものは、愛することはできるかもしれないが、その愛を表現することができない。

子どもが親を愛するのは、親の世話なしには自分の生命が危ういからである。臣民が国王を愛したり、国民が国を愛したりするのもそうかもしれない。妻の夫に対する愛にも、かつてはこれが多く含まれた。ひとは自分を危険から守れる力がある者、自分の欲するものを気前よく与えてくれる者を愛する。親や夫、国王や国家は、妻子、臣民、国民のこの弱みに付け込んで恩を売る。そして見返りとして愛(忠孝貞)を要求する。

だが、これは厳密な意味での等価交換とは言えない。力の不平等を前提としている。一方が他方の欲するものを所有している。与えることも奪うこともできる。もう一方は、与える力を必ずしももたない。であるから、将来与えることができるときに返済するという約束をする。それが忠孝としての愛である。

これは神と人間のあいだの愛にも言える。神は与えることができる。だが人間は神に与えるべきものを何ももたない。だから人間の愛は神から見返りを要求する資格がない。それでも神は与え、その代わりに人間の愛を要求する。その要求に従順にであるかぎり、神は人間を愛したもう。

不等価交換は富の再分配を容易にする一方で、政治的不平等を再生産する。貸し方・借り方が明確にされておらず不透明なところがあるから、濫用されやすい。与えられる者が最後には多く与えてることになってしまいかねない。「タダより高い物はない」という警句なども、そうした経験から出てきたものであろう。

つまり、愛は不等価交換の不足分をを埋め合わせる契約みたいな役割を果たすわけで、そこには、返済に換えて私はいつでもあなたの奴隷となって働きます、というような文言が書いてある。これが無私の愛に見えるのは、ただ借金をいますぐには取り立てないという点にあるにすぎない。そのかわり、いざ鎌倉となったら、いつでもわしの命令に従えるようスタンバっておけというわけである。

ナワバリ行動と求愛

自分がなぜこんなことを考えてるかというと、人間のナワバリ行動を観察していて、意外なところで愛の問題にぶつかったんである。アンチ・ロマンティックな露悪家の話みたいになっているのはそのせいなんだが、この新たに発見された道が一体どこにわれらを導くのか、まずは行けるところまでは行ってみないとならない。自分の「お気持ち」は、このさい二の次である。

人間(特にオスかもしれない)にもナワバリ行動みたいなものがある。ナワバリ行動とは一片の空間とそこに所属するものを囲い込んでいくことだから、究極の反社会的利己主義に見える。だが、ナワバリには社会性、とくに求愛行動という契機が含まれていそうなのである。

今日であれば、他人から愛されたいと思ったときに、ふたつ戦略がある。一つは内面を美しくして愛される人間になること。人間の価値は何を所有しているかではなく、何者であるかで決まる、という思想である。だが、先も言ったように、これは内面性というものを前提するもので、比較的新しい考えである。

内面性というものが考えられない状況で愛されようと思えば、もう一つの戦略に頼るしかない。つまり、他人が欲しがるものを気前よく分配することである。だが、気前よく配るためには、まず十分な量を所有しなければならない。そのためには、まず自分のナワバリを築き、他人を排除しなければならない。そうしておいて、自分に献身を約束する者にだけ気前よく配るのである。

言ってみれば、内面性という概念がなければ、人間は自分を内に深めることができない。であるから、自分を外に向けて拡大するしかない。ナワバリというのは自分の身体の拡張である。ナワバリに所属するものは自分の身体の一部となって、自分の意志の管理化に入る。ナワバリを拡張することにより人は力を増大する。それだけがよき人間、愛される人間になる道である。

むろん、ナワバリの増大自体が目的化してしまうばあいもある。ディケンズの『クリスマス・キャロル』に出てくるケチな金貸しみたいに、富を囲い込んでしまいこんでしまう。そうやって、ひとびとから嫌われてる。いつかも書いたが、生命エネルギーみたいなものがぐるぐる循環して富が生産されるという古い経済観がある。この観点から見れば、ケチは宇宙からこのエネルギーを抜きとって、宇宙自体の生命力を弱らせてしまうという、最大級の非難に値する行ないである(以下リンク参照)。

だが、おそらくこのような行動は貨幣の普及によって富の蓄積が容易になった時代以降のことである。同胞の愛という当初の目的が富の物象化によってズレたケースではないかと思う。というのも、いくら蓄積しても貨幣という富だけでは人は生きていけない。

これもいつか書いたが、労働者の要求を嫌う資本家とか経営者が、なぜ資産ごとタックスヘイブンみたいな金持ちの王国に移住してしまわないかというと、労働がなければ資本は価値を失うからである。労働者のいない国の資本家とは、臣民のいない王国の国王である。他人を自分の意志に従わせることによってしか資本家は資本家たりえないのであって、やはり他人の献身や自己犠牲を必要とするからである(以下リンク参照)。

だから、有力者は嫌われるとはかぎらない。むしろ、歴史から判断するかぎり、力と気前のよさをもち合わせる人はほぼ常に愛される。かえってケチは無力に伴いやすい。だから弱者は愛されない。そういう理屈になる。

そうなると、愛を求めること、それによって自分を高めることは平和につながるとはいえなくなる。それどころか、愛されたいという願望、自分を高めようとする志が、ナワバリ競争を激化させる原因であるともいえる。

平等な世界の愛

ちょっと横道にそれたが、今までの話をまとめると、自分が思うに、もともとは愛というものは不平等な者のあいだに伴う関係性のことであった。一方には与えることができる者がいて、他方には与えられるだけの者がいる。等価交換にならない。そういう交換を可能にするために動員されるのが、愛という感情である。

だから、厳密に言うと、この愛は個人内部で自己完結する感情とか状態ではない。上下二つの方向が対になった関係性である。一方は、すぐに見返りを要求しないという意味での無私の愛がある。下降する愛である。他方では、返せない負債を埋め合わせるための献身や自己犠牲への意志という意味での愛がある。これは下から上昇する愛と呼べる。それによって不等価交換が正当化される。儒教の用語であると、与える方の愛は仁、与えられる方の愛は忠孝、などと区別されておる。これを「愛」という言葉でひとくくりにしたところに、多くの混乱の原因があった。

それにも長い歴史がありそうだが、その尻尾の部分だけを語れば、タテマエ上は万人が平等の世になったことが関係ありそうである。不平等な者のあいだの関係であった愛が、平等な者のあいだの関係にも適用されるようになった。仁も忠も孝も貞もみな愛になった。だがそれゆえ、愛は多くの矛盾を内部に抱え込むことになった。

第一に、等価交換が人間関係の一般的規範となったデモクラシーにおいて、愛はむしろ献身、自己犠牲、無私の愛という、等価交換の外にある領域としての重要性を増した。見返りを求められない関係が培われるのが愛の領域である。だが、もとより不平等な者のあいだに交換を可能にするのが愛の機能である。これが平等な者のあいだにもち込まれると混乱が生じる。

すなわち、第二に、平等な世の中とはいえ、「力」は不平等に分配されている。主観的には無私の愛を信じる近代人も、客観的にみれば、自分の欲するものを多く所有する者を愛する。他人に頼らなければ生きれない弱い者であればあるほど、そうせざるをえない。女は収入の低い男に見向きもしない、やっぱりその人の中身より所有物を愛しているんだ、と言うのはミソジニーの言葉ではない。臆面のないロマンティック・ラブの信奉者の言葉である。

だが、第三に、愛の前提となる不平等性は否定されてしまったがために、この事実は隠蔽されつづけなければならない。そのために、与えられる者は同じだけの量を与え返さなければならなくなる。私の愛に対してあなたは何をもってきてくれるの、という問いが露骨に投げかけられることになる。

だが、すでに述べたように、内面的な愛の量は、外面的な献身や自己犠牲の程度によってしか計ることができない。「何もしてやれないけど、愛してるよ」とか「いや、いつも感謝してるんだよ」という言葉も、いつかは形になって換金されないと空手形になる。

最後はやはり家事を五分五分に分担するとか、貢献に見合っただけの報酬を分け与えるといった要求と向き合わないとならなくなる。言ってみれば、無私の愛を証明するためには、利己主義を前提とした平等な分配という怜悧な交渉を迫られるのである。

言ってみれば、かつては不等価交換の隠れ蓑として使われた愛が、今では等価交換の根拠として要求されるようになったわけである。この分配交渉に引きずり出されることに対する無意識の忌避が、「愛してる」と素直に言えない男のずるさのようである。

「愛してるよ」という代わりに

「私のこと愛してる?」に対して「愛してるよ」と素直に答えられない理由は、ここらにある。それだけではない。世の中に愛を説く人(愛という言葉を必ずしも使ってはいないが)が増えれば増えるほど、それに反比例して世の中の愛が希薄になっていくように感じられる、という逆説ともまた無縁でなさそうである。

だが自分に正直たろうとして「愛してる」を封印してしまえば、あとは「力」を蓄積することによってしか人の愛を得ることができなくなる。現実に、そういう方向で愛されようとする人が増えてるように思える。それがナワバリ争いを苛烈なものにもする。このばあい、「愛してる」の嘘のほうが、なにか理想主義的な救済力を秘めているのである。

神と人間のあいだの愛の類推で考えれば、人間は神を愛する義務を課されている。だが、人間は不完全であり弱い。神を愛しきれない。そうして罪を犯す。だが、神はそれをも承知している。だから赦す。しかし、赦す条件として、「われを愛しきれなくても全力で愛せよ、そうして自分を苦しめよ、さすれば汝はよき人間となれる」というのが付いてくる。

「愛してる」とは、元来彼我のあいだに不平等があること、つまり自分は愛されるに値しないことを認めた者の言葉である。なんとなれば、自分は力不足だからである。それにもかかわらず自分を愛してほしい。この「それにもかかわらず」の代償として、自己犠牲や献身を外面的に示すことを迫られる。

だが人間は弱い。愛そうとしても愛しきれない。つい自分を優先してしまう。そうして約束を何度でも破る。それにもかかわらず自分を見捨てないでほしい。赦してほしい。こんな自分勝手な理屈を権利として主張できるわけがない。「愛してる」とは資格のない自分を「それでも愛してくれ」と、膝を屈して赦しを乞うことである。

愛のもう一つの方向は、赦す方である。愛される資格がない者を愛して、裏切られても与え続ける。不平等な社会においては、これが力によって他人を支配する道具ともなる。しかし、等価交換が主流になった平等社会では、むしろこれが計算づくの怜悧な人間関係からの逃避所となる。

そこには旧来の支配関係が温存される危険があるわけだが、平等社会の原理と愛の原理の緊張関係のなかで、そこに相互性を伴った愛が生じうる。与える役と与えられる役が別々の個人に固定されない。一人で二役を演じる。時に応じて役が入れ替わって演じ続けられる。

そうやって、愛される資格のない者同士が、お互いを愛そうとして苦しむ。お互いが自分の欲するものを与えるよう求め合うとともに、厳密な等価交換を要求せずに赦し合う。そうすることによって、お互いが与えられるだけではなく与える人間になってゆく。互いが互いをよき人間に育てられる。

そういう可能性が、少なくとも理屈上は考えられると思う(心もとないのは、実際にそういう事例がどれくらいあるか、現行の社会はそういう関係を育むような環境を用意しているか、という点であるが)。言ってみれば、愛という感情も、平等な社会の空気を呼吸することによって、元来もっていた片務的な性格を弱めることができる。そういう希望はもってもよろしいのではないか、と思うわけである(むろん、これはまだ現在進行形の過程である。片務的な愛の犠牲者たちが抗議の声を上げることも、この過程の一部である)。

そう考えて、次に「私のこと愛してる?」と問われたときには、「いまの自分が愛せているかどうかわからない。でも愛するようにもっと努力するよ。これからもずっと」と答えればよかったと今になって思う。そうすることによって、誰かを愛することが、今の自分を超え出ていく試練を自らに課すことにもなる。それが利己なのか利他なのかは、たいして重要な問題ではあるまい。

だが、これも自分にとってはまた遅すぎた後知恵である。これから大いに愛し愛されようと願う者たちの参考にでもしてもらえれば、それでよしとしよう。

コーヒー一杯ごちそうしてくれれば、生きていく糧になりそうな話をしてくれる。そういう人間にわたしはなりたい。とくにコーヒー飲みたくなったときには。